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聖女就任を辞退しつづけていたら、偽物聖女に婚約者を奪われました

作者: 里崎さと

1.婚約破棄と謎の虎猫


 ある晴れた日の午後、公爵令嬢ルクレチア・オルドイーニは庭の木陰で婚約者とお茶を飲んでいた。

 婚約者の名はスチュアートという。

 この国の王太子で、ルクレチアとは子供のころから婚約している仲だ。


「ねえ、ルクレチア。政略結婚とは愚かしいものだね」


 まだ一杯目のお茶も飲み切らないうちに、スチュアートが妙なことを言い出した。


「政略結婚、でございますか?」


 ルクレチアは彼の言葉を復唱したが、実はあまり話を聞いていなかった。朝から姿が見えない愛猫のことで頭がいっぱいだったのだ。

 そうとは知らずにスチュアートは話し続ける。


「ああ。だって、二つの家が協力し合うのはいいことだろう? ならば、互いに協力しようと言い合うだけで事足りるじゃないか」


「はい」


「つまり、我々が結婚する必要なんてどこにもないんだ」


「……あら、私たちの話でしたの」


 ようやく話の内容が頭に入ってきたルクレチアは、おっとりと首をかしげて考え込む。

 

「……そう、ですわね。おっしゃるとおり、婚姻を介さない協力体制もあると思います。ですが……」


「だろう? よし、婚約解消だ!」


「殿下⁈」


 十年来の婚約を勢いよく反故にされ、普段は呑気者で通っているルクレチアもさすがに驚いた。

 

 こんな無茶を通したら、スチュアートの政治生命は一気に危うくなるだろう。それが分からない彼ではないだろうに……。

 

「殿下、あの、もしかして、どなたかに何かとても調子のよいお話を聞かされたりしてらっしゃいません?」


「僕が騙されていると言いたいのかい? 問題ないよ、僕はいつもと何ら変わらない。僕史上、もっとも情熱的で運命的な恋に落ちたことを除けばね」


 バチン、と音が鳴りそうなウインクを飛ばされて、ルクレチアは黙り込んだ。『運命の恋』という言葉が彼の口から出るのは何回目だろう。


 スチュアートは恋多き人だった。

 大変惚れっぽい性格で、いままでにも数多くの女性と浮き名を流している。

 優秀で慈悲深く社交的、理想的な為政者になるだろうと期待される彼の、唯一の悪癖と言われている。

 

 だが考えてみると、スチュアートがルクレチアとの婚約をとりやめにしようとしたのはこれが初めてだ。もしかして、本当に特別な出会いがあったのだろうか。


「ルクレチア、彼女に会ってやってくれないかい? 実は今日ここに連れてきているんだ」


「わかりました」

 ルクレチアは力強くうなずいた。

 

 スチュアートが嬉しそうに植え込みの陰に笑顔を向ける。


「アウルム、出ておいで!」

 

2.偽りの聖女


(アウルムですって?)


 ルクレチアは心の中で叫び声を上げた。

 ルクレチアの愛猫もアウルムというのだ。

 愛猫と婚約者の恋人が同じ名前だなんて、どういう巡りあわせだろう。

 

 ルクレチアのアウルムは、三か月前にふらりと窓から入ってきた虎猫だ。金茶の縞柄の毛並みに、金星を砕いて琥珀に閉じ込めたような目が大層美しく、ルクレチアは「金」という意味のアウルムという名をつけて可愛がっている。

 

 アウルムは不思議な猫だった。

 人の言葉を完全に理解しているように見え、己の意図や感情を表現することにも長けていた。

 

 ルクレチアが人には言えない悩みを抱えてひそかに落ち込んでいるとき、アウルムはすぐに気づいてそばに寄り添ってくれる。

 リボンを片手に追いかけっこをすれば、お互いフェイントの応酬で、にらみあいが続き過ぎ、見ている侍女たちになにをやっているのかと笑われる始末。

 

