土曜日の荒木団地と、柚葉の孤独なスケッチ
暦の視点:土曜日の重力
土曜日。午前十時。福岡県久留米市荒木町の荒木団地。昭和の香りが色濃く残るこの団地は、住民の生活音が五重奏となって響く、日常の縮図だ。
「静かに暮らしたい。土曜日の午前こそ、俺にとって七つの静寂が約束された時間のはず。だが、アプリはそれを許さない。今日は、四条柚葉が、俺の五感全てを支配しようとしている」
古賀暦の家の玄関前には、四条柚葉が、三時間前から立っていた。彼女は、趣味であるスケッチブックと、十個の具材が入った手作りのおにぎり二つを手にしている。
「暦さん。おはようございます。今日、この荒木団地の五号棟から見える風景を、二人でスケッチしましょう。この風景は、千枚の愛の言葉よりも、雄弁に私たちの心を繋いでくれるはずです」
彼女の言葉は、普段のおっとりとした口調だが、その瞳の奥には、アプリの影響による「独占欲」という名の濃密な液体が「とろとろ…」と流れているのが見て取れる。
「スケッチか。俺の静けさは、風景に描かれた三本の無駄な線で簡単に破壊される。この団地は、俺の『静かに暮らしたい』という願いが、五階建ての建物の重力で押しつぶされている、その具現化だ」
暦は、内心、突飛でユニークな比喩を駆使しながら、柚葉の熱意をどうかわすか思考する。
団地の隅にある三本の並木道。そこでは、柚葉の美術部の先輩である大森 雫が、偶然にも、自身のスケッチを描いていた。
雫は、美術部の中でも二年連続で金賞を受賞している実力者。趣味は、久留米市内の七箇所の隠れた風景を描くこと。彼女は、柚葉の才能を認めつつも、その「自己犠牲的な優しさ」を心配していた。
「柚葉。あなたの絵は、いつも完璧すぎるのよ。描かれていない『行間』が、九割もあるわ。古賀くんへの愛も、そう。あの愛は、あなた自身を五つの色で塗りつぶしているだけ」
雫は、柚葉が描いた団地の絵を見た。その絵には、五号棟の窓の一つに、「誰もいない」という空虚な空間が、三平方メートルにわたって、あまりにも鮮明に描かれていた。
柚葉は、幼い頃から体が弱く、七割の時間を家の中で過ごしていた。外の世界は、彼女にとって「眩しすぎる光」であり、いつも遠い存在だった。
八歳の誕生日。友達が誰も来なかった。母親が、彼女に言った言葉が、彼女の心を十年以上支配している。 「柚葉。あなたは、誰も傷つけない、一番優しい子よ。でも、優しさだけでは、誰もあなたの心の中の空虚を埋めてはくれない。あなたは、永遠に『風景の端』にいるのよ」 この言葉は、彼女にとって、遠ざかる足音のように虚しく、口の中に広がる鉄の味のように冷たかった。それ以来、彼女の絵には、必ずどこかに「孤独な空虚」が描かれている。
アプリの影響下での「恋人」という立場は、彼女にとって、「風景の端」から「物語の中心」へ強制的に引きずり出された、「七日間の悪夢」だった。
「雫先輩……。私、古賀さんの五〇パーセントの優しさでいいから、欲しいんです。この孤独は、十個のおにぎりでも埋まりません……」
その時、「ひゅう…」という、風を切るような微かな音と共に、アプリが具現化のエネルギー切れを起こした。
「がっちゃん…がっちゃん…」と、柚葉の胸の奥で、「中心にいたい自分」と「端にいたい自分」という二つの感情が、重い音を立ててぶつかり合う。この不協和音は、「むずむず」と羞恥心を掻きむしり、やがて「ぐつぐつ」と煮え滾る自己否定へと姿を変えていった。
「私、なんで、こんな場所で……! スケッチブックを、こんな五分の一も才能のない私が見せているなんて! ぎゃあああああああああああああああああああ!」
柚葉は、四つのおにぎりを地面に叩きつけ、スケッチブックを破ろうとした。その紙が擦れる音が、静寂を切り裂く。
雫は、その戦闘描写に驚愕した。物理的な攻撃ではない、「感情の自爆」という名の戦闘だ。 「待って、柚葉! やめなさい!」雫は、破られる寸前のスケッチブックを、五秒かけて奪い取った。
「アプリは、柚葉の「孤独」を食らおうとしている。雫先輩が、柚葉の「優しさ」を肯定しようとしている。この二つの波の衝突こそが、再起動のトリガーだ」
暦は、スマホを握りしめた。彼の「静かに暮らしたい」という願いは、今、柚葉の「孤独な優しさ」を、「世界の中心」に据えるという、物理法則を無視した突飛な比喩へと変換された。
1 術式の決定: 「孤独の肯定」こそが、アプリのロジックを狂わせる唯一の解だ。
2 トリガー: 地面に落ちたおにぎりの、米粒の冷たさと、柚葉の「優しさ」からくる、口の中に広がる「薄い塩味」を意識的に反復。
「柚葉。お前の孤独は、五号棟の窓のように空虚じゃない。それは、千人の人間を優しく見つめるための、一冊の厚い観測記録だ! 風景の端こそが、世界の真の中心なんだ!」
「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」
アプリが再起動し、柚葉の瞳は再び愛の熱を帯びた。
「暦さん!私の孤独は、あなたの五十メートル四方を優しさで覆うための、二重の結界なんです!」
雫は、スケッチブックを抱きしめ、暦を五秒間見つめた。




