第四章 ~『アストレアとの決着』~
夕暮れの風が、庭先の花を静かに揺らしていた。
だが、その穏やかな空気とは裏腹に、クラウスの心は波立っている。
彼は無言で庭を歩きながら、時折、立ち止まっては空を仰いで、また歩き出す。その眼差しは険しく、落ち着きのない様子だった。
そこへ、後ろからそっと声がかけられる。
「……心配か?」
アストレアの声だった。クラウスはその言葉に振り返り、目を細める。
「随分と他人事だな……」
「首謀者はギルベルトだ。この事件はそういうことになっているからな」
あくまで自分は関係ないと、アストレアは念を押す。だが言動と裏腹にその表情は、黒幕のそれだった。
「それにしても、あのクラウスがこれほどまでに一人の女に執着するとはな」
「エリスは私にとって、世界で最も大切な存在だ……居場所さえ分かれば、今すぐにでも助けに行きたいほどにな」
その目には焦燥が浮かんでいる。だが動かないのは、軽率な行動が命取りになると、長年の経験が教えてくれるからだ。
その時、足音が近づいてくる。「失礼します」という控えめな声とともに黒装束の従者が現れた。
アストレアの傍に歩み寄ると、周囲を見渡してから、耳元へと口を寄せる。
「なるほどな」
話を聞かされたアストレアは喉を鳴らして笑う。
「ギルベルトがこっちに向かってくるそうだ」
「エリスは……無事なのか?」
「それはすぐに分かることだ」
アストレアがわざとらしく肩をすくめる。
その時だった。
土を踏みしめる車輪の音が、遠くから徐々に近づいてくる。門の向こうで、馬車の車輪が唸りを上げ、土埃を巻き上げていた。
クラウスもアストレアも、そして従者も一斉に視線を向ける。
「これで勝負ありだな」
アストレアは勝ち誇ったように呟く。
だが、その言葉は、すぐに喉奥で詰まることになる。
馬車が門を抜けて姿を現した瞬間、先頭で手綱を握っていたのは、ギルベルトではなく、エリスだと気づいたからだ。
「なっ……ど、どういうことだ……なぜ、エリスが御者席に?」
明らかに動揺を見せるアストレア。その彼を横目に黒装束の従者が動こうとする。
「殿下、すぐに――」
その従者の言葉が終わる前に、クラウスの拳が飛ぶ。
「遅いな」
肉のぶつかる音が響き、黒装束の従者は宙を舞うようにして吹き飛ばされる。石畳を転がった彼は、完全に意識を失っていた。
静寂が一瞬で庭を包む。緊張で場が支配されていく中、エリスが馬車から飛び降りた。
「クラウス様!」
「エリス!」
エリスが駆け寄り、クラウスも走り寄る。互いの存在を確かめ合うように、二人は抱き合った。
「無事だったのだな!」
「はい。ご心配をおかけしました……」
エリスは穏やかに微笑み、彼の胸に顔をうずめる。あたたかな沈黙が流れていく。
だがそれも束の間、後方から、苛立ちを隠せない声が響く。
「どういうことだ!」
声の主はアストレアだった。普段の冷静さを欠き、思わず声を荒げている。
「なぜギルベルトではなく、貴様が一人で戻って来る?」
エリスは静かにクラウスの胸の中から身体を離すと、アストレアに向き直る。
「ギルベルト様は、すべてを私に託してくれました。計画の内容も、あなたの思惑もすべてです……私を誘拐し、クラウス様に将軍職を辞させる計画。あなたの発案だそうですね?」
「ふん、証拠はあるまい。クズが責任を私に押し付けようとしているだけに過ぎん」
アストレアは鼻で笑い、肩をすくめる。
「すべてギルベルト様が勝手にやったことだと?」
「馬鹿な男が一人で暴走しただけだ……クククッ、良かったな? 誘拐犯が消えてくれて。きっとあいつは処刑されるぞ」
その開き直った態度に、エリスの瞳が鋭く細められる。
「それで、アストレア様はお逃げになるのですね。自らが首謀者であるにも関わらず」
「挑発しても無駄だ。私は帰る。くだらない茶番にこれ以上付き合う気はないからな」