 まるで人間の親友ができたようだった。

 出会ってまだ三か月なのに、アウルムはルクレチアにとってなくてはならない存在になった。

 

 そんな愛猫と同じ名前だなんて、なんだか親近感が持てる。ルクレチアがそう前向きに考えていたら、

 

「スチュアートさまあ」

 甲高く甘ったるい作り声が聞こえてきた。

 

 ルクレチアは眉をひそめた。

 とてもじゃないが心から信頼している相手に向けられた声とは思えない。


「待たせて悪かったね、ハニー。暑かっただろう」

「大丈夫ですわ。私、お日様にも愛されておりますので、どれほどひなたぼっこしても、体温が上がりすぎることはございませんのよ」

 スチュアートに伴われて姿を現した女性は、くねくねとしなを作ってスチュアートにしなだれかかる。そのようすは完全に常軌を逸していた。

 

 なぜスチュアートは平然としているのか。

 催眠術でもかけられてまともな感覚が麻痺しているのだろう。

 おそらく彼女は呪術師か何かの類だ。

 

 いや、少し性急すぎる判断かもしれない。 

 短時間で他人の内面を決めつけてしまってはだめだ。

 

 ルクレチアは己を律して、精いっぱいの笑顔を作る。

 

「ようこそいらっしゃいました、アウルム様。ルクレチア・オルドイーニと申します。アウルム様は冷却魔法を使われるのですね」


「えー?」

 

 アウルムは今はじめてルクレチアに気づいたように、あからさまに迷惑そうな顔をした。それから気が変わったのか、あざとい仕草で首をかしげる。

 

「れい、きゃく、まほうとおっしゃるの? お日様が勝手にやってくださることなので、私にはよくわからないんですの」


「あら、アウルム様はそんなふうに魔法を認識されていらっしゃいますの。それともご自分の認識を曲げて殿下にお伝えになっていらっしゃるのかしら。もしそうだとしたら、王族に嘘をつくことは……」

 

 しだいに低くなっていくルクレチアの声に、スチュアートが顔色を変える。


「ル、ルクレチア、言っていなかったがアウルムは聖女なんだ。だからたぶん、世界中のものに守られているのだと……」


「それはありえません、殿下」


 ルクレチアはぴしゃりと言った。


「そんな頭ごなしに」


「詳しいことは申し上げられませんが、確かな根拠がございます。この方は聖女ではありません。ゆえに、この方は殿下を欺いています」


「ル、ルクレチア」


「情けないこと。こんな浅薄な者に騙されるなんて、他の方々がお気の毒です」


 ルクレチアはスチュアートの歴代の恋の相手をよく知っていた。

 彼の恋が終わるたびに人をやって、相手の女性が苦労していないか見守らせていたからだ。

 彼女らは総じて、スチュアートとの刹那的な恋を降ってわいた幸運ととらえ、王太子の元恋人という称号と莫大な手切れ金を手に、人生の次のステージに踏み出していった。勇敢で陽気な人たちだった。だが、彼女たちが本当はどんな思いを胸の内に抱えていたかはわからない。

 

 ルクレチアは思う。

 一番やるべきだったのは、彼女たちの心配ではなく、スチュアートを諫めることだった。

 

 だが、できなかった。

 彼の浮気性の原因が自分の魅力のなさにあるように思え、強い態度に出られなかったのだ。

 

 だから今回、彼がもし本当に特別な相手に出会えたのなら、力の限り二人を応援しようと思った。

  

 そうすればスチュアートの浮気はおさまり、これ以上彼に翻弄される人は現れず、彼の評判も傷つかない。

 ルクレチアも、弟としか思えない相手との結婚から逃れられ、今まで無理だと思っていたことに挑戦できるかもしれない。

 夢のような将来に一瞬胸をときめかせ、そして失望した。

 

