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第二章 ~『悔しさを滲ませるハーゲン』~


 辺境伯邸を出たハーゲンは、自領の屋敷へと帰り着いていた。


 廊下を踏みしめる革靴の音が、屋敷中に響き渡っている。歩幅は大きく、歩調は速く、足取りは荒々しいため、もはや優雅な貴族のそれではない。怒りと苛立ちが、全身から噴き出している。


(あの小娘め……録音などという姑息な手段を使いおって……)


 ハーゲンの脳裏には、屈辱の時間が繰り返し再生されていた。それがいつまでも停止しない原因の一つが、曲がり角の向こうから笑い声と共に届く。


「え、本当にあのハーゲン様が……?」

「ギルベルト様が証言したらしいよ。エリス様は浮気なんてしてないって」

「じゃあ……噂を流したのは、やっぱり……」


 ひそひそと囁き合う声が、壁の向こうから洩れてくる。顔は見えずとも、声の内容だけで充分だった。


 ハーゲンは立ち止まり、静かに目を閉じる。


 ギルベルトの証言によって、『エリスが浮気性で婚約破棄された』という噂は、あっという間に撤回された。


 しかもギルベルトは、自分が嘘の証言をした理由を『噂を広めるようにハーゲンに脅された』と説明し、見事に矛先を彼に向けたのだ。


(くっ……あの卑怯者が……!)


 心の中で噛み殺した怒声が溢れる。


 言い返したくとも録音魔道具の存在がすべてを封じていた。


 あの部屋での会話は、鮮明に記録されているため、自らが首謀者であるという証言が残っているからだ。


 言い逃れなど、できるわけもない。


(ギルベルトめ、最後には自分だけ逃げやがって……)


 最初は一方的に利用するつもりだった。ギルベルトが嘘をばらまき、ハーゲンが背後で扇動する。


 完璧な計画だったはずが、立場が逆転し、矢面に立たされる羽目になった。


 これほどの屈辱があるだろうか。


 悔しさが込み上げてきて、ハーゲンは拳を壁に叩きつけそうになる。しかし、ぐっとこらえた。


(今、怒りに任せて動けば、さらなる笑い者だ……)


 今はまだ耐えるべき時。ここで騒げば、ますます自分が敗北者として人々の笑いの種になる。ゆえに、怒りを殺し、無表情の仮面を被ったまま執務室の扉を開く。


 扉の奥には、思いがけない先客がいた。


「……貴様か」


 室内にいたのは、二十代半ばの若い男で、名はライナス。軍服の上からでも分かるほど身体は鍛えられている。


 ぴしりと背筋を伸ばし、礼を取る。態度だけでなく内面も生真面目で、正義感の強い男だった。


「ハーゲン様、ご無沙汰しております」

「何の用だ? 儂は忙しいのだぞ」

「実は……最近、ある噂を耳にしました」

「噂?」

「クラウス将軍の婚約者、エリス様の醜聞をハーゲン様が流したというものです」


 その言葉に、ハーゲンの眉がぴくりと動く。


「……それで?」

「正義のために、私は真実を確かめに来ました。まさかとは思いますが、もしそれが本当ならば謝罪に行きましょう。私も同行いたします!」

「…………」


 しばしの沈黙の後、ハーゲンは深くため息を吐く。


(……鬱陶しい)


 ライナスの剣の腕は一流だが、融通の利かない性格ゆえに、以前から「できればクビにしたい」と考えていた。


 だが、ふと、脳裏に別のアイデアがよぎる。


(クビにするより、良い使い道があるな……)


 ハーゲンの口元に、うっすらと笑みが浮かぶ。


「ライナス。では、ひとつ頼みがある」

「なんでしょうか」

「エリスが不貞を働くような女かどうか、その目で、確かめてきてくれ」

「……確かめる?」

「儂はあの女には裏があると確信している。正義のために、真実を暴いてほしいのだ」


 ハーゲンの頼みにライナスが困惑する。その隙を逃さず、ハーゲンは魔力を指先に集める。


(儂の魔術を使うならここだな……)


 ハーゲンは伯爵家に生まれた者にふさわしく、魔術の才能があった。


 その能力は暗示。相手の心に隙が生まれた瞬間にしか使えないが、行動を強制できる力を有していた。


(魔術発動……)


 ハーゲンの指先から淡く赤い光を放たれる。禍々しい紋様が一瞬、空気に滲み出し、すぐに霧のように消える。


 同時に、目の前にいたライナスの身体が、ぴくりと震えた。


「あっ……」


 その瞳から色が抜け落ちたように、濁りのない灰色がかった光に変わっていく。生気を失ったかのようなその瞳は、まっすぐにハーゲンを見つめていた。


「暗示は成功したようだな。さて、貴様はこう思い込む。エリスは悪党だ。貴様はその行動を監視し、隙を見つけたら成敗すべきだと思うようになる」

「はい……エリスは……悪党……成敗すべき存在……です」

「これは正義の行いだ。民のため、国のため。お前の剣が、あの女の偽善を断つのだ」

「私の剣が……悪を斬る……」


 ライナスの口元に、うっすらと笑みのようなものが浮かんでいる。それは正しさに酔いしれる者の顔だ。


「よいか。万が一、失敗しても儂の名は口にするな。誰に聞かれようとも、すべて、自分の正義によって行動したと、そう思い込むのだ」

「はい……すべて……私の意思で……ハーゲン様は関係ない……」


 ハーゲンは内心で笑う。これでライナスが追い詰められたとしても、彼の名を口にすることができない。


 つまりリスクゼロで、エリスへの報復ができるのだ。


「儂を馬鹿にした奴らに、目に物見せてくれるわ」


 執務室の中に響くのはハーゲンの笑い声。それは心の底から湧き出た悪意に満ちたものだった。


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