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第三章 ~『理不尽な監査』~


 翌朝、シュトラール辺境領の空は鈍く濁った灰色に染まり、雲は低く垂れ込めていた。


 まるで何か不吉な予兆を運んでくるかのように、風は湿気を孕み、通りを吹き抜けていく。


 その不穏な空の下を、黒塗りの馬車が石畳を駆けていた。車体の側面には、王室近衛隊の紋章が誇らしげに掲げられており、その重々しい装飾は、威厳よりも圧迫感を人々に与えている。


「おい、あの馬車……」

「監査で来たって噂の……ヴェルスタンとかいう、王都の人間だろ」

「下手に目を合わせると、何を言われるかわからんぞ」


 通行人たちは警戒するように道の端へと避け、屋台を営む商人たちも、慌ただしく商品を並べ直したり、埃を払ったりと手を動かしている。


 その馬車が広場の一角に停まり、扉が開くと、まずヴェルスタンの副官であるマルコが姿を現す。


 彼は周囲を確認し、やや躊躇いがちに地面に足をつける。その後、ゆっくりとヴェルスタンが降り立った。


「ふん、辺境の市場だと侮ってはいたが、上辺だけは整っているな」


 感想を漏らしながら、ヴェルスタンは市場を歩く。まるで品評会の審査役のように屋台を見て回り、売り物を舐めるように眺めていく。


 やがて、彼の足が果物屋の前で止まる。


「ふん、林檎か……」


 彼は一つ手に取ると、軽く袖で拭ってから、なんの断りもなくそのまま齧り付く。


 シャク、と皮が裂ける音が静かな市場に響く。


「ふむ……」


 噛みしめた直後、その額に皺が寄った。


「見栄えばかりで中身はやはり伴っていないな。みずみずしさの欠片もない。まるで干からびた石のようだ」

「はぁ、そうですか……」


 不満を伝えられた果物屋の老店主は、うんざりとした表情を浮かべる。その反応に気づいたのか、ヴェルスタンは笑う。


「私の評価が不服か?」

「いえ、私どもからすると、十分に美味なので……」

「それは王都の果実を知らぬからだ。一度でも食べてみろ。その味の違いに腰が抜けるに違いない」

「ふふっ、そうですか」


 老店主は笑いを堪えるように口を抑える。


「……なにが可笑しい?」

「あの、大変、申し上げにくいのですが……そちらのリンゴ、王都からの輸入品でございます」


 気まずい空気が流れていく。だがすぐにヴェルスタンは、恥をかかされたと気づいて、耳まで真っ赤にする。


「私を侮辱しているのかっ!」

「い、いえ、決してそのようなことは……」


 老店主が弁明しようとした瞬間、ヴェルスタンは彼の胸倉を乱暴に掴み上げ、石畳の床に叩きつける。


「この程度の果実で、王都と同じ品質だと! 笑わせるな!」


 激昂したヴェルスタンは、足を振り上げ、そのまま倒れた老人の脇腹を蹴ろうとする。だがそれをマルコが慌てて止める。


「お待ちください!」

「なぜ止める!」

「それ以上は……目撃者が……」


 周囲には買い物途中の夫婦や子供、他の露店商たちの目がある。


 このまま暴力を振るったとして、そこに正当性を見出すのは難しい。冷静になったヴェルスタンは鼻を鳴らして、激情を押さえ込む。


「この領地はどいつもこいつも不愉快なやつばかりだ!」


 そう吐き捨てると、ヴェルスタンは老人を無視して、市場の街道をずかずかと歩き出す。


 その歩調は苛立ちに満ち、普段よりも速い。部下のマルコが「ヴェルスタン様、お待ちを」と小走りでついてくるが、当の本人は振り返りもせずに進む。


(とんだ恥をかかされた!)


