第二章 ~『二人の悪党』~
揺れる馬車の窓から、ハーゲンは外の景色をぼんやりと眺めていた。
風に揺れる麦の穂、緩やかに続く田園の丘。空はどこまでも青く、雲は羊の群れのように流れていく。
だが穏やかな景色とは裏腹に、ハーゲンの心は怒りで燃えていた。
「くそっ……」
抑えた声が馬車の中に漏れる。
この怒りは公爵令嬢エリスが元凶だった。異常な力を持ち、人気を集める彼女の名声は、貴族どころか庶民の間にも広まっていた。
「儂は何のために王家に情報を提供したのだ……」
ハーゲンは王家にエリスの力について詳しく、そして悪意を込めて、密告した。
これでクラウスからエリスを引き離せると思いきや、結果は予想に反したものとなった。エリス自身が、王家の申し出を跳ね除けたのだ。
「エリスさえいなければ……」
馬車の中で足を組み替え、窓の外を睨みつける。無理に仲を引き裂こうにも、将軍であるクラウスと直接揉めるのは避けなければならない。策が必要だった。
「本人に首を縦に振らせなければ……」
ハーゲンの治めるグランベルク伯爵領は、代々続く名門であり、肥沃な大地と広大な麦畑が誇りだった。
だが、今はどうだ。
市場に出しても麦は売れない。かつては高値で売りさばけた麦が、今や買い手もつかない。
クラウスの領地で作られた麦は安く、しかも質が良いと評判だ。税収は下がり、自領の商人たちの顔にも焦りが浮かび始めている。
「このままでは……いずれ破産する」
苦い言葉が口から漏れる。握った拳に爪が食い込むのも気にせず、ハーゲンは自分に言い聞かせる。
「今すぐにでも手を打たねば……」
そのためにエリスを排除しなければならないが、正攻法では対処が難しい。
「最も厄介なのは、あの人気だ……」
民衆の支持があるからこそ、打てる手が制限されてしまう。その障壁を打ち破るための秘策がハーゲンにはあった。
「この辺りから、ギルベルトの領地か……」
窓から見える景色は、手入れの行き届いた石畳と街路樹が並んでいる。軍学校時代から妙に鼻につく男だったが、領地運営にも彼らしさが現れていた。
やがて、見えてきたのは堂々とした門構えの屋敷だ。白い石造りの外壁に、金の飾りが施された大きな扉が現れる。
馬車が止まると、従者が素早く駆け寄って扉を開ける。ハーゲンはゆっくりと馬車を降り、屋敷の玄関へと歩を進める。
応接室に通されると、そこには目的の人物であるギルベルトが待っていた。
「珍しいな、貴様が訪ねてくるとは」
ギルベルトは軽く顎を上げた態度で迎える。目はわずかに警戒を示していた。
「ふん、相変わらず憎たらしい面構えだな」
「お前の方こそ、また老け込んだようだな?」
「うるさい」
ぴしゃりと言い捨てるハーゲン。二人の間に軍学校時代の馴れ合いにも似た空気が流れる。
「……それで、なんの用だ?」
ギルベルトは椅子に腰掛けながら、冷えたワインを手に取る。
ハーゲンは座ることなく、そのままギルベルトを見下ろす。無駄な前置きは必要ない。彼には、手っ取り早く目的を伝えるべきだと判断する。
「貴様のせいで困っているのだ」
「……俺が何かしたか?」
「貴様がエリスと婚約破棄をしたせいで、儂が損害を受けているのだ!」
ハーゲンが怒りを顕にすると、ギルベルトはワインを一口含んでため息を吐く。
「噂は聞いている。麦が売れなくなったらしいな」
「知っているなら話が早い。責任を取ってもらおうか!」
「なんだ? 金でも欲しいのか?」
「違うわいっ!」
怒りで声を荒げるハーゲン。対称的にギルベルトは冷静だった。
「貴様、元婚約者だろうが。なら、奴の弱みの一つや二つ握っているだろう?」
「ああ、そういうことか……」
ギルベルトはグラスを持ったまま、視線を天井に向けて考え込む。
「……ないな」
「嘘を吐け!」
「ないものはない。あいつ、根が真面目だし、男に媚びるタイプでもない……頭もまぁ、悪くはないからな」
期待していた答えが得られず、ハーゲンは奥歯を噛みしめる。何とか現状を打開できないかと頭を捻り、一つの答えに辿り着く。
「なら作ればいい」
「……嘘をでっちあげろと?」
「そうだ!」
ギルベルトはワインを置き、ふんと鼻を鳴らす。
「そういう下劣なことは好かん」
「好かんで済む問題か! 貴様のせいで儂は破産しかけておる!」
「知るかっ!」
ギルベルトは背を向ける。沈黙が場を支配するが、耐えきれずに彼は口を開く。
「……話だけは聞いてやる。どんな噂を流す気だ?」
「浮気していたから婚約破棄した、という噂だ」
「無理があるだろ……」
「元婚約者の貴様が証言すれば、真実味は増す」
「無茶苦茶だ……」
ギルベルトは呆れた顔で振り返ると、ハーゲンは眉間に皺を寄せて、深刻な顔つきになっていた。
「いや、でもな……」
「協力はできないと?」
「……仮に協力したとして、俺になんの得がある?」
「儂と貴様の友情が深まる」
「おいおい、いつから俺とお前が友人になったんだ……」
話にならないと打ち切ろうとするが、ハーゲンは続ける。
「エリスを取り戻せるかもしれんぞ?」
「取り戻す?」
「噂を流すの止める代わりに復縁を迫ればいい。そうなれば、クラウスの元から、あの忌々しい女がいなくなる。儂にとっても好都合の展開となる」
「なるほど、そちらは悪くない提案だな」
ギルベルトはグラスを手に取り、しばらく黙ってワインを眺める。やがて、重々しく口を開く。
「……やるしかないか」
「では、決まりだな」
「ただし、条件がある」
「なんだ?」
「取り戻したら、今後、エリスの処遇について口出し無用だ。俺の自由にさせてもらうぞ」
「かまわん。好きにしろ」
ギルベルトは立ち上がり、ハーゲンと向かい合う。二人の間に、妙な緊張が走る。
「ふふ、世紀の悪巧みだな、ハーゲン」
「今更、貴族が清廉潔白で飯が食えるか」
二人の悪党はにたりと笑い、がっちりと握手を交わす。新たな陰謀が幕を開けるのだった。