図書館の「無」と、結月の「優しい」透明人間
昼間:図書館の過剰な譲渡
荒木高校の図書館。昼休み。その空間は、アプリの影響により、結月による暦への「自己主張の放棄」という名のカオスに満ちていた。
今日の騒動の中心は、白鳥結月。彼女は、五百冊の小説と、七種類の愛のメッセージが書かれた千枚の栞を並べ、「私の全てを暦さんに譲渡します」という儀式を強行していた。
「暦さん。この本は、私の五年間の読書記録です。この栞は、私の三年間の感情の記録。私、五十分以内に、私のすべてをあなたに差し上げます。私の意思も、私の権利も、すべてゼロにしてください。それが、あなたへの最高の愛です」
結月の瞳は、悲しいほどの純粋さに満ちており、その行動は「自己の存在価値の完全放棄」を体現している。普通に聞くとただの過剰な献身だが、深く読むと、その「譲渡」という言葉の裏には、「自己主張することで生じる他者との軋轢への耐え難い恐怖」という、切実な純文学的なテーマが隠されている。
「静かに暮らしたい。結月の愛は、まるで物理法則を無視した突飛な比喩だ。その『完全な譲渡』は、彼女の五感全てを、『透明人間』という名の無機質な空間に閉じ込めようとしている。この儀式は、俺の静寂を破壊する五百万個の無責任な優しさだ」
暦は、内心で七回反復し、この「自己放棄の暴走」との戦闘をどう乗り切るか思考する。
・ 触覚: 結月が差し出した栞は、暦の手に触れた瞬間、「ひゅう…」と風を切るように軽く、まるで彼女の存在感そのものが消え去ろうとしているような、危うい感触を伝えた。
・ 嗅覚: 図書館の古書のインクと紙の匂いに、彼女が密かに持ち込んだ「微かな、諦念の匂い」が混ざり合い、五感を混ぜ合わせた比喩として、「孤独な魂の薄い塩味」を口の中に広げた。
昼休み:結月の葛藤と木下の視点
図書館の隅、七番目の棚の陰。木下 誠は、五分間かけて、十文字屋のコロッケパンを食べていた。彼は、結月の「優しさ」が「自己の権利の放棄」に繋がることを知っている。
結月は、幼少期、七人の兄弟姉妹の中で育ったが、体が弱かったため、常に「主張してはいけない」と教えられてきた。
十歳の時、自分の欲しいものが別の兄弟に譲られた際、母親に言われた言葉が、彼女の心を支配している。 「結月。あなたは、静かに譲ることで、誰からも愛されるの。あなたは、自分の声を出してはいけない。あなたは、永遠に『優しい透明人間』でいなさい」 この言葉は、彼女にとって、遠ざかる足音のように虚しく、彼女の「優しさ」という名の存在を千個の影で覆い尽くした。それ以来、彼女は「自己放棄」でしか、他者の愛を繋ぎ止められないと信じるようになった。
アプリの影響下での「全譲渡」は、彼女が「自己主張による拒絶への恐怖」というトラウマから、「自分を透明にして、誰にも傷つけられない場所へ逃げたい」という自己否定的な衝動の暴走だった。
木下は、コロッケパンの「もっちり」とした食感に集中しながら、結月を見ていた。 「白鳥さん……。彼女の『譲渡』は、まるで物理法則を無視した突飛な比喩だ。あれは、『消滅願望』だ。彼女が本当に恐れているのは、『嫌われること』じゃなくて、『自分自身になること』だ。俺の『静かに暮らしたい』という願いと、彼女の『透明人間になりたい』という願いは、五百万光年離れているようで、実は三センチしか離れていない……」
下校:校門とリセット
午後四時半。下校を促すチャイムの音が、図書館に響いた。
そして、荒木高校の校門をくぐった、その一瞬。
「びりびり……」という電気的な音と共に、アプリが切れた。
結月は、五百冊の本を「ドサッ」と落とした。そして、自分が自己の全てを放棄しようとしていた事実に気づき、顔を十枚の白い紙のように青ざめた。
「あ、あの……暦さん! ごめんなさい! 私、自分を……! ぎゃあああああああああああああああああああ!」
結月は、短くはない悲鳴を上げ、その場に立ち尽くす。彼女の心の中で、五人の理想の自分と一人の主張をしない透明人間が、激しく衝突していた。
木下は、この二十秒間のリセットの時間に、結月のそばを通り過ぎた。
「白鳥さん。自分の欲しいものは、三秒以内に『欲しい』と言いなさい。それが、五百万個の自分を救う、唯一の言葉ですよ」
木下のこの軽妙でふざけた比喩は、結月のトラウマの核(自己主張の禁止)を直接刺激する。結月は、その言葉に、二歩後ずさった。彼女の瞳には、五つの疑問符と、七つの驚愕の色が浮かんでいた。
夜間:久留米の静寂と試行錯誤
午後十一時。暦は、荒木町の自宅の自室にいる。今日の昼間の図書館の過剰な静寂の残響が、彼の聴覚の奥で「しん…しん…」と鳴り続けている。
「静かに暮らしたい。結月の『自己放棄』は、『自己主張による拒絶への恐怖』から来る。アプリは、この『恐怖』を燃料に、俺の『静寂』を五百万個の無責任な優しさで埋め尽くそうとしている」
暦は、三時間かけて、アプリの再起動の術式を考案する。
「アプリは、『自己否定』を愛する。結月の『自分を捨てなければならない』という強迫観念を肯定し、彼女に『自分を主張する権利』を与えることで、アプリのロジックを破壊する」
1 術式の決定: 結月の『完全な譲渡』を、『完全な自己主張』という概念で上書きする。
2 五感の複合比喩の考案: 夜の湿った土の匂いと、木下が食べたコロッケパンの「もっちりとした食感」を融合させ、「自己の存在の粘着質な強さ」を表現する。
暦は、スマホを両手に持ち、目を閉じた。
「結月。お前の真の戒律は、『利己的な要求』だ。誰にも譲らず、誰にも迎合しない、自己主張の女王だ。その我儘な強さこそが、お前の五百万倍の愛の証明だ! 優しくなくてもいい。それが、俺の愛の定義だ!」
「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」
アプリが再起動し、暦の疲労感は、まるで七日間、千人の人間の権利構造を分析し続けた後の、脳の深部から来る、麻痺したような重さだ。
暦は、窓の外の夜空を見上げた。木下が結月に与えた「我儘を言え」という言葉が、彼の心の中で、五芒星のように静かに輝き続けていた。それは、この過剰に優しさを求める世界で、彼が唯一掴める「利己的な静寂」の比喩だった。