「本当に情けない」

 ふつふつと湧いてくる憤りを集めるように、ルクレチアは手のひらに気を凝らす。

 小さな炎がぽっと出現し、すぐに大きな火球にまで成長する。

 

「手が、手が燃えているぞ、ルクレチア」


「ご心配いりません、殿下。これは燃焼魔法です」


「魔法?」


「今から、この方が意識的に冷却魔法を使えることを証明してごらんにいれます」


 そう宣言すると、ルクレチアは手のひらの火球を偽物聖女に投げつけた。


「いやーーー!」

 偽物聖女は恐怖にかられて逃げ出す演技をしながら、見事な冷却魔法で火球を相殺した。

 

 いや、彼女が冷却魔法を使うところをルクレチアは見ることができず、火球は自然に消えて落ちたようにしか見えなかった。

 

 思った以上の使い手のようだ。

 彼女の化けの皮をはがすには、もっと強力な攻撃な必要なのだろう。

 

「ルクレチア! 今日は聖人判定の専門家を呼んであるんだ。君がこんなことをする必要は……」


 背後でスチュアートが何か言っているが、今は聞く暇がない。ルクレチアは次々と火球を作っては放っていく。偽物聖女は逃げ惑う演技を崩さぬまま巧妙に火球を消していく。

 

 なんという強敵だろう。

 少し、楽しくなってきた。まるで猫の方のアウルムと遊んでいるようだ。

 

3.聖人判定専門家?


「聖人かどうか判定する方法なんか、うちの塔には伝わってないんですけどねー」

 王太子の要請によって、果ての塔から派遣された魔法使いフィネガン・フィンは、力なくぼやいた。

 現在、だだっ広いオルドイーニ邸の敷地内を執事に案内されているところだ。

 

 彼は今、ひどく憂鬱だった。

 今回判定を依頼されたのは王太子の新恋人なのに、呼ばれた場所が王太子の婚約者の屋敷なのだ。

 修羅場の予感しかないではないか。

 とんでもない泥仕合に巻き込まれる予感がひしひしと、ひしひしと迫ってくる。

 

「ねえルーベンさん、対象に会った瞬間二人で『ちがいまーす』って言って、走って逃げませんか?」


 隣の聖騎士に話しかけると、修道士のようにしずしずと歩いていた巨漢は不思議そうにフィネガンを見下ろした。


「なぜだ?」


「あ、いえ、ごめんなさい冗談です。……あの、聖騎士団ではどのように聖人判定をなさるんですか?」


(しゅ)に聞くだけだ」


「ああ、そっか。あなた方はそうですよね」


 この大陸でいう聖人とは、神獣が己の代弁者として指名した人間のことである。

 ルーベンたち西の森聖騎士団は、この国の神獣に仕える騎士団だから、一言聞けばいいだけなのだ。

 ならば彼一人だけでよかったじゃないか、とフィネガンは心の中でふてくされる。

  

「それで、神獣様はなんとおっしゃったんですか?」


「主と言葉を交わせるのは、もっと上級の騎士たちだけだ。私は彼らから、ただ現地で指示に従え、とだけ言われている」


「えー、なんでその人たちが直接来ないんですか? わからないなぁ。……でもまあ、今回の自称聖人もきっと偽物ですよね」

 

 この国の神獣は(噂では金色に輝くオオヤマネコだといわれている)、おそろしく天邪鬼で、ここ三百年一度も聖人を指名していないという。


「三百年聖人を指名しなかった神獣様は、そう簡単に気を変えたりしませんよね。今回もきっと……、え? 違うんですか?」


 聖騎士の目が落ち着かなげに踊ったのを、フィネガンは見逃さなかった。

 

「わ、私は違うなどと言っていない」


 聖騎士は明らかに動揺していた。


「王太子の新しい恋人は聖女様なんですか?」


「いや、それは違う」


「……となると、その方以外の聖人がよそにいらっしゃるということですか」


「早計過ぎるぞ!」


 聖騎士は律義な性格なのか、何も言いたくなさそうなのに、フィネガンの質問にすべて答えてしまっている。

 これはいける。そう踏んだフィネガンは正攻法ですべての情報を聞き出すことにした。

 

