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登校路の甘い地獄と、起動の試行錯誤

静かに暮らしたい。その願いは、福岡県久留米市荒木町の土手、筑後川から流れ来る湿った風にさえ、届かない。俺、古賀暦(こが こよみ)、荒木高校二年生は、朝の光を浴びながら、心の中でただ一言、この切実な「静けさ」を反芻する。それは、砂利道の小さな石が、靴底に食い込むような、地味でしかし無視できない葛藤だった。


昨夜、怪しげな無料アプリを起動して以来、俺の平穏は、完全に、そして物理法則を無視した形で瓦解した。そのアプリ――『クラス全員の恋人』。タップ一つで、クラスメイト二十三人が、俺の恋人になった。そして、その筆頭、五ツ星のヒロインたちが、今、荒木駅前の交差点で、俺を待ち構えている。


「暦きゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん!」


声が、五重奏のように重なった。まるで、福岡名物「めんたいこ」を千本の針で同時に突かれたような、五感を超越した刺激。視覚的には、完全にアイドルの登校風景。音響的には、祭りの喧騒。触覚的には、全身を包み込む「圧」だ。


一ノ瀬 桜(いちのせ さくら)。クラスの美化委員長で、規律の女神。文学少女で、趣味は早朝の俳句作り。普段は「心は常に静謐」を体現している彼女が、今、俺の腕に絡みつき、その白い頬を俺の二の腕に「ふにゃ……」と押し付けている。その頬の柔らかさは、まるで水気をたっぷりと吸い込んだ、夜明けの豆腐。彼女の背後で、本が十数冊積まれた机が、ゆらゆらと蜃気楼のように揺らいで見えた。


「暦、朝ごはん、二つ持ってきたわ。一つは、わたしの手作り、十種類の具材が入った卵焼き。もう一つは、わたしを愛しすぎたあまり、昨日三晩徹夜して書き上げた、あなたのための愛の詩集よ」


二階堂 凛(にかいどう りん)。学年トップの成績を誇る、クールビューティー。趣味は、非ユークリッド幾何学の問題を解きながら、久留米ラーメンの替え玉を五玉頼むこと。いつもは知的な光を宿す彼女の瞳が、今、愛の熱病で、まるで真夏の太陽に焼かれたアスファルトのように、ギラギラと光を放っている。


「愛の詩集、か。それは、愛という名の、四次元ポケットか。中には、虚無と、無限の甘ったるさが詰まっているのだろう。そして、この状況は、まさしく俺の『静かに暮らしたい』という願いが、シュレディンガーの猫のように、生と死の曖昧な箱に閉じ込められた状態だ」


暦の心の内で、軽妙で辛辣なモノローグが展開する。この非現実的な状況を、現実として受け入れるには、まだ俺の理性は七分ほど抵抗している。


その隣では、三崎 茜(みさき あかね)が、腰に手を当てて仁王立ちだ。元ソフトボール部エース。普段は「ドーン!」という擬音語が似合うような豪快な性格だが、今は「むずむず」と羞恥心が全身を這い回っている。


「暦! お、お前、今、凛とイチャイチャしやがって! 許さん! ……あ、違う、許す。むしろ、私にもっとイチャイチャしろ、って意味だ! クソッ、この感情はなんだ? 胸の奥で、がっちゃん…がっちゃん…と、何かがぶつかり合っている。一つの感情が『ひゅう…』と風を切り、もう一つの感情が『どすん』と重く落ちる。この不協和音は、静かに『むずむず』と胸を掻きむしり、やがて『ぐつぐつ』と煮え滾る怒りへと姿を変えていった。……比喩表現だ。これは、愛ゆえの嫉妬心という名の、物理法則を無視した突飛な複合比喩だ、分かったか!」


彼女は、なぜか比喩表現を口にする度に、自ら解説を加えるという奇行に走っている。


そして、四条 柚葉(しじょう ゆずは)。クラスのおっとり系癒やし担当。趣味は、荒木町の風景をスケッチすること。彼女は、目を潤ませながら、俺の背後で、小さな声で呟いている。


「暦さん。私、昨日、六個のあんパンを食べながら、二十回もあなたの夢を見たんです。夢の中の暦さんは、私と八つの約束をしてくれました。覚えていますか? ……私は、あなたの、二番目の恋人じゃなくて、一番目が二十三人いる中の、唯一の恋人になりたいです」


控えめな彼女の願望が、静かな水面に波紋を広げる。この矛盾を抱えた、透明で深い悲しみ。


最後に、五島 翠(ごとう すい)。ファッションリーダーで、常に流行の最先端。趣味は、新しいカフェ巡りで、最近のお気に入りは、四つ葉のクローバーを模したラテアート。


「ねぇ、暦。早く行こうよ。遅刻しちゃう。今日、購買で新作の『三色団子パン』が出るの。二人で二つ買って、半分こしようよ! 九時のチャイムが鳴る前に、千人のライバルを出し抜くんだから!」


