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筑後川の霧と、凛の隠された図書館

暦の視点:静けさの破片


その日、久留米市荒木町を流れる筑後川には、朝から濃い霧が立ち込めていた。視界は十メートルほど。静寂が、まるで二枚の厚手の毛布のように、街全体を覆い隠している。


「静かに暮らしたい。この霧は、俺の願いを千倍にして具現化したようだ。しかし、この非日常の静寂こそが、アプリの次の騒動を予感させる」


古賀暦は、土手の脇の小道を歩きながら、比喩を心の中で繰り返す。霧は、微かな土の匂いと、川の冷たさを運んできており、暦の五感を研ぎ澄ませる。


その霧の向こうから、「ガッ、ガッ、ガッ」という、硬い金属がぶつかり合うような、リズミカルな音が近づいてきた。


現れたのは、二階堂凛だ。彼女は、制服の上に白い研究用ガウンを羽織り、手に二冊の分厚い量子力学の専門書、そしてなぜか一脚の三脚(おそらく、星の動きを観測するためのもの)を持っている。彼女の瞳は、愛の熱を帯びながらも、知的な光を失ってはいない。


「暦。待っていたわ。この五〇パーセントの湿度は、私とあなたが七つの愛の定理を証明するための、最適な環境よ。この三脚はね、あなたの永遠の愛の座標を計測するために持ってきたの」


彼女の言うことは、普通に聞くと完全に愛の暴走だが、その言葉の裏には、三つの数学的な概念が隠されていることが暦には分かっていた。


「座標か。それは、愛という名の、計算で割り切れない無限の小数だろう。この霧は、現実と非現実の境界線を曖昧にしている。凛の愛の座標は、今、どちらの世界にある?」


凛は、暦の腕に絡みつきながら、五百メートル先の荒木高校へ向かう道すがら、熱心に二分間、量子力学と愛の関連性について語り続けた。


その時、彼女の足元に、一匹の野良猫が、霧の中から「ふわり」と現れた。


猫は、凛の熱すぎる愛のオーラに一瞬たじろぎ、「ニャア」と、一オクターブ高い声で鳴いた。その声は、この濃霧の中で、まるで遠くの非常ベルのように響いた。猫の目には、凛の背後に、三階建てのレンガ造りの巨大な図書館が、蜃気楼のように立っているのが見えた。その図書館の窓からは、千冊の本のページが、風もないのに「ひらひら…ひらひら…」と舞い落ちている。猫は、その異様な光景に警戒し、九十度方向を変えて、荒木駅のガード下へと消えていった。


凛は、幼少期から、周囲の期待に応えるために、常に「完璧な優等生」を演じてきた。趣味の非ユークリッド幾何学は、彼女にとって、現実の矛盾から逃れるための三次元のシェルターだった。


小学校時代、テストで九十九点を取ったとき、母親に言われた言葉が、彼女の心を支配している。 「一位でなければ、それはゼロ点と同じよ。あなたの価値は、数字で示されるの」 この言葉は、彼女にとって、紙が擦れる音のように、日常の中に常に存在し、彼女の心を五回も締め付けた。彼女は、「計算で全てを支配したい」という強迫観念を抱えるようになった。


彼女にとって、暦への愛の衝動は、計算で割り切れない唯一の変数であり、「制御できないものへの恐怖」を体現している。アプリの影響下では、彼女はその恐怖を「愛の定理」という形で、無理やり支配しようとしているのだ。


高校の校門前で、一ノ瀬桜と五島翠が、暦の「一番目の恋人」の座をめぐって、三メートルの距離で対峙していた。


桜は、百枚の俳句の短冊を武器に、翠は、五十個の新作パンの袋を盾にしている。


「桜! その俳句は、十七音の定型に収まりきらない、五百パーセント過剰な愛の暴力よ!」 「翠さん! あなたのファッションは、一週間前の流行! 暦くんの愛は、古典的な千年の美を求めているの!」


「ドーン!」という擬音語が似合うような、派手な戦闘が始まった。桜が俳句を五枚投げつけると、翠はパンの袋で受け止める。その袋が破裂する音は、「パチン!パチン!」と、まるで静かな水面に小石が落ちる音のように響いた。


凛は、この状況を見て、一瞬、冷静な計算に戻った。 「ダメだわ。この戦いは、五つのパラメーターが同時に変動する、混沌のカオス理論よ。私の三脚(愛の座標)が狂ってしまう!」


凛は、三脚を放り投げ、四冊の専門書で二人の戦いを遮断しようとした。


「やめなさい! あなたたちの愛のベクトルは、五次元空間で交わらないわ!」


「バシッ!」という、本とパンがぶつかる鈍い音。凛は、桜と翠の間に立ち、十秒間の膠着状態を生み出した。


凛は、額に三滴の汗を浮かべ、二歩よろめいた。 「はぁ…はぁ…。愛の物理的干渉は、予想の五倍のエネルギーを消耗する。この疲労感は、まるで徹夜で六十問の難問を解いた後の、脳の深部から来る、鈍い重さだわ」


暦は、凛の疲労と、彼女の「制御したい」という願いが、アプリのエネルギー切れを引き起こすことを悟った。


「今だ。凛の強迫観念を燃料に変換する。俺の『静かに暮らしたい』という願いは、凛の『完璧でありたい』という重圧から、彼女を解放する『無秩序な変数』となる」


暦は、スマホを取り出し、凛の白い研究用ガウンの匂い(わずかに漂う実験室の薬品の匂い)を脳内で反復した。


「凛。俺の愛は、微分積分では解けない。それは、あなたの隠された図書館の五千冊の本の中にある、一冊の白紙のようなものだ。その『無』を、『すべて』と変換する!」


「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」


アプリが再起動し、凛の瞳は再び愛の熱を帯びる。


「暦、愛の定理が解けたわ! 三脚が示しているのは、私とあなたの二人の永遠の距離がゼロになるという、七つの証明よ!」


凛は、放り投げた三脚を抱きしめ、満足そうに微笑んだ。


暦は、凛の背後に、霧の中に隠された巨大な図書館が、再び「ふわり」と消えていくのを、一瞬だけ見た。そして、アプリのアイコンが、まるで「次の獲物はあなたの記憶よ」とでも囁いているかのように、静かに「にやり」と光った。




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