購買の残響と、静寂に沈む久留米の夜
昼間:購買の密室劇
荒木高校の昼休み。購買部前の廊下は、まさに「スポーツ中継」のようなスリリングな緊張感と、「舞台演劇」のような密室の騒乱に包まれていた。
今日の騒動の震源地は、二階堂凛。彼女は、五台の電卓と、三枚の巨大なグラフ用紙を購買部のレジ台に並べ、白い研究用ガウンの裾を翻していた。
「暦。今日のあなたの昼食の最適解は、このグラフで示されているわ! カロリー、栄養バランス、愛情度、すべてを三時間かけて計算した七角形のグラフよ。購買のおばちゃん、このグラフの示す通り、十種類の具材を組み合わせた『愛の特製サンド』を、五つの異なる形状で提供しなさい!」
凛の瞳は、愛と数学の狂気に満ち、まるで灼熱のアスファルトが太陽光を反射しているかのように、ギラギラと輝いている。彼女の背後には、千人の購買客の列ができており、誰もが一歩も動けない。
「静かに暮らしたい。なぜ、俺の昼食の献立が、五次元の愛の定理を証明するための道具にならなければならない? この状況は、まるで『無意味なことに全力を注ぐ』という、ユニークで意外性のある比喩そのものだ」
暦は、内心で五回反復し、このカオスをどう沈静化させるか思考する。
その時、一ノ瀬桜が、九十度の直角を保ったまま、凛に論戦を挑んだ。
「凛さん! 愛は、計算では測れない『無限の詩』です。あなたの愛は、まるで二分の一の栄養しか含まない、無味乾燥な数式だわ!」
「馬鹿ね、桜! あなたの詩は、四次元の感情を二次元に押し込めた、過剰な言葉の暴力よ! 私の数式こそが、愛の七つの真理を内包している!」
二人の概念の衝突は、購買部全体に物理的な影響を与えた。凛の電卓からは、「チリチリ…」と高周波のスパーク音がし、桜の俳句の短冊からは、「ひゅう…」という、風を切るような虚しい音が響いた。この音響効果は、まるでドキュメンタリー映画のクライマックスのようだ。
暦は、この騒動の最中に、五感を総動員する。
・ 嗅覚: 特製サンドから漂う八つの香辛料の匂いと、凛の研究用ガウンの微かな薬品の匂いが混ざり合い、脳の奥で「むずむず」と疼く。
・ 味覚: 口の中に広がるのは、勝利の鉄の味ではなく、圧倒的な疲労感による、「鈍い鉛の味」だ。
・ 触覚: 凛のグラフ用紙が、腕に触れた時の、「乾いた紙の擦れる音」のような冷たい感触。
下校:アプリが切れる瞬間
チャイムが鳴り、午後の授業が終わり、荒木高校の校門へと向かう。夕日が、久留米の街をオレンジ色に染めていた。
そして、校門をくぐった、その一瞬。
「びりびり……」という微かな電気的な音。その音は、暦の心臓を二秒間締め付けた。
アプリが切れた。
凛は、手に持っていた電卓を「ドサッ」と落とした。そして、自分の服装と周囲の状況を三秒間見つめ、顔面が十枚の白い紙のように青ざめた。
「な、なんで私、こんな七角形のグラフなんて……。しかも、購買のおばちゃんに、特製サンドを五つも注文して……? 計算ミスよ! まるで、宇宙の法則が四つに割れたかのような、信じられない計算ミスだわ!」
凛の心の内で、「完璧でありたい」という強迫観念が、「がっちゃん…がっちゃん…」と、重い歯車のような音を立てて衝突する。それは、彼女の過去のトラウマが、一気に堰を切った音だ。
その直後、校門の影から、木下 誠が現れた。彼は、部活の帰りで、手に二つのビニール袋(十文字屋のコロッケ二個)を提げている。
木下は、リセット直後の凛の、「完璧を失った絶望の表情」を、五秒間だけ目撃した。
「二階堂さん……。あの、いつもクールで千分の五の誤差も許さない彼女が、あんな顔をするなんて。彼女の『知性』は、彼女自身を守るための五階建ての壁だったんだ。アプリが切れた瞬間、その壁が音もなく崩壊した。古賀は、何をしているんだ? 俺は、ただコロッケを食って、静かに暮らしたいだけなのに、彼女のあの顔が、まるで遠い親戚の悲劇のように、俺の心に『ちくちく』と痛みを残していく」
木下は、一歩後退し、凛に気づかれないように、三秒かけてその場を後にした。彼のコロッケの「揚げたての匂い」だけが、この異常な状況の中での、唯一の「現実の錨」だった。
夜間:静寂と試行錯誤
午後九時。暦は、荒木町の自宅の自室にいる。周囲は、静寂に包まれている。今日のこの静けさは、昼間の騒音と対比され、彼の内面描写を深くえぐる。
「静かに暮らしたい。昼間の騒音の残響が、耳の奥で『じい…じい…』と鳴り続けている。凛の『計算ミス』への絶望は、彼女の過去の支配欲の裏返し。アプリは、常に、人間の最も弱い部分を突いてくる」
暦は、机に向かい、三時間かけて、アプリの再起動の術式を考案する。
「このアプリのロジックは、『孤独な完全主義者』の心を燃料とする。凛は、『完璧な愛情』を求めているが、その実態は『計算で愛を支配したい』という恐怖だ。再起動には、『支配できない無秩序な愛』という、アプリが最も嫌う概念を、五感を通じて注入しなければならない」
1 術式の決定: 凛の『支配欲』を、『無秩序な自己否定の肯定』で上書きする。
2 五感の複合比喩の考案: 昨晩食べた七個の煎餅の「しょっぱい味」と、今朝の筑後川の湿気による「鼻の奥の重さ」を融合させる。
暦は、スマホを両手に持ち、目を閉じた。
「凛。俺の愛は、無限の小数だ。割り切れず、支配できず、ただそこに五百万個の不確実性として存在する。その不完全な愛こそが、お前の完璧な支配欲を打ち破る、七番目の法則だ!」
暦は、指先に伝わる「冷たいガラスの感触」をトリガーに、再起動ボタンをタップした。
「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」
自室の床が二秒間、「ぐにゃり」と歪むような振動が走った。アプリのアイコンは、五分後の明日の昼休みに向けて、再び愛のエネルギーを満たし始めた。
暦は、椅子に深く沈み込み、深い疲労感に襲われた。この疲労は、まるで物理的な戦闘を十回繰り返した後の、全身の筋肉の崩壊のような重さだ。
「この戦いは、単なるラブコメディではない。これは、『個人の静寂』を脅かす『社会的な承認欲求』という名の怪物との、概念戦争だ」
暦は、窓の外の久留米の夜空を見上げた。夜空は、数千個の星を抱えていたが、そのどれもが、彼の孤独を埋めることはなかった。