彼女の言葉だけが、この非現実の中で、唯一、日常のテンポを刻んでいる。


俺は、五人のヒロインに囲まれ、体中に千本の釘が打ち付けられるような疲労感を感じながら、学校へと向かう。この状況は、もはや「スポーツ中継」のようなスリリングな展開だ。


「……そうだ、アプリだ」


脳裏に、昨晩の回想シーンがフラッシュバックする。疲労で帰宅した俺が、無料ゲームだと勘違いしてダウンロードした、あのアイコン。


「あのアプリが、クラス全員の心に、俺を『恋人』と錯覚させる魔法をかけているんだ。このままでは、静かに暮らしたい俺の願いは、一万光年先の銀河に置き去りにされる。まずは、鎮静化させなければ」


俺は、スマホを取り出し、アプリのアイコンをタップする。


「チクショウ、パスワードを忘れた! 確か、一番最初に食べた食べ物の名前だっけか? 『久留米ラーメン』か? 『焼き鳥』か? いや、『おにぎり』だ!」


アプリは、起動画面で「エネルギー不足」の警告を表示した。


「よし、今だ!」


俺は、電波が微弱になる交差点の角に立ち、人知れず、アプリを再起動させるための試行錯誤を開始する。


俺の指先が、ガラスの画面の上を、まるで二匹の蟻が迷宮を彷徨うように滑る。「再起動」ボタンをタップするも、反応は鈍い。


「なぜだ? エネルギー切れなら、外部からの刺激、つまり、俺の『意識の凝縮』が必要なのか? アプリの説明書には、『対象の強い願望を燃料とする』とあった。俺の願望は静かに暮らしたい。だが、アプリが求めているのは、俺の『存在感』の肥大化だ。相反する感情を、どう融合させる?」


一ノ瀬桜の甘い吐息が、耳元を「そよそよ」と通り過ぎる。その吐息は、熱帯夜の湿度を三倍にしたような粘着質だ。


「そうだ。意識的に、五つの相反する感情を同時発生させるんだ。静けさへの渇望、騒動への絶望、ヒロインたちへの困惑、アプリへの憎しみ、そして、この状況へのコミカルな諦め。この五つの感情を、十秒間、脳内で高速で反復(リフレイン)させる。」


俺は、目を閉じ、五つの感情を脳内で「くるくる……くるくる……」と回し始めた。その回転は、やがて、遠心力で俺の意識を現実から切り離し、非現実と現実の融合を生み出す。


その瞬間、街の風景が変わった。


五ツ星のヒロインたちが、一瞬、元のクールな、豪快な、静かな、おっとりした、そしてファッショナブルな女子高校生に戻りかけた。


「あれ……? 私、今、古賀の腕を組んで……なんで……?」桜の顔に、一瞬、純粋な困惑が浮かんだ。 「まさか、私、十種類の卵焼きなんて作ってないわよね……?」凛が、知的な疑問を口にする。 「……やべぇ、今、俺、何で比喩の解説を……?」茜が、冷や汗をかきながら、二歩後退した。 「暦さん……の背中が、遠い……」柚葉の瞳に、二分の一秒の悲しみが宿った。 「え、何? 団子パン? あたし、今、そんなこと考えてたっけ?」翠が、スマホの画面を四秒間見つめた。


この「行間」こそが、彼女たちの本心。五つの異なる心情が、一瞬、透明なガラス細工のように、暦の眼前に広がる。


「今だ!」


俺は、一気に「起動」ボタンを押し込んだ。指先に伝わる「びりびり」という電気的な抵抗。全身に、微かな疲労感が走る。昨日の事故で感じた、あの「ぐにゃり」とした転生の感覚に似ている。


「アプリ、再起動、どぉぉぉぉぉぉん!」


声には出さず、心の中で叫んだ。


その直後、五ツ星のヒロインたちの瞳は、再び、愛の熱を帯びた。


「暦きゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん! 離さない! 絶対に!」桜が、千本の蔓のように俺に絡みつく。 「二百点満点の愛を、あなたに捧げるわ!」凛の瞳は、九つの太陽のように輝いた。 「今日の昼休み、屋上で四つの恋愛ドラマを展開するぞ!」茜が、豪快に笑った。 「私は、あなたのために、一冊の新しい愛の詩集を書きます……」柚葉は、五百個の涙を流しそうになった。 「今日の放課後、七軒のカフェを巡って、愛を深めるデートよ!」翠は、十倍速で喋りだした。


俺の「静かに暮らしたい」という願いは、再び、愛という名の泥沼に沈んだ。


「チクショウ、まただ。起動の試行錯誤は成功したが、静けさはゼロ。しかし、この『一瞬の静けさ』に、彼女たちの本質と、このアプリの『歪み』の秘密が隠されている。この戦いは、永続する」


暦は、五ツ星のヒロインたちに囲まれながら、荒木高校の門をくぐった。彼の視線の先には、アプリのアイコンが、微かに「にやり」と笑っているように見えた。


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