第三章 ~『マルコの辞職』~
放火騒ぎから数日後、ヴェルスタンは、顔を伏せて街の通りを足早に歩いていた。だがどれほど顔を隠しても、通行人が横切るたびに、ささやく声が届く。
「あれが例の執務官?」
「麦畑を燃やしたって……本当なのかしら?」
「王家から派遣された人間が、なんてことを……」
ヒソヒソという声が風のように耳にまとわりつく。中には、子どもに『見ちゃだめよ』と注意する母親までいた。
ヴェルスタンの眉間が深く寄り、歩くたびに靴音が重く響く。唇をきつく結び、苛立ちを噛み殺すように、その顎はわずかに震えていた。
(屋敷にさえ帰れば、この不愉快な囁きも終わる……)
王室近衛隊の執務官として派遣された彼には、シュトラール辺境領の中でもひときわ豪奢な屋敷が用意されていた。
石造りの二階建て、重厚な扉と手入れの行き届いた庭。王都の貴族邸にも劣らぬ造りに、初めて見た時は満足感すら覚えた。
その屋敷には忠実な部下たちが待っている。侮蔑の視線を向けてくる者もいない。彼にとってのオアシスだった。
だが通路を進んだ先、屋敷の門が視界に入った瞬間、ヴェルスタンの足がぴたりと止まる。
門の前には、人が溢れていた。しかもただ立っているのではない。明らかに何かを叫んでいた。
「騎士の皮を被った放火魔め!」
「麦畑を焼いた男に、この町の空気を吸う資格はない!」
「一刻も早く立ち去れ!」
屋敷の門前では、群衆が布の切れ端に罵詈雑言を書き連ねて掲げていた。
彼らは不満をぶちまけるように屋敷に石を投げつける。その内の一つがヴェルスタンの足元を転がる。
眉間の皺が一段と深く刻まれ、彼の目がギラリと光る。憤怒と屈辱が混ざり合ったような表情を浮かべ、ヴェルスタンはついに怒声を上げた。
「どけッ! 今すぐその道を空けろ!」
その声は鋭く、圧のこもった一喝だった。その声を聞いた最前列の群衆は、思わず一歩退く。
静まり返る中、ヴェルスタンは群衆を横目に門をくぐる。
屋敷の扉が閉まった瞬間、外の騒ぎはまるで異世界の出来事のように遠のいていく。だが、彼の苛立ちは収まらなかった。
(ふざけおって……この私を……)
拳を握りしめながら、廊下を踏み鳴らすようにして歩き、執務室の扉を乱暴に押し開ける。
室内には見慣れない若い青年がいた。彼は棚の上に置かれた書籍を整えていたが、ヴェルスタンの登場に驚いて、あわてて手を止める。
「お、お帰りなさいませ、ヴェルスタン様」
「マルコはどうした?」
「マルコ様なら……つい先ほど、辞表を置いて出て行かれました」
「なんだとっ!」
「止めたのですが……『もうついていけない』と……それだけ言い残して……」
部下の言葉が終わるのと同時に、執務室の空気が凍りつく。
ヴェルスタンの瞳が細められ、静かな怒気が部屋を満たしていく。
「そうか……そうか、そう来たか、マルコ……」
言葉とは裏腹に、ヴェルスタンの表情は笑ってなどいない。むしろ、その口元は引きつり、こめかみの血管がぴくりと脈打っている。
「目をかけてやったのだぞ……平民上がりだと他の連中に馬鹿にされていたのを拾ってやったのは、誰だと思っているのだ!」
怒声と共にヴェルスタンは、椅子を蹴り飛ばす。重厚な木製の椅子が床を滑り、壁に激突して倒れる。
青年が声も出せずに立ちすくむ中、ヴェルスタンは肩で息をしながらしばし沈黙する。
やがて、ふっと鼻で笑う。
「……まぁ、いい。部下は他にもいる。惜しくもない」
言葉と裏腹に、声には微かな悔しさが滲んでいる。
(だが……このままでは、手がない……打開策が必要だ……)
唇を噛みしめると、そのまま窓辺へと歩を進める。外の様子を見下ろすと、屋敷前の群衆の数が増え、投げ込まれる石も大きくなっていた。
「シュトラール辺境領は治安が良いと聞いていたが嘘ではないか……」
その一言を発した瞬間、彼の目がわずかに光を帯びる。まるで暗闇に光明が射し込んだように、ある考えが頭の中に浮かんだのだ。
(もし領地の治安がもっと悪化すれば……クラウスの統治能力が疑われ、民は不安に陥る。秩序の乱れは信用の崩壊だ。混乱が続けば、いずれ悪評が広がっていく……)
思いついた妙案に、自然とヴェルスタンの口元が歪む。
「やれる、やれるぞ!」
彼は机に戻ると、引き出しから一枚の地図を取り出し、シュトラール辺境領の要所をなぞっていく。
(治安悪化とくれば、盗賊の襲撃だ。夜陰に紛れた腕利きの近衛兵に旅人を襲わせる。それならば目撃者も出まい)
指先が地図の上で止まる。
(混乱が広がれば、人々はクラウスに失望し、次第に遠ざかっていく……そうなれば、将軍に不適格だと、軍からの追放も現実味を帯びてくる……)
浮かんだ策に自分はやはり天才だと、彼は喉を鳴らして笑う。
(覚えていろよ……クラウス、エリス。私は屈辱を絶対に忘れん。必ず貴様らを地獄に落としてやる!)
心の中で誰にも聞かれることのない復讐の誓いを立てる。その瞳は狂気に満ちていたのだった。




