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第一章 ~『クラウスの緊張』~


 クラウス・シュトラール辺境伯は、滅多に動じない男だ。


 帝国軍の将軍であり、幾度もの戦場を駆け抜けてきた武人。その名を聞けば、辺境の蛮族は震え上がる。


 しかし、今の彼はいつもの凛々しさがない。屋敷の広間で椅子に腰掛けながら、手に持ったカップを震わせている。


「……緊張しているのか、私は」


 誰にともなくつぶやくと、正面に控える老執事が微かに口元を緩める。


「無理もございません、閣下。今日という日は、人生において最も重要な転機となりますでしょうから」


 クラウスの視線の先には、壮麗な屋敷の内装が広がっている。


 高い天井には豪奢なシャンデリア。赤絨毯の敷かれた大理石の床。辺境伯の屋敷とは思えない、帝都の公爵邸に引けを取らない規模と格式がそこにはあった。


「将軍職のおかげで私は帝国でも五本の指に入る資産家だ。だが、ここまで広い屋敷に、たった一人で住んでいてもな」


 皮肉のように笑いながら、クラウスは顔を伏せる。家族が欲しい。そんな彼の願いがようやく叶う日が来たのだ。嬉しさを我慢できずにいた。


「……今度来る花嫁は、私の顔について知っているのだな?」

「はい、閣下。間違いなく、ご存知です」

「それでもいいと?」

「とのことです」


 老執事は淡々と、しかしどこか誇らしげに答えた。


「この顔だぞ。本当にいいんだな?」


 クラウスは自らの頬に手を添えて、鏡を見据える。頬骨は張り出し、眉は太く、鼻は鋭角だ。常人が見れば鬼と間違えそうな風貌だ。


「……あまり顔を気にしないタイプのようです」

「そんな令嬢がいるのか?」


 クラウスは目を細めて天井を仰ぎ見る。


 かつて彼が社交場に出た時、そこで舞っていた蝶たちは、金と名誉と美貌を求める者たちばかりだった。


 その内の何人かがクラウスに言い寄ってきたことはある。しかし時間の経過と共に、容姿の醜さに耐えられなくなり、そのすべてが離れていった。


「皮肉なものだな。金も名誉も手にしたというのに、手を取ってくれる相手は誰一人いないとは……」

「きっと今度のご令嬢は違いますよ」

「だといいがな」


 そのとき、遠くから馬車の車輪の音が響く。それを耳にしたクラウスは勢いよく立ち上がった。


「……来たか」


 執事が一礼し、慣れた動作で扉の方へと向かう。クラウスは自らの軍靴の先を見つめ、一つ深く息を吸う。


(落ち着け……私は戦場でも怯えなかった男だ。令嬢一人に動揺してどうする)


 扉が音もなく開く。


 赤い絨毯の先、日差しの中に立つのは、一人の少女だ。


「ようこそ。私はクラウス・シュトラール辺境伯だ」


 クラウスは胸に手を当て、深く頭を下げる。その動きには軍人らしい礼節が滲んでいた。


「はじめまして。アークウェル公爵家のエリスです」


 声は澄んでいて、どこか小鳥のさえずりのように軽やかだ。


 クラウスが顔を上げると、そこにいたのは漆黒の髪を後ろでまとめた美しい少女で、白い肌にくっきりとした睫毛。目元は柔らかく、唇には品のよい微笑を湛えていた。


(美しいと……思ってしまった)


 クラウスは自分と同じ醜い容姿の令嬢が嫁いでくるのだろうと予想していた。


 だが現実は違った。エリスの容姿は整っており、公爵令嬢に相応しい品格を漂わせている。


(いや、真に驚くべきは……)


 何より彼が動揺したのは、エリスの表情だ。


 クラウスの顔を見て、眉一つ動かさない。怯えも驚きもまるでなかった。


「……その、私の顔を嫌悪しないのか?」

「初対面の相手にそんな失礼なことしませんよ」

「そ、そうか……」

「それに顔なんて、目と鼻と口がついていれば十分です。場所が多少違っていても、機能に支障がなければ問題ありませんから」

「機能?」


 クラウスは思わず聞き返す。


「ええ。見る、嗅ぐ、食べる、話す。それができれば、人としては完璧です」

「いやいや、普通は……もっとこう……形とか、整いとか……」

「私から言わせれば、そんなのどうでもいいです。人柄の方が、ずっと大事でしょう?」


 エリスの瞳はまっすぐだ。曇りなく、屈託もない。クラウスは思わず後ずさりそうになるが、なんとか踏みとどまる。


「……それに、あなたの顔は整ってますよ?」

「……は?」

「目元とか凛々しいですし、鼻も高いです。口元は少し固そうですけど、そこがまた誠実さを感じます」

「そんなはずはない。私の顔は認識阻害の魔術のせいで……」

「阻害?」


 クラウスは顔を伏せるようにして、ぽつりと疑問に答える。


「私は剣技が得意だが、魔術の扱いは不得手でな……認識阻害の魔術が意識せずに発動し、見る者すべてに『鬼の形相』のような容姿だと思わせるのだ」

「なるほど……」


 エリスは顎に手を当てて考え込むと、一つの結論を下す。


「つまり、私はその魔術の影響を受けない……ってことですね」


 クラウスは唖然と彼女を見る。


「……平然と受け入れるのだな?」

「いえ、まぁ、魔術ってそういうこともありますよね」

「君が初めてなんだが……」


 呟きがぽろりと零れると、エリスはそんな彼をじっと見つめて、ふわりと微笑む。


「とにかく、私の目にはあなたが美しい青年に見えています。黄金を溶かしたような金髪と、澄み切った青い瞳。確かに表情は固いけど、それはきっと緊張しているからでしょう?」

「緊張……いや、これはその、だな……」

「容姿を褒められ慣れていないからですね。納得です」

「まぁ、そうだな……初めての経験だ……」

「自信を持ってください。顔に興味のない私が『美しい』と思うのですから、きっと他の人も同じように思うはずです。胸を張ればよいのです」

「あ、ああ……」


 エリスの言葉に、クラウスは照れくさそうに頷く。まるで氷が少しずつ溶けていくように、肩の力が抜けていく。


「改めて、ようこそ、エリス。この屋敷を我が家だと思って過ごして欲しい。君の望みも、なんでも叶えるつもりだ」

「なんでもですか?」


 エリスは目を輝かせて身を乗り出す。クラウスはその勢いに一歩たじろぎながらも、真剣な眼差しで答えた。


「あ、ああ。君が望むことなら……」

「では、魔道具を壊しても婚約破棄はしないでください」


 ほんの一瞬、クラウスは目を見開いたが、すぐにふっと笑った。エリスもくすくすと笑い、その場の空気が柔らかくほどけていく。


 二人はまだ出会ったばかりだが、心のどこかで、妙に自然な温かさが芽生え始めていた。


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