二つの「愛の支配」と、久留米ラーメンの匂いの裏側
昼間:図書室の密室
荒木高校の昼休み。今日の舞台は、生徒が五人しかいない、静まり返った図書室だ。アプリの再起動後、ヒロインたちの愛の行動は、より緻密かつ内向的な方向へと変化していた。まるで、『舞台演劇』の、逃げ場のない密室の緊張感だ。
二階堂凛は、閲覧席の七段の棚に積まれた八百冊の専門書に囲まれ、「愛のデータ解析」に没頭している。その傍で、一ノ瀬桜が、三枚のレポート用紙に「完璧な愛の序列」を二十種類のインクで書き連ねていた。二人の視線が交錯する。
凛「一ノ瀬さん。あなたの『完璧な愛の規律』は、五十年前の文献に基づいていて、情報鮮度が五百パーセント古い。私の最新のデータによれば、愛は『予測不能な変数』よ。あなたの自己抑圧的な愛は、五秒後には破綻する」
桜「二階堂さん。あなたの『データ化された愛』は、十個の数字で全てを語ろうとする、愚かな傲慢です。愛は、久留米ラーメンの濃厚なスープのように、五日五晩煮込まれて初めて完成する『哲学』です。変数を七種類に限定するのは、あなたの支配欲の裏返しです」
二人の会話は、静かで、しかし、ナイフの切っ先のように鋭利だった。図書室の空気は、まるで遠ざかる足音のように、静かにヒリヒリとした緊張感を維持していた。
「静かに暮らしたい。凛の支配欲と、桜の自己抑圧は、どちらも『世界を自分の手の内に収めたい』という、同一の欲望の裏返しだ。これは、社会や世界のあり方、すなわち『管理社会』と『個人の自由』という、深い思索を同時に促している。俺の静かな願いは、この五つの管理欲求とどう繋がっていくのか?」
暦は、手に持った六冊の純文学小説を見つめながら、この密室劇をどう収束させるか、深く思考する過程を始める。
凛の指先が、タブレットを五回タップする音。「カチ…カチ…」 桜の万年筆が、レポート用紙に七回インクを滲ませる音。「カリ…カリ…」
・ 嗅覚: 図書室の七百冊の古書の湿った紙の匂いと、二人が発する五つの異なる感情(焦燥と静謐)が混ざり合い、「静かにむずむずと胸を掻きむしる、インクとカビの複合臭」が漂った。
・ 聴覚: 二人の声のトーンは五デシベル以下だが、暦の鼓膜には、その言葉の裏にある五百万ワットの心の叫びが、「どぉぉぉぉぉぉん」という重い低音で響いた。
教室:木下誠の新たな行動
昼休みが終わり、教室に戻る途中、暦は木下誠とすれ違う。
木下は、片手に三食団子を五個、もう一方の手に一冊の俳句の本を持っていた。彼の背景には、荒木町の古い酒蔵の薄暗い影が見えるようだ。
「古賀。静かに暮らしたい、その願いは、『誰にも迷惑をかけたくない』という自己犠牲の裏返しでもあるな。俺もそうだ。だから、いつも『傍観者』で、五歩後ろから見ていることしかできない」
木下は、三秒の沈黙の後、一粒の団子を口に入れ、一言だけ続けた。
木下「お前の静寂は、もうお前一人のものじゃない。五人のヒロイン、そして俺の七つのトラウマが、お前の『静かに暮らしたい』というテーマに依存し始めている。『孤独の肯定』から『依存の肯定』への移行だ。明日、図書室に五冊の本を置いておけ。俺からの具体的な支援だ」
木下の行動は、単なる脇役のサポートではなく、彼自身の長年の葛藤(傍観者でいたくないという願い)を具体的な行動に落とし込んだ哲学的なテーマの具現化だった。
夜間:久留米の静寂と術式の強化
午後十一時。暦は、荒木町の自宅の自室にいる。今日の図書室の二人の支配欲の衝突が、彼の心の中で「がっちゃん…がっちゃん…」と、心理的な葛藤を物理的な音として表現していた。
「依存こそが、アプリの最も嫌う概念。しかし、五人の愛は、純文学とエンタメを融合した、複雑な構造だ。エンタメとして読むと、ただの愛の暴走。しかし、純文学として読めば、『自己と他者、そして世界の管理』という哲学的なテーマに行き着く」
暦は、三時間かけて、木下の協力を受け入れる術式を考案する。
1 術式の決定: 「五人のトラウマを、木下の『傍観者の罪』に依存させる」という、物理法則を無視した突飛な比喩に基づく術式。これは、換喩として、「他者の罪」を「自己の救済」として利用するという、倫理的な境界線を揺るがすものだ。
2 五感の複合比喩の考案: 荒木町の土の微かな匂いと、三食団子の甘い粘り気を融合させ、「他者への依存の、甘く、しかし、重い粘着質の感触」を表現する。
暦は、スマホを両手に持ち、目を閉じた。
「お前たちの五つの地獄は、木下誠という傍観者の罪の上に依存してこそ、真の救済を見出す。依存と罪、その二つの鏡像こそが、静かに暮らしたいという俺の真の願いの裏側だ」
「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」
アプリが再起動し、暦の疲労感は、七日間の深い思索を経た後の、脳と魂の分離のような、軽妙でふざけた比喩でしか表現できない脱力感だった。
暦は、窓の外の夜空を見上げた。明日、図書室で待っている五冊の本が、この五重奏のカオスの新たな調律となるのか。