アストレアはそう言い残して立ち去ろうとするが、エリスの声がその背中に刺さる。
「……卑怯ですね」
アストレアの足が止まり、肩がぴくりと動く。
「自分は安全な場所にいながら、人を利用して、泥をかぶらせる。あなたは最低の人間です」
「ふん、利用されるのは、あいつの頭が悪いからだ。私は違う。賢い生き方をしている。だからこそ、私は次期国王にふさわしい男なのだ」
その高慢な言葉に、エリスは嘲笑を返す。
「そうですか。ですが、アストレア様はそれほど賢くないと思いますよ?」
「……何?」
「少なくとも、ギルベルト様より馬鹿なのは間違いありません」
エリスの声音は澄んでいた。嘲るでも、怒るでもなく。ただ事実を突きつけるように冷ややかだ。
やがてエリスは、ゆっくりと懐に手を入れ、黒い小さな箱を取り出す。艶のない漆黒の表面が、日差しを鈍く弾いていた。
「……それは?」
「録音用の魔道具です。ギルベルト様が私に託してくれた切り札でもあります」
「なんだと……」
「彼は証拠を残していたのですよ。アストレア様、あなたとの会話を」
そう言ってエリスが再生ボタンに触れると、『エリスを誘拐してほしい』や『クラウスを将軍職から辞職させる』などの声が流れる。
「ど、どうして……なぜ、あいつが……」
「アストレア様は、心のどこかでギルベルト様を見下していた。『自分の言葉に従うだけの愚か者』だと。だからこそ足元をすくわれたのです」
エリスやクラウスの前では、匂わせることはあれど、犯人だと認めるような言葉は決して口にしなかった。
だがギルベルトの前では別だった。彼を舐めていたからこそ、アストレアは決定的な証拠となる録音を取られてしまったのだ。
「くそっ……あんな奴に……私が……」
アストレアが頬をピクリと引きつらせながら、顔を真っ赤に染める。その彼にエリスは引導を渡す。
「あなたは、公爵令嬢である私を誘拐し、クラウス様の将軍職を奪い取ろうとした。国防の要を揺るがし、国益に反する大罪です。その罪が表沙汰になれば、あなたの王位継承権は失われるでしょう」
「そ、それは……」
「あなたは特別な存在ではなくなり、元王族の犯罪者になるのです」
エリスの宣告は冷徹で、まるで審判を下す女神のように厳かだった。
アストレアの目が見開かれ、その瞳に怒りの炎が燃え盛る。しかし、録音魔道具という決定的な物証を前にしては、反論することもできない。
「くっ……くそ……私はこの国の王になるのだ! それをこんなところで……」
アストレアの手が、腰に差していた細身の剣へと伸びる。
「その証拠を渡せえええっ!!」
金切り声と共に、彼は剣を抜き、エリス目がけて猛然と斬りかかる。
だが鋭い金属音が間に割って入った。
「エリスに手を出させるわけにはいかないな」
「クラウス様!」
彼が素早く前へ出て、剣を受け止めていた。鋼と鋼がぶつかる音が鳴り響き、次第にアストレアの剣が押し返されていく。
「邪魔をするなあああああっ!!」
「するに決まっている。君の相手は、この私だ」
二人の剣が、再び激しく交錯する。庭に砂埃が舞い、剣が何度も火花を散らす。
「私からすべてを奪うのか!」
「奪うのではない。君が自ら手放したのだ」
「黙れええええっ!!」
剣が振り下ろされるたびに、アストレアの怒声が響く。だが、焦りに任せた動きは荒く、次第に隙が大きくなっていく。
「はああっ!」
その隙をクラウスが見逃すはずもない。放たれた一閃が、アストレアの剣を弾き飛ばした。
弧を描いた剣が、庭に転がる。アストレアは敗北を認め、その場に膝をついた。
「終わりだ、アストレア。やはり君は王の器ではなかったな」
「く……くそぉ……! くそおおおおおおおおおっ!」
悔しさと憎しみを滲ませたその叫びは、威厳に満ちた王族のものではない。まるで、野に捨てられた獣の鳴き声のように。虚しく響き渡るのだった。




