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第三章 ~『炎魔術の謎解き』~


 空がまだ群青色で、地平線の向こうにかすかな朝の気配が漂い始めた頃。


「閣下、麦畑が燃えています!」


 急報を受けたクラウスは、眠りから覚めたばかりのエリスと共に屋敷を飛び出す。馬車に揺られながら、眉間に深い皺を寄せ、黙して言葉を発さない。隣で揺られるエリスも、ただ不安そうに両手を握りしめていた。


 やがて馬車が麦畑に到着する。そこでは、薄暗い闇の中で赤い炎がうごめいていた。


「これは……」

「酷いですね……」


 夜風に乗って、焦げた麦の匂いが鼻をつく。地を這うように広がった炎は、白い煙を巻き上げながら、次々に麦を呑み込んでいく。


 その傍らでは、近くに住む領民たちが必死に井戸水をバケツで運んでいる、燃えさかる炎に浴びせているが、それを嘲笑うかのように、勢いは衰えない。


「ダメだ、追いつかねえ!」

「こっちも延焼してきたぞ!」


 領民たちは額に汗をにじませ、泥まみれになりながら走り回っている。中には煙で咳き込み、地面に膝をつく者もいる。


「クラウス様……」


 エリスの声は震えていた。領地の生活を支えてきた象徴とも言える麦畑。それが今まさに灰に変わろうとしていた。


 クラウスは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸い込む。そして、迷いなく声を張り上げた。


「我々も手伝おう。今ならまだ被害は小さい」

「はい!」


 だが井戸に水を取りに行こうとした刹那、エリスは違和感に気づく。


「クラウス様、この炎の動きおかしくありませんか?」

「おかしい?」

「風向きと逆に動いています」

「確かにな。まるで意思を持つ生き物のようだ」


 パチパチと爆ぜる火花の不自然さを眺めながら、エリスは覚悟を決める。


「もしかしたら、試す価値があるかもしれません」

「待て、危険だ!」


 クラウスが止めようと伸ばした手よりも先に、エリスは炎へそっと掌をかざす。白磁の肌が赤い火を受けた瞬間、轟々と唸っていた炎が跡形もなく消え失せる。


 辺りが静まり返る。


 先ほどまで熱に照らされていた麦畑は、黒く焦げた地表と、まだ蒸気を上げる残り火がわずかに点在するだけとなった。


「な、何が起きたんだ?」

「確証はありません。ですが――きっと、今の炎、魔術で生み出されたものです。だから私の無効化が効いたんです」

「つまり自然発火でも魔道具の故障でもない、ということか……」

「ええ。井戸水で消えなかったのも、魔術の火だからです」

「なるほど、話の筋が通るな」


 クラウスが納得していると、遠くからざわめきが届く。


 異変の知らせを聞きつけた人たちが次々に集まり、焼け焦げた畑を囲んで騒然としている。焦げた空気とともに、緊張が場を支配していく。


「ひどい有様だな……」


 野次馬の中で嘲るような声が割って入る。群衆の隙間から現れたのは、ヴェルスタンとその部下であるマルコだ。


 焼け焦げた麦畑を見渡しながら薄く笑う彼に、クラウスは訝しげな目を向ける。


「なぜ君がここに?」

「私は監査が役目ですから。騒ぎとあれば、駆けつけますとも。それより、この火災、魔道具のせいではありませんか?」

「根拠はあるのか?」

「ありません。ですが、自動農具の原理が解明されていないのもまた事実。不安要素のあるものを使い続けるのは止めた方がいい」


 これはあくまで忠告だと、ヴェルスタンは語る。だがその言葉を、エリスがはっきりとした声で否定する。


「この火災は魔道具のせいではありません。これは魔術によるものです」

「下手な言い訳ですね」


 ヴェルスタンは鼻で笑う。


「突拍子がなさすぎる。魔道具の誤作動の方がまだ自然です」

「では、風向きをどう説明しますか?」


 エリスの鋭い問いに、ヴェルスタンの眉が動く。


「……風向き?」

「この地方では、夜通し東から西へ風が吹いていました。ですが、この炎は風に逆らい、西から東へと燃え広がっていたんです」


 周囲の領民たちがざわつく。彼らの中の何人かは、昨夜の風の動きを覚えていたからだ。


「さらに、畑全体の焼け方も不自然です。魔道具が原因なら、熱源を中心に円形に焦げるはず。ですが、今回の焼け跡は線状に伸びていました。まるで、炎そのものが動いていたかのようです」


