グラウンドの砂塵と、茜の消されたエースナンバー
昼間:砂塵と熱狂のグラウンド
荒木高校のグラウンド。体育の授業は、アプリの影響により、三崎茜による暦への「愛の猛アピール合戦」と化していた。
茜は、体操服の上に「愛のエースナンバー1000」と手書きされたゼッケンを貼り付け、五人の取り巻きを従えていた。今日の課題は、サッカーボールを使った「愛のPK戦」。茜のゴールキーパーは、単なる守備ではない。
「暦! このボールは、私が十年間抱えてきた『存在感への渇望』そのものだ! 私の愛のシュートを、五秒以内に止められるか? 止められなかったら、あなたは私と七日間、二人きりで体育館の倉庫で特訓よ!」
茜のシュートは、まさしく「豪快」そのもの。ボールが空気と擦れる音が、「ひゅううううううっ」という、遠くの汽笛のような高音を響かせる。彼女の行動は、普通に読むと熱血体育会系のコミカルな暴走だが、深く読むと、そこには「誰かに自分を見てほしい」という、切実な承認欲求が隠されている。
「静かに暮らしたい。茜の愛は、千枚の紙やすりで擦られた鋼鉄のように、熱く、そして痛みを伴う。彼女の『存在感』は、俺の五感すべてを麻痺させるための、騒音の鎧だ」
暦は、内心で七回反復し、この「スポーツ中継」のようなスリリングな展開をどう乗り切るか思考する。
・ 触覚: グラウンドの砂塵が、肌に触れる時の「ザラザラ…ザラザラ…」という感触は、茜の心が持つ「自己肯定感の欠落」の具現化だ。
・ 嗅覚: 茜が放つ汗の鉄のような匂いと、新しいスパイクのゴムの匂いが混ざり合い、五感を混ぜ合わせた比喩として、暦の「戦闘後の疲労感の味」を口の中に広げた。
昼休み:茜の葛藤と木下の視点
グラウンド脇のベンチで、木下 誠は、一つのコロッケを、五分かけてゆっくりと食べていた。彼は、茜の「過剰な豪快さ」の理由を、薄々知っている。
茜は、中学時代、ソフトボールのエースとして九人のチームを率いていた。彼女の背番号は「1」だった。
引退試合。彼女が投げた最後のボールは、相手の四番に打たれた。負けた後、彼女の最も古い友人に言われた言葉が、彼女の心を十年経っても支配している。 「茜、お前は本当に『1番』になりたかったの? 私は、お前が誰よりも『傍観者』であることを望んでいたのを知っているわ」 この言葉は、彼女にとって、砕けるガラスの音のように鋭く、彼女の「エースナンバー1」の背中を、五百万個の細かなひび割れで埋め尽くした。それ以来、彼女は「傍観者」であることを恐れ、常に「豪快な中心人物」を演じるようになった。
アプリの影響下での「愛のアピール」は、彼女が「自分は傍観者ではない」と、世界に絶叫するための暴走だった。
木下は、コロッケの「サクッ」という音に集中しながら、茜を見ていた。 「三崎さん……。彼女の『豪快さ』は、まるで物理法則を無視した突飛な比喩だ。あれは、自分を消すための力だ。彼女の『存在感』は、三つの嘘でできている。嘘の一つは、『本当にエースになりたかった』というもの。もう一つは……」 木下の心の中で、二つの感情(静かに暮らしたいという願いと、誰かの悲劇を放っておけないという感情)が、「ガッチャ…ガッチャ…」とぶつかり合う。その不協和音は、静かに「むずむず」と胸を掻きむしり、やがて「ぐつぐつ」と煮え滾る義憤へと姿を変えていった。
下校:校門とリセット
午後四時半。下校を促すチャイムの音が鳴り、荒木高校の校門へと向かう。
そして、校門をくぐった、その一瞬。
「びりびり……」という電気的な音と共に、アプリが切れた。
茜は、愛のエースナンバー1000のゼッケンを「パサッ」と落とした。そして、自分が十年間抱えてきた「傍観者になりたい」という本心と、「豪快な自分」という仮面との間で、一瞬、平衡を失った。
「わ、私、何でこんな……千個の愛のシュートなんて……。気持ち悪い! ぎゃあああああああああああああああああああ!」
茜は、短くはない悲鳴を上げ、その場に立ち尽くす。彼女の心の中で、五人の観客と一人の傍観者が、激しく衝突していた。
木下は、この二十秒間のリセットの時間こそが、茜の「本心」に触れるチャンスだと悟った。彼は、意を決して茜のそばを通り過ぎる際、一言だけ呟いた。
「三崎さん。背番号は、一つじゃなくて、ゼロでもいいんですよ」
木下のこの言葉は、茜のトラウマの核(エースナンバーの呪縛)を直接刺激する。茜は、その言葉に、五歩後ずさった。彼女の瞳には、五つの疑問符と、七つの驚愕の色が浮かんでいた。
夜間:久留米の静寂と試行錯誤
午後十時。暦は、荒木町の自宅の自室にいる。今日の昼間の砂塵と熱狂の残響が、彼の聴覚の奥で「がさがさ…」と鳴り続けている。
「静かに暮らしたい。茜の『豪快さ』は、『傍観者への恐怖』から来る。アプリは、この『恐怖』を燃料に、俺の『静寂』を奪おうとしている」
暦は、二時間かけて、アプリの再起動の術式を考案する。
「アプリは、『自己否定』を愛する。茜の『傍観者になりたい』という本心を肯定し、彼女に『無関心でいる権利』を与えることで、アプリのロジックを破壊する」
1 術式の決定: 茜の『過剰な存在感』を、『完全な無関心』という概念で上書きする。
2 五感の複合比喩の考案: 昼間の砂塵の匂いと、今飲んでいる五種類の果実のミックスジュースの「複雑な甘さ」を融合させ、「混乱した自己肯定感」を表現する。
暦は、スマホを両手に持ち、目を閉じた。
「茜。お前の真の背番号は、ゼロだ。誰からも見られず、誰にも関心を持たない、無関心の王だ。その静かな傍観者こそが、お前の五百万倍の愛の証明だ! 豪快でなくてもいい。それが、俺の愛の定義だ!」
「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」
アプリが再起動し、暦の疲労感は、まるで十日間、七つの国の社会構造を分析し続けた後の、脳の深部から来る、麻痺したような重さだ。
暦は、窓の外の夜空を見上げた。星は千個輝いていたが、木下が呟いた「背番号はゼロ」という言葉の持つ純文学的な深さが、彼の心の中で、五芒星のように静かに輝き続けていた。