「すみません、ルーベンさん。僕、間違った判定を下して皆さんにご迷惑をかけたくないんです。どうか情報共有させてください。お願いします」


 真正面から聖騎士を見据えて深々と頭を下げた。すると聖騎士はかすかにうめいてから、がくりと肩を落とした。

 

「聖人判定の任にある者がおかしなことを言い出すのは困るからな」と前置きをして、語りだす。


「主は十五年前に一人の少女を聖人として指名した。だがその少女は、聖なる守護を必要とする善人は他にもたくさんいる、と辞退したのだ。それ以来、聖騎士団は何度も彼女に聖人になるよう頼み、そのたびに断わられている」


「その人の名は?」


「私には知らされていない」


4.偽物聖女の正体


 残念そうに告げたあと、聖騎士は突然、遠方を凝視して、周囲の酸素をすべて無くされたかのように喘いだ。


「どうかしましたか?」

 フィネガンが彼の視線の先を追うと、燃え盛る火球が青々とした芝生の上を飛んでいくのが目に入った。


 見れば、長い黒髪をなびかせた長身の女性が、巨大な火の玉を次々に作っては投げている。火の玉が飛んでいく先では金髪の女性が逃げ惑っている。

 

「大変だ。今すぐ止めないと」

 フィネガンは二人のあいだに障壁を作ろうと杖をかまえた。


「待て」

 聖騎士がフィネガンの腕を押さえる。

「なんで止めるんですか?」

「邪魔をしてはいかん」

「そんな……」


「お二人とも」

 執事が落ち着き払った口調で呼びかけてきた。彼は二人の女性を指し示すと、

「黒髪のお嬢様がルクレチア様。金髪のご令嬢がスチュアート殿下のお連れ様。アウルム様です」

と澄ました顔で紹介した。


 王子の婚約者が王子の新恋人を殺そうとしているということだろうか。どうして聖騎士も執事も止めないのだろう。


「そして、スチュアート殿下はあちらにおいでです」

 執事に誘導された視線の先には、大きなテーブルの周りに六人の侍女たちがいた。彼女たちはやはり緊張感のない、まるでスポーツ観戦でもしているような呑気さで、二人の令嬢を見守っている。

 

 テーブルの上にはお茶や菓子やサンドイッチが並んでいた。少し離れたところに、もっと高級そうな無人のティーテーブルがあることから推測するに、主人たちのお茶会のお相伴に預かっていたのだろう。

 

 王子はどこかと探してみれば、彼は侍女たちの陰で従者らしき若者と共に震えていた。彼らの反応が一番この場に似つかわしいように見える。

 

 それにしても、これが浮気者で有名な王子様か。

 フィネガンは自分たちを呼んだ張本人をこっそり観察する。なぜか髪や服の一部分が焦げていて、なんだか可哀そうな状態だ。


「え? 焦げてる?」

 フィネガンは急いであたりを見回した。

 火球があれほど飛び交っているのに、この庭で焦げているのは王太子だけだ。ルクレチア嬢はあれほど激しく火球を投げながら、あたりを完璧に守っているということなのだろうか。そんなとんでもないことができる人間を、フィネガンはこれまで見たことがない。


「ルクレチア様はどうやってあの、周りを守りながらの戦い方を習得されたのですか?」


 誰にともなく聞くと、

「いいえ、あれは体質なんです」

と一人の侍女が答えた。


「お嬢様は五歳ぐらいのときから不思議な力に守られるようになりまして、その力はお嬢様が他の何かを傷つけないようにも守ってくれるんです」


「ああ! それは神獣の御業ですね! なるほど、ルクレチア様は聖女様なんですね?」


「まあそんなもったいない。お上手ですわね、魔法使い様」


 侍女は華やかな笑い声をあげて、空になったポットを持って行ってしまった。なんとも優雅なしらの切り方だ。ルーベンは見習うべきだろう。


 フィネガンは改めて、悪鬼のような表情で火球を投げている女性を注視した。

 荒れ狂う炎はどんどん多くなるのに、あいかわらず何も焦がさず、何も傷つけていない。聖なる力がどういう仕組みでどこから出ているのかはわからないが、無尽蔵なのだろうか? 

