第四章 ~『アストレアの屋敷と怒り』~
(トルンは失敗に終わったか……)
王都に構えるアストレア専用の屋敷。その最奥、重厚な扉の先に広がる執務室で、彼はボソリと心の中で呟く。
室内は落ち着いた雰囲気に包まれているが、静寂を打ち破るように、乾いた音が鳴る。彼の手に握られた羽根ペンが二つに折れたのだ。
(また壊してしまったな……)
彼は折れた羽根ペンを無言で卓上の銀の皿に置く。もう五本目だ。最近では一日に数本折るのが常となり、執事が黙って替えを持ってくるのが日課となっていた。
(まさか私がこれほどまでに怒りを感じるとはな……)
第二王子として育った彼は、貴族たちから賞賛を浴び、臣下に膝を折らせてきた。誰もが彼の一言で動くのが当然で、都合良く駒として扱ってきた。
(だが……エリス。あの女だけは違った)
あの冷ややかな瞳。最低限の礼は尽くしながらも、内心では明らかに軽蔑しているとわかる態度。プライドの高い彼が許せるはずもなかった。
(腸が煮えくり返るようだっ)
怒りが我慢できない。歯を食いしばって耐えようと粘るが、また新しい羽根ペンが砕けてしまう。
(私がこんなにも人に怒りを覚えるとはっ!)
落ち着くために椅子の背にもたれたアストレアは、目の前の書類の束に目を移す。
そこにはエリスの経歴が記載されている。
生まれ、育ち、婚約破棄の経緯、そしてクラウスとの関係。すべてを王家直属の情報部に命じて洗わせた結果だった。
(聖女の素質……魔術を無効化する特異体質……それに加えて高い洞察力か……)
この力にハーゲンやヴェルスタン、トルンはやられたのだ。
(ふん、公爵家の政略の道具に過ぎない女が私の計画を邪魔するとはな)
アストレアは心の奥底でエリスを見下していた。だが完全には油断しない。そうやって足元を救われた結果が現状だからだ。
(やはりクラウスを潰すには、先にエリスを排除するべきか……)
エリスの存在が、クラウスの立場を強固なものとしている。軍人としての実力に加え、民の心を掴む聖女が寄り添う。これほど厄介な組み合わせはない。
それに何より、エリスが嫁ぐまでクラウスには大きな欠点があった。
それは容姿の醜さだ。コンプレックスは人を弱くする。過去の彼ならば、その欠点を利用すれば攻略も容易だっただろう。
だが今の彼は違う。受け入れてくれる存在ができたことで、心も強くなっていた。もうどこにも隙がない。
アストレアは再び机に身を乗り出し、エリスの書類を睨むように見つめる。そこで一つの気になる情報を目にする。
(エリスの過去の婚約者か……)
記載された男の名はギルベルト。エリスの元婚約者であり、伯爵の地位にある。
領地は魔道具の生産や販売を主としており、経済的には安定している。ただし本人の性格に難があると、報告書には記載されている。
(これは面白い。あいつらを潰す材料にできるかもしれん)
アストレアは口元に笑みを浮かべながら、指先で書類を弾く。
(まずはこいつを駒にしてやるか)
満足げに頷くと、アストレアは手元の小さな銀の鈴を手に取り、チリンとひと振り鳴らす。かすかな音だが、王家の特注品。鳴らせばどこにいても側仕えが現れる。
すぐに扉が開き、黒衣の従者が姿を見せる。
「お呼びでしょうか、殿下」
「うむ、少々面倒な仕事を頼みたい。ギルベルト伯爵を知っているな?」
「はい。王都でも複数の店舗を構えており、商売は上手くいっていると聞きます。確か、この屋敷にも購入した魔道具があったはずです」
「なら納品された魔道具に瑕疵があったということにして、詐欺の罪状で拘束しろ」
従者が目を見開く。指示の内容が信じられなかったからだ。
「よろしいのですか?」
「構わん」
「ですが、証拠がありません」
「証人も証拠もいくらでも用意できる。私は第二王子だぞ」
将軍のクラウスならともかく、ギルベルトの地位は高くない。王家の権威をチラつかせれば、罪をでっちあげても拘束できる。
従者にそう伝えると、彼は一礼し、扉の向こうに姿を消す。
アストレアは椅子にもたれ、ふぅと小さく息を吐く。すでに勝ったも同然という確信が表情に浮かんでいる。
(私を馬鹿にしたことを後悔させてやるからな!)
書類を一枚ずつ、静かに重ねながら、アストレアは冷酷な準備を着々と進めていくのだった。




