第一章 ~『新婚生活と能力』~
新婚生活は、意外なほど平穏だった。
エリスは広すぎるほどの屋敷に少し面食らったが、使用人たちは皆丁寧で、クラウスも仕事が忙しい割にはこまめに様子を見に来てくれる。
そして何より、食事が驚くほど豪華だった。毎晩の食卓には帝国各地の高級食材が並び、目にも舌にも楽しい。最初の数日はナイフとフォークを持つ手が震えたほどだ。
「辺境って、もっとこう、干し肉とか黒パンばかりだと思っていました……」
エリスがフォークで仔牛のローストを突きながら感心すると、クラウスは苦笑する。
「私の肩書きは辺境伯だが、将軍でもあるからな。軍事予算の一部は食事にも反映される」
「なんとも贅沢ですね」
「兵士の士気を高めるためにも食は大事だからな」
「その理屈、好きな考え方です」
さらに驚きは他にもあった。
屋敷の中には、生活を支えるための魔道具が数多く設置されており、暖房や調理器具、照明に水回りまで、すべてが魔力で動いていたのだ。
「やっぱり触れても、壊れないですね」
ある日、キッチンで、自動で動く杓子を眺めながら、エリスは腕を組んで唸る。クラウスがその様子を怪訝な目で見つめていた。
「普通、壊れないと思うのだが……」
「前の屋敷ではこれに似た道具を三つ破壊しました。でもこれは壊れませんから。私が悪いのではなく、きっと道具側の問題だったんです」
クラウスは黙りこむ。なんとなく、反論しないほうが平和に思えたからだ。
そんな時、屋敷の門前から金属の車輪が石畳を叩く音が届く。クラウスが眉を上げると、すぐに使用人が姿を見せて報告する。
「閣下、部下の方が到着いたしました。庭へお通しします」
「エリスも見に来るか?」
「私をご紹介いただけるのですか?」
「素晴らしい婚約者だと、自慢するつもりだ」
二人は屋敷の裏庭へと向かう。
庭ではすでに一台の馬車が止まっており、その脇に立つのは、クラウスの副官である若い騎士だ。
栗色の髪をきちんと結い上げたその青年は、クラウスを見るとすぐに背筋を伸ばして敬礼する。そして、横目でちらりとエリスを見た瞬間、目を丸くして口を開いた。
「こちらの方が閣下の奥様でしょうか?」
クラウスは頷き、薄く笑った。
「まだ婚約の状態だが、いずれそうなる予定だ。美しいだろう?」
「は、はい。とても……その、美人だと思います!」
副官はやや顔を赤らめて答える。
「内面もユニークでな。毎日が予測不能だ」
「それは楽しそうで何よりです」
副官は戸惑いながらも、どこか羨ましそうな目でエリスを見る。彼女はそんな様子に気づいてか、にこりと微笑んだ。
「はじめまして。エリスと申します。クラウス様がお世話になっております」
「い、いえ、こちらこそ閣下には助けられてばかりで……」
副官は慌てて深々と頭を下げる。その姿にクラウスは苦笑を漏らし、話題を戻すように声をかけた。
「で、例の品は?」
「はい。こちらに」
馬車の後部へ副官が回ると、荷台から大きな木箱を引き出す。
クラウスは興味深そうに目を細める。
「これが新型の武器か……」
「商人から入手したもので、魔力を弾に変えて発射できるそうです」
「物理的な弾丸は不要なのか?」
「はい、しかも魔術適性のある兵なら誰でも使えるとのことです」
騎士が箱を開けると、中からは黒い銃が現れる。銃口の先端には魔石が埋め込まれ、どこか異国の技術を感じさせる装飾が施されていた。
「見た目は悪くないな」
「ですが、実際には……その、あまり役に立たず……」
「というと?」
副官はばつの悪そうな顔で答える。
「引き金を引くと、赤い魔力の弾丸が銃口から放たれるのですが……子供が歩くくらいの弾速しかでません。正直、あんなもの誰でも避けられます」
