第二章 ~『悪党撃退』~
屋敷の一角、重厚な扉に守られた執務室。分厚いカーテンから漏れる陽光が、机の上に置かれた調査報告書を照らしている。
クラウスはその前に立ち、目を細めながら報告書をじっと見下ろしている。
「これはさすがに許せんな」
声は低いが、怒りを押し殺した鋭さがある。普段は冷静沈着なクラウスには珍しく、感情を隠しきれずにいた。
ちょうどそこへ、エリスが顔を出す。いつもの彼らしくないピリピリとした緊張感に、異変を感じ取る。
「どうかしましたか?」
クラウスはしばし躊躇ったが、やがて溜息混じりに言葉を吐き出す。
「これを見て欲しい」
クラウスは机に置かれた調査報告書を指差す。エリスは小首を傾げながら、机に歩み寄り、報告書の内容に目を通す。
「私が浮気性だから三度も婚約破棄された、ですか……」
「こういう噂が広がっているんだ」
「でもただの噂ですよね?」
「いいや、最悪なのはギルベルトだ。あいつが証言している。元婚約者が証明したとなれば、民衆も信じやすくなる……信憑性が段違いだ」
クラウスは怒りを抑えきれずに、拳を固く握りしめる。そしてエリスを見据えた。
「だが私は屈しない。ギルベルトの証言が嘘だと証明し、君の名誉を守り抜いてみせる」
彼の声には焦りが滲んでいた。だがエリスは、くすりと笑う。
「クラウス様。私は気にしていませんよ」
「……なに?」
「クラウス様が、私のことを信じてくれている。それだけで十分ですから」
「だ、だが、それでは……」
「噂なんて、所詮、言葉です。私が大切にしたいのは、誰が私を信じてくれるかです。世間にどう思われても、クラウス様が私を信じてくれるなら、それだけで十分ですから」
エリスの言葉にクラウスの胸が温かく満たされていく。
彼は何も言わず、ただ静かにエリスを見つめる。だがそのとき、静寂を破るように執務室の扉が荒々しく開かれた。
「失礼するぞ!」
二人同時に叫ぶ声とともに、ハーゲンとギルベルトが勢いよく入室してくる。その背後には困り顔の執事の姿もあった。
「我々がどういった用件で訪問したかは分かっているな?」
問いかけるよりも前にギルベルトが声をあげる。その質問に真っ先に答えたのはエリスだった。
「なるほど。私の悪評を流したのはギルベルト様だけでなく、ハーゲン様もでしたか……」
エリスが静かに訊ねると、二人は顔を見合わせて、ふてぶてしく頷く。
「ギルベルトに協力を持ちかけたのは儂だ」
「つまり首謀者はハーゲン様ですか……」
「ふん、貴様らのせいで大損害を被ったからな。その仕返しだ」
「まぁ、潔いことですね……それで、悪評をばら撒いたのは何か狙いがあるはずですよね。教えていただけますか?」
エリスの問いに一瞬たじろぎながらも、ギルベルトが前に出る。
「俺と復縁しろ。そしたら噂を流すのを止めてやる!」
その言葉に、エリスはぴたりと動きを止める。重い沈黙が流れるが、次の瞬間、彼女は笑いを堪えられずに吹き出してしまう。
「ふふふっ、相変わらず、ギルベルト様は愉快な人ですね」
「お、俺のどこが愉快だって言うんだ!」
「私がそのような卑怯な提案を飲むと本気で思っているのですか?」
「そ、それは……」
ギルベルトが言い返せずに後退る。そこにハーゲンが割って入る。
「待て、浮気性だと広まって困るのは貴様だけではないぞ」
「他に誰が困ると?」
「クラウスだ。なにせそんな女を婚約者にしたと知られれば、見る目がないと悪評が広まるからな。貴様はそれでも平気なのか?」
思わぬ反論がハーゲンから帰って来るが、当事者であるクラウスは微動だにせず、わずかに口元を緩める。
「エリス、私のことは気にしないでいい。なにせ、今までも顔で散々と馬鹿にされてきたからな。今更、悪評の一つや二つ、増えたところで痛くも痒くもない」
「クラウス様……」
「それに、ハーゲンの脅しのおかげで、君の悪評を払拭する方法を思いついた」
「なるほど……私も解決法を思いつきました。きっとクラウス様と同じですね」
エリスがぱっと目を輝かせると、ハーゲンとギルベルトはきょとんと顔を見合わせた。
「……なんの話だ?」
ギルベルトが怪訝な表情で訊ねると、エリスは視線を正面から受け止める。
「私の噂は、浮気によって三度も婚約破棄されたでしたよね?」
「それがどうした?」
「なら覆すのは簡単です。ギルベルト様以外の元婚約者の方々に、噂を否定して貰えばよいのです」
「な、なんだとっ!」
予想外の展開にギルベルトの額に汗が浮かぶ。
