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十文字屋のコロッケと、静寂の試練

暦の視点:静寂への渇望


荒木高校の二階、B組の教室は、愛という名の粘度の高い熱気に満ちていた。授業と授業の間の十分間の休憩時間。古賀暦の机の上には、十五個の異なるメーカーの栄養ドリンクと、六種類の愛情弁当が積まれている。その様は、まるで山積みにされた現代アートのインスタレーション。


「暦さん、このポタージュはね、五つの隠し味が入っているの。飲んで、飲んで、ね?」


四条柚葉(しじょう ゆずは)が、目を潤ませながら、小さな魔法瓶を差し出す。その瞳は、久留米市荒木町の夜明けの露のように、純粋で透明な悲しみを湛えている。彼女の周りでは、クラスメイトたちが、それぞれの二言、三言の愛の言葉を囁きながら、暦に触れようと手を伸ばしている。まるで、千本の飢えた蔓が、静かに獲物を捕らえようとするかのように。


「ああ、静かに暮らしたい。この騒音は、俺の鼓膜を千枚の紙やすりで擦っているようなものだ。柚葉のポタージュは、きっと八百カロリーはあるだろう。この愛情のカロリーは、俺の『静かに暮らしたい』という願いを、一グラムも減らしてくれない」


暦は、内心、軽妙なモノローグで現実逃避を図る。机の横では、二階堂凛が、三時間かけて解いたらしい一冊の微分積分の問題集を、暦の膝にそっと置いた。


「暦。この解答の第七行目。あなたが六日後の放課後に、私と二人きりで解くための、愛の隠されたメッセージが、九つの記号で暗号化されているわ。理解できるでしょう?」


理系の女神が放つ、愛の暗号。普通に読むとただの数学だが、きちんと読むと、そこには十ページに及ぶ熱烈な恋愛小説のプロットが隠されている。しかし、暦にとっては、それもまた騒音の一つだ。


木下 誠(きのした まこと)は、クラスの地味な男子生徒。趣味は、昼休みに荒木町の「十文字屋じゅうもんじや」で、揚げたてのコロッケを一つ買って食べること。彼は、今、柚葉と暦の関係を五秒間じっと見つめていた。


「柚葉は、ああ見えて、すごく真面目な子なんだ。美術部の活動の合間に、三ヶ月かけて、荒木町中の風景をスケッチしてた。あのポタージュだって、七回は試作したはずだ。でも、古賀は……古賀は、何も見てない。アプリのせいだとしても、あの無関心な視線は、柚葉の努力をゼロにする。俺は、ただ静かにコロッケを食ってたいだけなのに、胸の中が『ざわざわ…ざわざわ…』と砂嵐みたいだ。これは、嫉妬なのか? いや、違う。これは、誰かの純粋な努力が、理不尽に踏みにじられることへの、生理的な嫌悪感だ」


彼は、そっと席を立ち、十文字屋へと向かうために、教室を出た。彼の脳裏には、昨日、柚葉が美術室で五回もポタージュの試飲を繰り返していた時の、「少しだけ塩気が足りないかも」と呟いた、その時の真剣な横顔が、鮮明な映像として切り取られていた。


チャイムが鳴り、教師が入室した瞬間、教室の空気は一変した。一瞬の静寂。アプリが、突如として具現化のエネルギー切れを起こしたのだ。


「びりびり……」という微かな電気的な音。その音は、暦の胸の奥で、細い針金が引きちぎられるような、鋭い痛みを伴った。


「まただ。エネルギー切れ。アプリは、俺の『存在感』を燃料にしている。しかし、クラス全員を恋人にするという、この膨大なエネルギーを、九十分も維持することはできない」


ヒロインたちの愛の濾過器が外れる。


一ノ瀬桜は、自分が暦の腕に絡みついていた事実に気づき、「ひゃぁあああああああああああああああああ!」という、短い悲鳴では伝わりきらない「もはや言葉にならないほどのパニック」の声を出した。この声は、コミカルなオーバーリアクションを強調し、緊張感を一気に緩める。