 

 そのとき、一同が息を呑んだ。


 少し疲れが見えてきていたルクレチア嬢が、なにかにつまずき転びそうになったのだ。


 なぜ、あたりを火の海にしかねない、もういっそ討伐対象に間違われてしまいそうな魔法の使い手が、ちょっと転びそうになっただけでこんな空気になるのか、フィネガンにはさっぱりわからなかったが、


「ルクレチア!」

「ルクレチア!」

 皆が浮足立ったなか、二人分の声が鋭くルクレチア嬢の名を叫んだ。一人は侍女たちの陰に隠れていたスチュアート王太子で、こちらは叫んだだけで動きはない。


 もう一人は、ルクレチアに追い回され、半泣きで逃げていた金髪の女性だ。彼女は急に少年のような凛とした声でその名を叫ぶと、倒れつつあるルクレチア嬢のところに光の矢のように飛んでいった。途中で急速に小さく縮み、さらにスピードアップして、ルクレチア嬢の下にもぐりこむ。ぽすんと倒れたルクレチア嬢の下で、ふぎゃっ、と猫のような声が聞こえた。


(しゅ)よ!」

 それまで黙っていた聖騎士が、突如走り出す。ほかの者たちも、水や救急箱や日よけのパラソルを持ってルクレチア嬢のもとに駆けつける。

 再度断っておくが、ルクレチア嬢はただ転んだだけである。


「あら、私、何かつぶしてしまって……」

 さきほどの迫力とは打って変わったおっとりした調子で、ルクレチア嬢がつぶやいた。体を起こして、自身の下に金茶色の猫がいたことに気づくと、

「アウルム!」

と悲鳴をあげる。


「心配するな、ルゥ。この程度でどうにかなる私ではない」


 猫がしゃべった。


 猫にしてはいささか大きめの金茶の虎猫が大きく伸びをしてから、きちんと座り、まっすぐルクレチア嬢を見上げる。


 その傍らに、聖騎士がひざまずいた。

「主よ!」

「ああ、ルーベンか。よく来たな。悪いがそっちのテーブルからクロテッドクリームとミルクを持ってきてくれ」


 猫に名前を呼ばれ、聖騎士は一瞬、感極まったように涙をにじませると、はっ、と低く返事をしてテーブルの方に走っていった。


「ええ? だめよ。昨日あんなにたくさんバターを舐めたばかりじゃない」

「あのなあ。わかっただろう? 私は普通の猫ではない。私の体に食べ過ぎなどという状態はないんだよ」

「あら、そんなのわからないじゃない。……ふふ、変なの。私、アウルムとしゃべっているわ」


 それまで呆気に取られて二人を見守っていた侍女たちと執事が、ルクレチア嬢の笑い声につられて笑顔になった。


 つまり、この猫が神獣ということなのだろうか。

 聖騎士が主と呼んだのだから、そうなのだろう。

 

 となると、ルクレチア嬢が炎を放つ魔力と、投げかけられた火球を打ち消す魔力と、ルクレチア嬢を守る力は、すべて神獣が出していたことになる。

 最後、転んだルクレチア嬢のために体を張ったのは、いよいよ魔力が切れたということだろうか。

 とりあえずは納得したが、一つだけ引っかかる。

 