 怒りが収まらないまま、マルコを置き去りにして先に進む。


 すると不意に威厳ある木造の建物が目に飛んでくる。傍にはカヌーレ商店と記された看板が置かれていた。


「王都でも、これほど立派な店はそうそう見かけん。まさか、こんな辺境に……」


 怒りと嫉妬が混ざりあった表情を浮かべながら、ヴェルスタンは店の扉を乱暴に押し開ける。金属の取っ手が音を立てて震え、開いた扉が壁にぶつかる。


「失礼するぞッ!」


 声を荒げて踏み込むと、彼は目の前にあった商品棚を一瞥する。


 そして次の瞬間、そこに置かれていた麦の袋を横殴りに薙ぎ払った。鈍い音を立てて袋が吹き飛ぶと、布の縫い目が裂けて、麦粒が床一面に散ってしまう。


「な、なにをするんですか!」


 奥から飛び出してきたのは、店主と思しき若い男だ。焦燥の色を浮かべながら、ヴェルスタンの前に立ちはだかる。


「お客様であっても、こんな真似は許されませんよ!」

「私は客ではない。王家から派遣された執務官だ」

「では、あなたが噂の……」

「故にこれはあくまで監査の一環で麦を調べているだけだ。こんな風にな!」


 ヴェルスタンは袋に入った麦を蹴り飛ばす。悪意に満ちた彼の行動を、店主が抱きついて止めようとする。


「私に一体なんの恨みがあるんですか!」

「貴様にはない。だがな、クラウスとエリス。あの二人のせいで、私は恥をかいたのだ。この恨みを領民である貴様にぶつけて、解消しておるのだ」

「そんなもの、ただの逆恨みではありませんか!」


 それからもヴェルスタンの暴走は止まらない。商品の麦を踏みつけて、台無しにしていく。その様子を絶望しながら眺めていた店主は情に訴えても無駄だと悟る。


「分かりました。暴れるのを止めていただけるなら、ヴェルスタン様に協力します」

「……協力だと?」


 突然の提案にヴェルスタンは動きを止める。


「きっと、あなたは領主様を陥れたいのですよね?」

「端的に言うとそうだな」

「なら私はお役に立てます。もちろん私も商人ですから、利益はきちんと頂きます。もし私が貢献できたなら、あなたの持つ王族との人脈を貸していただきたいのです」


 店主の目がギラリと光る。先ほどまでとは異なる雰囲気に気圧されながらも、ヴェルスタンは協力の内容に興味を惹かれる。


「貴様、名前は?」

「商店名にある通り、カヌーレと申します」

「では聞かせろ。どのようにして私の役に立つ?」


 ヴェルスタンの問いに、カヌーレはゴホンと息をつく。


「この領の繁栄は、麦の流通に支えられています。ですが……もしそれが欠陥品だったとしたらどうでしょう?」

「欠陥などあるのか?」


 ヴェルスタンは訝しげに眉をひそめる。だがカヌーレは笑って首を横に振った。


「ありません。だから作ればよいのです」

「ほう……」

「ちょうど、傷み始めた麦と、虫の湧いた在庫がありまして。捨てるには惜しいですが、売り物にはならない。そこで――」


 彼は店の奥から、丁寧に巻かれた羊皮紙を取り出す。それは赤い印の押された麦の売買契約書だ。


「これにサインしていただければ、この麦を貴方に納品させていただきます。その後、貴方が、品質の悪さで被害を受けたと叫び、領主様に賠償を求めるのです」

「なるほど。シュトラール辺境領では魔道具で麦を栽培していると聞く。もしそのせいで痛みやすくなると風聞を流せば……」

「慰謝料も頂けて、領主様に損害を与えることもできる。実に妙案だとは思いませんか?」

「確かにな……いいだろう。その計画、乗ってやろう」


 合意を得たカヌーレは、商品名、数量、取引の日時を埋めていく。そして但し書きに『虫食いや傷みありのため、価格は通常の半額で提供』と追記する。


「半値で売ってくれるとは、気が利く男だな」

「これからも長い付き合いを期待したいですから」


 カヌーレは平然と微笑む。


 ヴェルスタンは契約書に目を走らせると、羽ペンを取り、迷いなくサインを書き込んでいく。その瞬間、契約が成立した。


「見ていろ、クラウス、エリス……貴様らが築いてきた信頼など、粉々に砕いてやる!」


 ヴェルスタンは嗜虐的な笑みを零す。だが彼は気づいていなかった。カヌーレもまた獲物を追い詰めた狩人のような表情を浮かべていることに。


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