第四章 ~『猫たちが住む森』~
夜の帳が下り、屋敷の灯りが静かにともる頃。白猫が庭先の茂みに滑り込んでいく。夜風が葉を揺らし、猫の小さな影はすぐに視界から消えた。
「……やっぱり、外に出ていきましたね」
エリスが呟くと、スカートの裾をたくし上げて後を追い始める。
「私も行こう」
クラウスも外套を翻し、音を立てぬよう後に続く。
白猫は屋根を登るわけでもなく、裏門をすり抜け、森へと足を向ける。二人は月明かりを頼りに、その後を追いかけていった。
「さすが猫。動きが俊敏ですね」
「子猫じゃなければ、とうに見失っていたな」
クラウスがぼやきながらも、足音を殺して後を追う。森の中では虫の声と、葉を揺らす風の音だけが響き、何かが潜んでいるような気配が纏わりついてくる。
「クラウス様、こっちです」
エリスが指さした先、白猫の尻尾が茂みの先にちらりと見える。
二人はさらに奥へと足を進め、道なき道をかき分けていく。
やがて森が開けた場所に出る。
月明かりがぽっかりと降り注ぐ、小さな草原。そこに白猫が、まるで案内役のように座りこんでいる。真っ白な毛並みが銀の光に照らされて、神秘的に輝いていた。
「ここで止まりましたね」
「偶然というにはできすぎている。犯人と待ち合わせしていると考えるのが自然だな」
二人は茂みの中に身を隠しながら、様子を眺める。すると、草を踏みしめる音が闇の中から近づいてきた。
ほどなくして、月明かりの中に、小柄な商人風の格好をした男、トルンの姿が浮かび上がった。
「よしよし、約束の時間を守れて、お前は賢いなぁ」
「にゃ~」
トルンは手際よく首輪から装飾品を外し、月明かりの下で確認する。
「よし、録音データを回収っと……あれ?」
男が何度か装飾品に触れるが、何も反応を返さない。
「音声が再生されない……壊れたのか?」
焦りの混じった声が静寂を裂く。その様子をじっと見ていたクラウスとエリスは、茂みから顔を出し、静かに口を開く。
「やはり、あなたが犯人でしたね」
エリスの声に、男がビクリと肩を震わせる。
「な、なぜここに……」
「もちろん盗聴の犯人を捕まえるためです」
録音した音声は回収しないと意味を成さない。だからこそ白猫を追ってきたのだと伝えると、トルンは肩を落とす。
回収した現場を見られている以上、言い逃れはできないと悟ったのだ。
「なぜこんなことをした? 貴族の屋敷に盗聴器を仕掛けるなど、軽い罪では済まないぞ」
「そ、それは……私の意思では……」
「アストレアに命じられたのだな?」
クラウスの詰問に、トルンは困り顔を浮かべる。本人は認めていないが、それだけで察するには十分だった。
「やっぱりな」
「わ、私はどうなるのですか?」
「それは君の選択次第だ」
「選択?」
「軍事機密傍受の罪で処刑されるか、すべてを白状するか。どちらを選ぶ?」
「…………」
トルンの喉がゴクリと鳴る。悩む彼の背中を押すように、クラウスは続ける。
「どれだけ忠義を尽くしても、アストレアは使い終わった駒に情けなどかけない。君の口を封じることもいとわないはずだ」
「そんなこと……」
「ないとは言い切れまい?」
「そ、それは……」
「どちらにするか決めろ。今、ここでだ」
クラウスに迫られ、トルンは目を伏せる。
やがて、しばしの沈黙の後、彼は罪を認める。
「アストレア殿下から屋敷の会話を盗聴しろと……弱みを握り、損害を与えるようにと命じられていました……」
トルンの顔は、月明かりの中でさえ蒼白になっている。額には玉のような汗も浮かんでいる。
「アストレアの命令だと証明できるか?」
「それは……」
トルンは答えに窮する、そんな彼に対し、エリスが助け舟を出す。
「おそらくトルン様の言葉は本当ですよ」
「信じていただけますか!」
「状況がアストレア様の関与を証明していますから」
「……状況ですか?」
「例えばこの子、アストレア様の屋敷で教育されたのですよね?」
「は、はい……屋敷の人間に好かれるように、特別な訓練を受けております……」
似顔絵を貼った絵を見せながら餌を与えるなど、刷り込み教育がなされている。そのおかげで屋敷の人間には自然と懐き、外部の者には警戒を露わにしたのだ。
「ただ物的証拠まではありませんね」
「アストレアを追い詰めるのは無理か……相変わらず、狡猾な男だ……」
クラウスが腕を組んで吐き捨てると、トルンが慌てたように口を開く。
「私はすべてを白状しました。これでよろしいでしょうか?」
「約束だからな。罪には問わない。だが弁済はしてもらうぞ。今回の件で、こちらが買う予定だった武器の価格が吊り上げられてしまったからな」
「そ、そんな……」
「牢獄で暮らすほうが好みだったか?」
「い、いえっ! 払わせていただきますっ!」
「賢明な判断だ」
金で済むなら受け入れるしかないと、トルンは苦笑いを浮かべる。そんな中、猫の澄んだ鳴き声が、森に響く。
「この声、他の猫のものですね」
エリスの呟きに呼応するように、森の奥から次々と猫の鳴き声が返ってくる。草むらが揺れ、木の陰から、猫たちが姿を現す。
大小さまざまで猫種もばらばら。淡いグレーの猫に、黒く艶やかな毛を持つ猫、その後ろには、屋敷で飼っている白猫と同じく雪のような毛並みを持つ猫もいた。
「こんなにたくさん……でも、どうして……」
「それは私のせいです」
トルンがポツリと呟く。
「アストレア殿下はたくさんの猫に盗聴のための訓練を施しました。ですが、すべての猫が習得できたわけではありません。最も成績が良かった白猫以外は、邪魔だから処分するようにと私に命じたのです」
「でも処分できなかったのですね?」
「こんなに可愛い生き物、殺せるわけありませんから……だから森に逃がしました。ここなら、生きていけると思って……」
「それで猫が目撃されていたのですね」
納得したエリスが頷くと、猫たちが白猫に擦り寄ってくる。尻尾を絡ませ、互いに身体を寄せ合う姿は、まるで久々の再会を喜んでいるかのようだった。
白猫は軽やかな足取りで仲間たちと森の方へ歩いていく。そして、ふと立ち止まり、こちらを振り返って「にゃあ」と鳴く。
その表情が、まるで「ありがとう」と言っているかのように見えて、エリスは思わず微笑んでしまう。
「仲間たちのところに帰りたいようですね……」
「名残惜しいが認めるとしよう。仲間と一緒に暮らす方がきっと幸せだ」
「ですね」
寂しげな顔でエリスとクラウスは白猫を見つめる。
すると、もう一度だけ、白猫はエリスの方を向いて鳴く。
「お元気で」
エリスの別れの言葉を受けて、猫たちは森の奥へと姿を消す。草木が揺れて、鳴き声が遠ざかっていった。
「少しの間ですが、とてもいい思い出になりましたね」
「ああ……」
クラウスは静かに頷く。闇に紛れていく猫たちの声が聞こえなくなるまで、二人はその場で立ち尽くすのだった。