「そんな証言をあいつらがするはずが……」
「いえ、すると思いますよ。むしろ、しない理由が見つかりません」
「な、なぜだ!」
「簡単です。婚約者の不貞を見抜けなかった愚か者、なんて評判が広まるくらいなら、噂を否定した方がはるかに得だからです」
ハーゲンの理屈がそのまま返ってきた形になり、ギルベルトは後退る。だがエリスの追撃は終わらない。
「これで二対一になりますね。そうなれば私は、あなたが嘘を吐いてまで元婚約者を貶めようとした卑劣な男だと糾弾します。きっと貴族社会での評判は悪化するでしょうね」
「や、やめてくれ、それはまずい……!」
ギルベルトの顔がみるみる蒼白になっていく。助けを求めるようにハーゲンを一瞥するが、彼もまた、石のように黙り込んでいる。
「わ、分かった……噂は俺の勘違いだと認める。それでいいか?」
「いいわけありませんよね?」
人を故意に侮辱したのだ。なかったことにはできないと冷たい視線を向けると、ギルベルトの肩が落ちる。歯を噛みしめながら、視線をそらした。
「……俺に頭を下げろと?」
「土下座しろとまでは言いません。ですが、謝ってはいただきます」
「だが……俺は伯爵で……!」
ギルベルトが目を潤ませる。
エリスは呆れたようにため息をつく。
「ああもう、泣きそうな顔しないでください。じゃあ、こうしましょう。頭を下げるのは免除して差し上げます。その代わり、ハーゲン様を追求するのに協力していただきます」
「協力?」
「彼が首謀者だったと証言してください」
その言葉に、傍らにいたハーゲンが鼻で笑う。
「ふん。証言したところで意味はない。儂が噂を流したという証拠はないし、すべてギルベルトがやったことになっているからな」
「それはつまり、最初から俺を隠れ蓑にするつもりだったってことか?」
「そうだが、何か問題でも?」
ハーゲンは涼しい顔をしたまま、あっさりと認める。そんな二人のやり取りを聞きながら、エリスは目を細める。
「ギルベルト様とは、違った意味での邪悪ですね」
「待て待て、俺は別に悪人じゃない!」
「失敬。ギルベルト様はただクズなだけでしたね」
「おいっ! フォローになってないぞ!」
ギルベルトは悲鳴のような声をあげる。それに対し、ハーゲンは鼻を鳴らしながら、腕を組む。
「くだらん言いがかりばかり並べおって。証拠もないくせに何が邪悪だ。悔しかったら、私がやったという確かな証拠を出してみるがいい!」
挑発的な笑みを浮かべ、声を張り上げるその姿は、どこか余裕すら漂わせている。
「ほれ、証拠でもあるのか? 無いだろう? なあ、ないんだろう!」
わざとらしく手のひらを広げて見せるその動作には、確信めいた傲慢さが滲んでいる。
だが、その瞬間だった。
「証明できますよ」
エリスが落ち着き払った声で答えると同時に、懐からひとつの小箱を取り出す。
「これは録音魔道具です。お二方の会話は、ちゃんと記録されていますよ」
エリスは黒く艶のある小箱をぽんぽんと指で叩く。ハーゲンの額には怒りと焦りが混じった汗がにじんでいく。
「この録音とギルベルト様の証言が合わされば、ハーゲン様が首謀者だと信じる人は多いと思いますよ」
「ば、ばかな……こんな小娘に……」
ハーゲンの顔が赤く染まり、指先は震えている。今にも怒りが爆発しそうな表情で、雄叫びをあげる。
「クッ……クソォォォッ!!」
ハーゲンが叫んだ瞬間、拳を振り上げる。だが間に割って入るように、クラウスが静かに一歩、前へ出る。背筋を伸ばし、涼やかな目でハーゲンを見据える。
「力ずくでどうにかなると思うなら、まずこの私を倒してからにしてもらおうか」
その声音には容赦しないという揺るぎない威圧感があった。
「ぐぬぬぬ……」
ハーゲンの拳が宙で止まり、そのまま震える。奥歯を噛み締める音が、静まり返った部屋に響く。
「覚えていろ……この屈辱を儂は――」
「一生、忘れないんですよね?」
エリスがさらりと続きを言ってやると、ハーゲンは舌打ちをしてから背を向ける。
そして、そのままバタバタと足音を響かせながら執務室から去っていく。取り残されたギルベルトは唖然としたまま、エリスたちに囲まれる。
「さて、ギルベルト様、分かっていますよね?」
「あ、ああ。ハーゲンが首謀者だと証言してやる」
「してやる、ですか?」
「させていただく……これでいいだろ!」
ギルベルトは声を張り上げる。悪評を乗り越えたエリスたちは、勝利を祝い合うように笑みを零すのだった。