美術室の異臭と、柚葉の「無償」という名の代償
昼間:美術室の過剰な献身
荒木高校の美術室。昼休みにもかかわらず、そこはまるで七日間飲まず食わずで制作を続けたアトリエのような、異様な熱気と匂いに満ちていた。
今日の騒動の中心は、四条柚葉。彼女は、五種類の画材と、十個の手作りスイーツを暦の周囲に並べ、「無償の愛」をテーマにした巨大なインスタレーションを完成させていた。
「暦さん。この三メートルのキャンバスはね、私の五年間の愛の結晶です。絵の具には、七色の感情を混ぜ、特にあなたの席の周りには、私が一ヶ月かけて作った五百個の愛のクッキーを配置しました。受け取ってください。私の全てを!」
柚葉の瞳は、まるで過剰な熱量を放つ電球のように、純粋な愛の光を放っている。普通に聞くとただの献身的な愛だが、深く読むと、その「無償」という言葉の裏には、「自己の価値を献身でしか証明できない」という、切実な純文学的なテーマが隠されている。
「静かに暮らしたい。柚葉の愛は、まるで物理法則を無視した突飛な比喩だ。その『無償の愛』は、彼女の五感全てを、『自己犠牲』という名の麻薬で麻痺させようとしている。この過剰な献身こそが、俺の静寂を破壊する五百万個のノイズだ」
暦は、内心で十回反復し、この「無償の代償」との戦闘をどう乗り切るか思考する。
・ 嗅覚: 美術室全体に漂う油絵具の強烈な匂いと、クッキーから放たれるバターの甘すぎる匂いが混ざり合い、暦の鼻の奥で「むずむず」と疼き、五感を混ぜ合わせた比喩として、「孤独な魂の焦土」を表現した。
・ 味覚: 柚葉が無理やり口に入れようとするクッキーの「過剰な砂糖の味」は、暦の口の中に「誰かの悲劇という名の薄い鉄の味」を広げた。
昼休み:柚葉の葛藤と雫の視点
美術室の隅、大森 雫は、五分間、柚葉の異常な献身を観察していた。彼女は、柚葉の才能を認めつつも、その「自己犠牲」が、彼女の「生きたい」という本能を削っていることを知っている。
柚葉は、幼少期から、母親が病弱で、七年間、彼女の介護を担っていた。
九歳の時、自分の絵のコンクールを諦め、母親の看病を選んだ。その時、母親が、涙ながらに言った言葉が、彼女の心を支配している。 「柚葉。あなたは、自分のことより、誰かのために尽くせる、世界で一番尊い子よ。あなたは、『自己犠牲』という名の光で、しか生きられない」 この言葉は、彼女にとって、重い鉛の塊が心臓に「どすん」と落ちるような感覚だった。それ以来、彼女は「誰かに尽くすこと」でしか、自己の存在価値を見出せなくなった。
アプリの影響下での「無償の愛」は、彼女が「自分の存在価値を失うことへの恐怖」というトラウマから、「自分を削り、相手に全てを捧げる」という自己破壊的な衝動の暴走だった。
雫は、三歩前に出た。 「柚葉。やめなさい! あなたのその絵は、千枚の愛の言葉なんかじゃない。それは、あなたの『生きたい』という本能が、『誰かのため』という名の呪いで、塗りつぶされている証拠よ!」
雫の言葉は、柚葉のトラウマの核を直接刺激する。柚葉の瞳が一瞬揺らぎ、三秒の間に、五つの異なる感情(怒り、恐怖、絶望、安堵、困惑)が交錯した。
下校:荒木高校のチャイム
午後四時半。下校を促すチャイムの音が、美術室に響いた。
そして、荒木高校の校門をくぐった、その一瞬。
「びりびり……」という電気的な音と共に、アプリが切れた。
柚葉は、手に持っていた七色の絵筆を「カラン…」と落とした。そして、自分が十個の手作りクッキーを並べ、暦に「全てを捧げる」と熱弁していた事実に気づき、顔を七つの夕焼け空のように真っ赤にした。
「あ、あの……暦さん! 雫先輩! ごめんなさい! 私、また……! ぎゃあああああああああああああああああああ!」
柚葉は、悲鳴を上げ、その場に立ち尽くす。彼女の心の中で、五人の観客と一人の病弱な少女が、激しく衝突していた。
雫は、この二十秒間のリセットの時間に、柚葉を強く抱きしめた。
雫「柚葉。あなたの絵は、誰かのためじゃなく、あなた自身のために描くものよ。あなたの存在価値は、自己犠牲のゼロではない。それは、無限の光なの!」
柚葉は、雫の腕の中で、五年間溜め込んだ涙を千粒流した。このサブキャラクター同士のドラマこそが、アプリの次のエネルギー源になることを、暦は静かに見ていた。
夜間:久留米の静寂と試行錯誤
午後十一時。暦は、荒木町の自宅の自室にいる。今日の昼間の美術室の異臭の残響が、彼の嗅覚の奥で「むずむず…むずむず…」と疼き続けている。
「静かに暮らしたい。柚葉の『無償の愛』は、『自己の存在価値への恐怖』から来る。アプリは、この『恐怖』を燃料に、俺の『静寂』を五百万個の献身で埋め尽くそうとしている」
暦は、三時間かけて、アプリの再起動の術式を考案する。
「アプリは、『自己否定』を愛する。柚葉の『自己犠牲でしか生きられない』という強迫観念を肯定し、彼女に『自分を愛する権利』を与えることで、アプリのロジックを破壊する」
1 術式の決定: 柚葉の『過剰な献身』を、『完全な利己主義』という概念で上書きする。
2 五感の複合比喩の考案: 夜の湿った土の匂いと、柚葉が残したクッキーの「過剰な砂糖の味」を融合させ、「過剰な優しさの毒」を表現する。
暦は、スマホを両手に持ち、目を閉じた。
「柚葉。お前の真の戒律は、『利己主義』だ。誰にも尽くさず、誰にも関心を持たない、自分を愛する王だ。その利己的な強さこそが、お前の五百万倍の愛の証明だ! 優しくなくていい。それが、俺の愛の定義だ!」
「再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」
アプリが再起動し、暦の疲労感は、まるで七日間、千人の人間の倫理観を分析し続けた後の、脳の深部から来る、麻痺したような重さだ。
暦は、窓の外の夜空を見上げた。雫が柚葉に与えた「あなたは無限の光」という言葉が、彼の心の中で、五芒星のように静かに輝き続けていた。それは、この過剰に自己を否定する世界で、彼が唯一掴める「自己肯定の静寂」の比喩だった。