 エリスの言葉にヴェルスタンの顔が引きつる。


「で、では……風が途中で変わったのでしょう!」

「残念ですが、それもありません。この地の風は安定しています。一晩中、風向きは一定でしたよ?」

「う、ぐっ……」


 押し黙るヴェルスタンに、周囲からも疑念の声が漏れ始める。


「と、とにかく! 魔道具の仕業に違いない! こんな危険なもの、今すぐ使用を中止するべきです!」


 ヴェルスタンは怒鳴るが、集まった群衆の反応は冷ややかだ。誰もが、その焦燥に満ちた態度に不自然さを覚え、顔を見合わせていた。


「本当に魔道具が原因なのか?」

「燃え広がり方がどう見てもおかしいだろ」

「風と逆に燃えてたぞ。あんなの初めて見た……」


 ひそひそと、だが確実に広がっていく疑念の声。ヴェルスタンはそのざわめきを押さえつけるように吠える。


「黙れ! これは明らかに魔道具の欠陥だ!」


 だがその言葉は誰の心にも響かない。そのときだ。静寂を切り裂くように、クラウスが一歩前に出て口を開く。


「そういえば、君は炎魔術の使い手だったはずだな?」


 誰に問いかけるでもなく、発せられた言葉。だがそれに反応した者がいた。マルコである。


「どうして、それを?」

「馬鹿っ!」

「あっ!」


 ヴェルスタンが声を荒げてマルコを睨みつける。彼は肩を震わせ、唇を噛んだままうつむいてしまう。


「今の反応……やはり、そうか。カマをかけた甲斐があったな」

「閣下、誤解なのです。私はその……」


 マルコが弁明しようとするが、それを封じるようにクラウスは言葉を重ねる。


「君が炎魔術の使い手だとして、犯人である証拠はない。だが今回の火災で、麦畑の一部は大きな損害を受けた」

「そ、それは……」

「この麦は、この領地の人々にとって、生きる糧だ。君のせいで、本来届けられるはずだった者たちが、飢えるかもしれない。それは理解しているのか?」

「わ、私は……」


 彼の言葉に、マルコはぎゅっと拳を握り、視線を足元に落とす。そんな彼の背中を押すように、クラウスは優しく語りかける。


「だが証拠もないのに追求もできない。だから君が二度と同じことをしないと誓い、素直に罪を認めるなら、本件は不問にすると約束しよう。どうだ?」


 しばしの沈黙が場を支配する。


 誰もがマルコの口から何が出るのかを固唾を飲んで見守っている。


 やがて彼は強く拳を握り、しぼり出すように言葉を吐いた。


「……やりました。畑に火を放ったのは、私です」


 その瞬間、群衆からどよめきが起きる。


「なんてことを……」

「やっぱり魔道具じゃなかったんだ……」

「この悪党どもめ」


 領民たちがざわめく中、その声を押さえつけるようにヴェルスタンが叫ぶ。


「マルコ、貴様は何を言っている!」

「で、ですが……」

「いますぐ発言を撤回しろ。今すぐにだ!」


 怒りで顔を赤くしながら、ヴェルスタンが声を荒げる。だがマルコは視線を伏せたまま、小さく呟いた。


「申し訳ありません……私は自分でも思っていた以上に正直者のようです」

「貴様ぁ!」


 今にでも飛びかかりそうになるヴェルスタン。そんな彼らのやり取りを眺めていたクラウスは、一拍置いてから口を開く。


「マルコ、今回は見逃す。だがもう二度と同じ真似はするな」

「はい。必ず……」


 マルコは深く頭を下げ、地面を見つめたまま、ゆっくりとその場を離れていく。人々の視線は厳しくも哀れみを含み、彼の背中に突き刺さっていた。


「ヴェルスタン。君もだ」

「わ、私は本件と無関係だ」

「そんな嘘が通用するとでも?」

「うぐっ……」


 ヴェルスタンは悔しげに唇を噛みしめると、ぐるりと身を翻し、その場を足早に立ち去る。


 その背中を見送りながら、エリスがクラウスの方を向く。


「本当にこれで良かったのですか?」

「構わない。この話はすぐに領民の間にも広まる。畑に火を放ったと噂が立てば、二人の評価は否応なしに地に落ちる。それを罰としよう」

「クラウス様は本当に寛大ですね。まぁ、そこが魅力の一つでもあるんですが」

「はは、それは光栄だな」


 クラウスは照れ隠しのように顔を背け、もう一度焼けた麦畑を見やる。朝日が地平から顔を出し、黒く焦げた大地を少しずつ照らし始めていたのだった。


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