第三章 ~『魔物暴走』~
緑が鬱蒼と茂る森の中、木々の葉が昼間の陽光を遮り、地面には暗い影が広がっている。
その中を、息を切らしながら走ってきたヴェルスタンは、倒木の影に身を潜めた。
「はぁっ、はぁ……ここまで来れば……」
彼は地面に膝をつき、手のひらで額の汗を乱暴に拭う。呼吸が荒く、体は震えているが、その震えは疲労よりも、絶望から来るものだ。
ここはシュトラール辺境領でも人が滅多に足を踏み入れない禁域に近い森だ。街道からもかなり外れており、地図にも載らないほどの場所だ。
「街からも離れた……ここなら、そう簡単には見つからない」
ひとまずの安堵が胸を満たしかけたそのとき、遠くで不気味な鳥の鳴き声が響く。森に住む魔物は夜行性のものも多い。だが昼間でも油断はできない。
ヴェルスタンは背後をちらりと振り返り、剣の柄に手をかけながらも呟く。
「だが、ある意味では安心か……」
もし人海戦術を使って森を探されれば、居場所を特定されるのも時間の問題だ。しかしこの森の中なら、魔物の脅威があるため、実力者以外は踏み込めない。人数に頼った探索ができないのだ。
「……とはいえ、油断もできない。緊張は拭えんな」
倒木に背を預け、空を見上げるが、木々の枝が視界を塞ぎ、空など一欠けらも見えない。まるで世界から隔絶されたような閉塞感が、彼の胸を締めつける。
「いや、逃げ切れたとしても、私は終わりか……」
盗賊に扮して商人を襲った証拠を握られたのだ。もう言い逃れはできない。王家に使える執務官としての立場は諦めなければならない。
「エリス、あの女さえいなければ……」
録音がなければ、のらりくらりと釈明できた。だがエリスの機転によって、それは封じられてしまった。
「このままではアストレア殿下も私を見限るに違いない」
冷酷で成果主義的な人物だ。役立たずの部下に情をかけるはずもない。
「いや、見限るどころか……口封じされても……」
最悪の可能性が脳裏をよぎる。
ヴェルスタンはアストレアの直近として、彼の悪事に付き合ってきた。それが表に出る危険を犯すはずもない。口を割る前に何らかの対処をするはずだ。
「私は……殺されるかもしれない……」
その言葉は冗談でも妄想でもない。背筋を冷たいものが流れ、肩が震える。もはや、王都に戻ることもできず、辺境にもいられない。
「こんなはずでは、なかったのに……」
顔を覆い、嗚咽のような呻きが漏れる。かつては有能な執務官と持て囃され、アストレアの側近として将来を嘱望されていた男が、今や魔物の潜む森でひとり震えている。
「……惨めだな、私は」
口から自然とこぼれた言葉に、唇がひきつる。
そのときだった。
遠くから獣の遠吠えが届く。腹の底に響くような咆哮に、ヴェルスタンの背筋が凍る。
「やはり魔物がいたか」
即座に立ち上がり、腰の剣に手をかける。
気配は一つでは足りない。獣の影が地面を走り、そして、茂みが割れた。
牙を剥いた銀灰色の狼が、一気に飛びかかってくる。その目は血走り、腹を空かせた猛獣のものだった。
「腐っても私は近衛兵だ!」
ヴェルスタンの剣が横に薙がれ、狼の体が空中で切り裂かれる。血飛沫が宙を舞い、土に濃い染みを作る。
直後、二体目が斜めから飛び込んでくる。ヴェルスタンは身を屈め、その勢いを利用して背後から斬り上げた。
「遅いんだよ!」
吠える暇もなく、二体目の狼も倒れる。最後の一体が距離を取って唸り声を上げるが、それ以上は近づかない。勝てないと悟ったのか、遠くへ逃げ去っていく。
ヴェルスタンは呼吸を整えながら、倒れた狼を見下ろす。血の匂いが鼻をつき、剣先から赤い滴がぽたぽたと落ちる。
「まだ息があるのか。さすがは魔物、しぶといな」
ヴェルスタンは、血まみれの狼を見下ろしていた。息は浅く、断末魔のような喘ぎがその喉から漏れている。
だがヴェルスタンは魔物を憐れんだりはしない。むしろ、利用価値があると閃きが浮かぶ。
(そうだ……私には魔術がある……)
ヴェルスタンは魔物の精神に干渉し、意志を奪い、本能だけを暴走させる魔術を扱えた。
王都の審問官に「悪魔の能力」とまで評された異端の魔術は、あまりに影響が大きすぎるため、今までは使用を封じてきた。
「どうせ破滅するのなら、全部壊してやるさ……この領地ごと、地に堕としてやる」
ヴェルスタンは片手を魔物に向け、黒い霧を吹き出す。
すると瀕死だった狼の身体が痙攣し、よろめくように足を踏み出した。苦しげに吠えるその声は、もはや理性の影すら残していない。
瞳が赤黒く染まり、牙は伸び、肉体が異様に膨れあがる。
「……いい子だ。そのまま街へ向かえ。暴れて、壊して、恐怖を刻み込め」
狼が咆哮を上げ、走り出す。ヴェルスタンはそれを見送りながら、にやりと笑う。
「この森なら魔物に困ることはない」
彼は森の奥に目を向け、木々の間に潜む気配を感じ取る。この数え切れないほどの魔物を街で暴れさせれば、きっと領地の評判は地に落ちる。
「見ていろ、エリス、クラウス! 私を追い詰めたことを後悔させてやる!」
森の中でヴェルスタンが叫ぶ。怨嗟の籠もった声は、樹木に反射して反響するのだった。




