夜の荒木駅と、桜の完璧な孤独
暦の視点:夜に潜む違和感
午後七時。終業後の荒木駅前は、昼間の喧騒とは打って変わり、五分の一程度の光量で照らされていた。駅前のコンビニエンスストアのネオンサインだけが、「チカチカ…チカチカ…」と、リズムを狂わせたように点滅している。
「静かに暮らしたい。この七時の静寂は、昼間の百倍の疲労感を伴う。なぜなら、この静けさの裏側には、アプリの次の暴走が、九つの足音を立てて近づいているからだ」
古賀暦は、いつものように心の中で三度反復する。周囲の風景に潜む「違和感」を、より鮮明な映像として切り取ろうと意識を集中させる。アスファルトの匂い、遠くで鳴る筑後川の汽笛、そして、そのすべてを打ち消す一ノ瀬桜の過剰な存在感。
「暦くん! お疲れ様でした。今日はね、私と二人で、二十行から成る、連歌を完成させましょう。前半の十行は、私からの愛の告白。後半の十行は、あなたが私を愛する理由を、五感すべてで表現するの」
桜は、手に持った三つ折りの和紙を、まるで国宝のように丁寧に広げた。普段は古典的な静謐さを愛する彼女が、今は愛の過剰な言葉を求める暴走特急となっている。その瞳は、純粋な愛の熱に焼かれ、二重の虹のように輝いていた。
桜は、暦の腕に絡みつき、荒木駅前のロータリーを二周目に入った。
そのとき、駅前のベンチに座っていた三人組の地味な女子生徒たちが、桜の姿を見て「ひそひそ…ひそひそ…」と囁き始めた。
「ねぇ見て。一ノ瀬桜よ。いつも完璧で、先生たちからも百点満点の評価受けてるのに、古賀くん相手だと、十歳くらい幼くなるわね」 「気持ち悪い。あの完璧な桜が、五百パーセントも崩れるなんて。あれが真の顔なのよ。私たちは、ああいう歪んだ愛は理解できないわ」
この「歪んだ愛」という言葉が、桜の耳に「ガツン」と、鉄の棒で殴られたような痛みを伴って届いた。
桜は、物心ついた時から、「完璧であること」を両親に強要されて育った。成績、立ち振る舞い、言葉遣い。全てにおいて「一点の曇りもない鏡」であることを求められた。
小学六年生の時、一度だけ、友達の悪口を言ってしまった。その瞬間、親に言われた言葉が、彼女の最も深い過去の描写として脳裏に焼き付いている。 「桜、あなたは、世界で一番、醜い心を持っているわ。二度と、その醜い感情を、外に出してはいけない。あなたは、永遠に孤独な完璧さの中にいなさい」** この言葉は、彼女にとって、重い鉛の塊が心臓に**「どすん」と落ちるような感覚だった。彼女は、それ以来、「規律」と「美化」という名の透明な檻に自分を閉じ込めてきた。
アプリの影響下での「過剰な愛」は、彼女が「完璧な孤独」の中で押し殺してきた、醜いと教えられた「ありのままの感情」の暴発だったのだ。
「私、醜い……? 暦くん。五分でいい。私を『醜い』と罵ってください。その方が、私の心は七倍落ち着くんです」
桜は、突如として九十度折れたように、暦の足元に崩れ落ちた。その涙は、千本の細い雨のようにアスファルトを濡らす。
「来たか。桜の「自己嫌悪」と「完璧さ」の葛藤。アプリは、この内面的な矛盾をエネルギーに変え、三倍の力を得ようとしている」
この状況は、もはや「スポーツ中継」ではなく、「舞台演劇」のような、二人きりの密室の緊張感だ。
暦は、桜の「醜い」という自己評価と、彼女が常に求めてきた「完璧な静謐さ」の間に、再起動の糸口を見出す。
「俺の『静かに暮らしたい』という願いは、桜の『孤独な完璧さ』と共鳴する。このアプリは、社会や世界のあり方とどう繋がっていくのか? おそらく、『人間の自己肯定感』を奪い、それをエネルギー化しているのだ」
今回は、アプリを再起動させるだけでなく、一時的に機能不全に陥らせることを目標とした。
1.術式の決定: 桜の「醜い」という自己否定を、「暦の愛による肯定」という、アプリのロジックから外れた変数で上書きする。
2.トリガー: 桜の「湿った涙の匂い」と、ネオンの「チカチカ…チカチカ…」という光と音の不協和音を意識的に反復。
暦は、桜の顔を優しく持ち上げ、二秒間、彼女の瞳を見つめた。
「桜。俺が五感で感じるお前は、醜くなんてない。お前のその完璧な孤独は、まるで千年の時を経た白磁のようだ。表面は静かで冷たいが、内側には、五億の星のような光を秘めている。醜いのは、お前の感情を『醜い』と規定した世界の歪みだ」
暦の「醜い感情を肯定する」という行動は、アプリが前提とする「自己否定を燃料とする」ロジックを完全に無視した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
アプリの画面から、今までにないほどの長大な文字化けした悲鳴が発せられた。それは、単なる機能不全ではなく、怪物の断末魔のようだ。周囲のアスファルトが、三メートル四方に渡って「パキッ!」と、遠い氷が砕ける音を立てた。
桜の愛の暴走は一瞬で収まり、アプリは十時間のエネルギー切れに陥った。
「古賀くん……。今の、その言葉は……?」桜の瞳は、まるで洗われたばかりのガラスのように澄み切っていた。彼女の顔には、安堵と、「なぜ、この人は私の孤独を知っているのか?」という、四つの疑問符が浮かんでいる。
暦は、疲労感に襲われた。このアプリとの「概念の戦闘」は、肉体的な戦闘よりも三倍も疲れる。戦闘後の疲労感は、まるで五日間徹夜で哲学書を読み続けた後の、脳の最深部から来る、「ぐにゃり」とした重力だ。
「このアプリは、俺の言葉を恐れている。特に、ヒロインたちの最も深い傷を、愛とは別の角度から肯定する言葉を。この戦いは、物理ではなく哲学だ」
暦は、再びアプリを再起動させるための次の試行錯誤を心の中で始めた。
「アプリよ。俺の『静かに暮らしたい』という願いは、『お前をこの世界から消し去りたい』という、一つの強烈な意思でもある。その意思を、二週間後に現実化させてやる」
桜は、暦の横で、五分前に起きた出来事の記憶を失い、再び愛の熱を帯びていた。
「暦くん! 連歌の続きを! 私の愛は、千年の孤独にも負けないわ!」
暦は、彼女の手を取り、ネオンが「チカチカ…チカチカ…」と点滅する夜の荒木駅を後にした。