「な、ななな、何で、私、古賀くんの腕を!? ご、ごめんなさい! き、気持ち悪い! この気持ち悪さは、まるで昨日の給食のパンのようだわ!」


桜の顔が、二十個のイチゴのように真っ赤になる。彼女の心の中で、二つの感情が「がっちゃん…がっちゃん…」とぶつかり合う。優等生としての「規律」と、抑圧された「恋心」だ。その不協和音は、静かに「むずむず」と羞恥心を掻きむしり、やがて「ぐつぐつ」と煮え滾る自己嫌悪へと姿を変えていった。


他のヒロインたちも、一瞬、冷静さを取り戻す。


「ふぅ……」茜が、大きく息を吐いた。「今のは、一体、何の罰ゲームだ? わけわかんねぇ。まるで物理法則を無視した突飛な比喩だ」


「愛の詩集……。なんで、こんなものを書いてしまったのかしら……」凛は、自分のノートを、まるで爆発物のように忌々しそうに見つめた。


この二十秒間の静寂こそが、暦にとっての至福の瞬間であり、同時に最大の試練だった。


「このままでは、静寂は訪れる。だが、アプリの法則を破ると、何が起こるか分からない。最悪、異世界転生前のあの事故のような、五感全てが「ぐにゃり」と歪むような、不可逆的な現象が起こるかもしれない」


暦は、カバンからスマホを取り出す。再起動のプロセスは、毎回異なり、試行錯誤が必要だ。


「昨日は、五つの感情の反復だった。今日は……そうだ、「静寂」への願望を、「愛のエネルギー」に逆変換するプロセスだ。俺の『静かに暮らしたい』という強い願望を、アプリが要求する「存在感の肥大化」というエネルギーに、どう変換するか?」


暦の頭の中で、複雑な思考回路が展開される。


1 静寂の計測: 教室の今の静けさを、聴覚と触覚で捉える。「すう…」という空気の摩擦音、「しん…」という心の奥底の振動。

2 逆変換の術式: 願望を言葉として脳内で十回唱える。「静かに暮らしたい」→「俺の静寂は、お前たちの愛がなければ、一瞬で崩壊する」

3 トリガー: 変換のトリガーは、五感を混ぜ合わせた比喩を使うことだ。


俺は、アプリの起動ボタンに指を置き、心の中で叫んだ。


「俺の心は、今、『十文字屋のコロッケ』のように、表面は『サクサク』と静かだが、内側は『ぐつぐつ』と熱い『じゃがいもの悲鳴』を上げている! この『鉄の味』のような悲鳴こそが、お前たちの愛の『匂い』なんだ!」


「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!」


アプリは、十二行にわたるオーバーロードの警告文を表示した後、どぉぉぉぉぉぉんという、低く重い音を発して再起動した。その振動は、暦の胸を二秒間、鈍く打った。


再起動の瞬間、教室の空気は、再び愛の粘度に満たされた。


「暦きゅん! ごめんなさい、私、急に十二時間も意識が飛んでたみたい! 私の腕に絡みつく権利は、誰にも渡さないわ!」


桜の瞳は、再び熱を帯びる。


木下は、十文字屋の角を曲がったところで、この現象を、遠くから一秒間、見ていた。彼の手に握られた一個のコロッケは、熱を失いかけていた。


「なんだ、今のどぉぉぉぉぉぉんは……? まるで、この荒木町の地底で、何千年も眠っていた神様が、くしゃみをしたような音だ。古賀は、一体、何と戦っているんだ? 静寂と? それとも、この非現実と?」


木下は、コロッケを一口食べた。その『サクッ』という音だけが、彼の世界に残された、唯一の『現実の音』だった。


暦は、再びヒロインたちに囲まれながら、「静かに暮らしたい」という願いを、二週間後に達成するための、三つの新しいプロットを、頭の中で組み立て始めた。しかし、そのプロットも、またアプリの次のエネルギー源になることを、彼はまだ知らない。


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