クラウスは苦笑する。魔力に色まで付いているのだから、見て躱すのは造作もない。
「命中すればどうだ?」
「それなりに威力はあります。薄い壁くらいなら貫通しますし、攻城戦には向いているかもしれません」
「ふむ、とはいえ費用対効果が良いとは言えないな……」
「攻城戦用の兵器はもっと安価で確実なものがたくさんありますからね」
副官が肩をすくめると、エリスがぱっと手を挙げた。
「私も触ってみてもいいですか?」
副官は一瞬、戸惑った表情を浮かべる。
「えっと……その……この魔道具は危険ですよ」
「私、こう見えて、未知には挑戦するタイプなので。危険を恐れないのが長所なんです」
「そ、そうですか……」
副官の苦笑いに、エリスは笑みを返す。そして銃へ近づき、その一つを手に取る。
「クラウス様、試しても構いませんよね?」
「……怪我をしそうになったら止めるからな」
「ふふ、クラウス様は過保護ですね」
クラウスが苦笑混じりに頷くと、エリスは銃を手に取り、庭に設置された訓練用の標的へ銃口を向ける。
「いきますよー……えいっ!」
エリスは引き金を引くが、不発に終わる。何も起こらず、銃は沈黙したまま。赤い魔力の玉も、音も、何一つ生じない。
「もしかして故障でしょうか?」
エリスが小首を傾げる。副官が慌てて近づいて銃を確認するが、特に破損は見られなかった。
「うーん、外からだと分かりませんね」
「まあ、別に構わんさ。どうせ役立たずの武器だったからな」
クラウスが肩をすくめる。そのときだ。
訓練用の標的が突如として爆発したのだ。三人は目を見開く。
「な、なにが起きたのだ!」
クラウスが驚いていると、副官が真っ先に反応する。
「先ほど、確かに銃弾の姿は見えませんでした……」
「なのに爆発した。なぜだ?」
その答えは誰も持っていない。一同は煙の向こう、破片と化した標的の残骸が地面に散った様子をジッと眺める。
「……あの、もう一度触ってもいいですか?」
「だが危険かもしれないぞ」
「でも試さずにはいられませんから」
エリスは恐れる様子もなく、目をキラキラと輝かせる。クラウスはその圧に押し切られ、エリスに許可を与える。
彼女は慎重に構え、銃口を次の標的に向けた。
「えいっ!」
沈黙が広がり、銃はまったく反応しない。
「やっぱり弾は出ませんね……」
「いや、どうやら発射されているようだ」
クラウスがそう呟くと、次の標的も爆風とともに破裂する。この結果を作り出したのが、彼女の手に握られた銃なのは間違いなかった。
「これは、さすがに偶然ではありませんね」
「ああ、エリスの放った銃弾によるものだ」
副官が唸るように口にすると、クラウスは同意する。その様子にエリスは首を傾げた。
「もしかしてクラウス様は何か分かったのでは?」
「仮説ではあるがな。聞きたいか?」
「是非!」
「君は私の認識阻害の魔術を無効化しただろう。同じように銃に備わっていた魔力の可視化機能だけを無効化したとしたら……」
「なるほど、不可視の弾丸になっていたから、突然、爆発したように見えたのですね」
そう結論を下すクラウスに対し、副官が呆然とした表情で二人を見る。
「ですが閣下、そんな便利な魔術、聞いたことがありません」
「私もだ。しかし現に起きている。エリスは特別な才能の持ち主だったんだ」
クラウスは青い瞳をエリスに向ける。その視線は彼女を照れさせるが、どこか誇らしげな笑みが浮かんでいる。
「閣下、もしこの力を知られたら……」
「悪人に狙われるかもしれんな……だがそうなっても私が守り抜いてみせる。なにせエリスは私にとって、かけがえのない婚約者だからな」
その言葉は、鋼のように頼もしく、どこか温かかい。エリスは小さく頷きながら、そっとクラウスの袖を握るのだった。