「あのー、この国の神獣ってオオヤマネコなのでは……」

 フィネガンが恐る恐る聞いてみると、


「おい、余計なことを言うな!」

 いそいそとミルクポットとクリームの鉢を持ってきた聖騎士に咎められたが、神獣は気にする風もなく、

「家猫じゃあ、かっこつかないから、そういう噂を流しておいたんだ」

とあっさりしたものだ。


 そして、また伸びをして、虎猫の姿から人の姿に変わる。

 さきほどの金髪の女性だ。


 結い上げて、なお後光のように広がる黄金色の髪。

 炯炯と光る金の瞳。

 それまでのなよなよとした不自然な動きと表情がなくなると、布をまきつけるような古風なドレスと豪奢な装身具で身を飾ったその姿は、古代の女神のような美しさだ。

 

 ルクレチア嬢より頭一つほど背の低いその人は、今度は人の姿で腰をおろすと、どうだといわんばかりに得意げにルクレチア嬢を見上げる。

 

()()アウルムだったのね」

 ルクレチア嬢はとろけるように甘い声で笑って、両手でそっと神獣の頬を包んだ。

 



 心ゆくまでルクレチア嬢に撫でられたあと、神獣は聖騎士が持ってきたクリームを食べはじめた。そのようすを心配そうに見守りながら、ルクレチアが問いかける。


「それで? あなた、いったいここに何しに来たの?」

 

「バカ王子とルゥの婚約を壊しに来たに決まってるだろう? あいつにちょっとだけ痛い目見せて、ルゥに神獣のすごさを教えて聖人になってもいいかな、と思わせる。目的は全部達成したな」


「普通に教えてくれればよかったじゃない」


「天邪鬼って噂は本当だったんですね」

フィネガンが言うと、神獣はなぜか得意げに微笑んだ。


「ああ、アウルム。それよりあなた、スチュアートに変な呪いをかけたでしょう。早く解いてあげて」

「わかったよ」

 神獣はぽかんとしている王子の目の前で一つ指をはじいた。それで何らかの術から覚めたらしく、王太子は不思議そうに自分を見据える金の目を見返す。


「お前はさ、捨てた女の数だけ、よその国の爺さん婆さん口説いてこい。政治家としてな。で、かつての恋人皆が安心して暮らしていける国を作れそうなら、私が力を貸してやってもいいぞ」


 神獣の言葉に、フィネガンは思わず声をあげそうになった。彼女が人間に協力するのは、おそらく歴史上初めてのことだ。

 

「素晴らしいわ」

 ルクレチア嬢が目を輝かせる。

 どうやら彼女と王太子は、フィネガンが推測していたよりもずっと良好な関係が築いてきたようだ。


「ルゥだって、結婚しないでこいつを助けてやれるなら、そのほうがいいだろ」

 神獣の言葉に、こくこくとうなずくルクレチア嬢。そんな彼女を、神獣の術から覚めた王太子がなんともいえない目で見ていた。

 本当に必要なものは、失ってからわかるものなのかもしれない。

 

5.エピローグ


 その後、ルクレチア・オルドイーニは大勢の使用人を引き連れて、聖なる西の森に移り住み、正式にこの国の聖女になった。

 スチュアートは神獣の言いつけを守り、国内外を飛び回っている。

 国民の多くは、いまだこの国の神獣は天邪鬼のオオヤマネコだと思っているが、それもいつまで続くことやら。あの金茶の虎猫、もしくは黄金色の美女が、黒髪の聖女を伴って国民のまえに現れる未来も遠くないかもしれない。


 果ての塔と西の森の連絡役に任命されてしまったフィネガンは、神獣の近習に抜擢されたルーベンから耳寄りな情報を聞き出そうと、今日も希少な生クリーム持参で西の森を訪れる。

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― 新着の感想 ―
政略結婚の解消から始まり王太子と自称聖女と本物の聖女という登場人物たちの関係性がユニークでとても楽しく読みました。ルクレチア様の普段は呑気なのにいざという時の芯の強さやアウルムへの深い愛情が魅力的でし…
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