第一話 異界より来たる者
風が、死んでいた。
王都フェリスの高台から見下ろす景色は、かつての輝きをすっかり失っていた。
木々はその葉を落とし、川は細り、空は灰のように色をなくしている。
この地を巡るはずのマナの気配も、今は感じられぬ。
その景色を、ひとりの少女が見下ろしていた。
白金の髪に紫紺のドレスをまとい、透き通るような肌と整った顔立ちは、まるで神像のよう。だがその表情に宿るのは、希望でも祈りでもなかった。
「……崩壊は、もはや始まっているのね」
少女の名は、ルナリア・セリカ・フェニア。
フェニア王国の第二王女にして、この世界の終わりを最も早く察知した者――すなわち、終焉の預言者である。
「ルナリア様」
控えていた侍女レメリアが、そっと声をかける。
「陛下よりお呼びです。召喚の儀が、まもなく……」
「……ええ。分かっています」
ルナリアは踵を返した。高台に吹く風すら、もう温もりを失っている。
このままでは、あと十年ももたない――いや、それすら楽観かもしれない。
だからこそ、王たちは決断した。
六つの王国が結託し、《禁呪》とされていた古の魔導――異世界召喚を発動することを。
王城の玉座の間は、かつてないほどの重苦しい空気に満たされていた。
六王国の王族と代表、魔導士長、神官、軍の最高司令官たちが一堂に会している。
中央には直径十メルトを超える魔導陣が描かれ、その縁には異国の古語で綴られた詠唱文が浮かび上がっていた。
その輪の外、第二王女ルナリアが立つ場所。彼女の傍らには、年若い魔導士が膝をついて最後の調整をしていた。
「陛下。儀の準備、整いました」
魔導士長が恭しく頭を下げる。
フェニア王は深く頷き、玉座に腰かけたまま告げた。
「ならば、始めよ。――世界の終焉に抗うため、外より智を招け」
とたんに詠唱が始まる。
六王国、それぞれの魔導師が順に聖句を読み上げ、魔導陣が淡く輝き出す。空気が震え、重力が乱れ、空間のひび割れが広がってゆく。
その場の誰もが、息を飲んだ。
――それは、世界の理にすら逆らう、神々への挑戦に等しい魔であったから。
そして、空間が崩れた。
魔導陣の中心に渦が生まれ、幾千の光が舞う。まるで星々が落ちてくるかのように。
その中から、ひとつの影が現れた。
――人影。
地面に膝をつくように落ちてきたその者は、少年だった。栗色の髪、異国の装い、鋭いが不安げな目。
彼は、息を荒げながら周囲を見渡し、言葉にならぬ声を漏らした。
「っ、どこだ……? ここは……」
その声は、誰にも理解されなかった。
言語の壁は、異界の障壁である。
ルナリアはすぐに腰に下げていた魔石を取り出し、少年に向けてそっと差し出した。
「この光が、あなたの言葉を我らに伝えますように――翻訳の輝きよ、響きあえ」
魔石が淡く光を放ち、空気に震えが走る。
「え……聞こえる? 今の……お前の声……?」
「はい。これで、通じ合えるはずです」
ルナリアは、優しく微笑みながら名乗った。
「私は、ルナリア・セリカ・フェニア。フェニア王国の第二王女です。あなたの名を、お聞かせください」
「俺……俺の名前は……リゼル。リゼル・アストレイア」
「ようこそ、リゼル。あなたは今、崩れゆく世界に召喚されました」
言葉の意味を理解するには、リゼルにとって時間が必要だった。だが、彼の瞳は、何よりその場の空気と視線の重みに答えを感じ取っていた。
「……俺に、何をしてほしいんだ……?」
「この世界には、もう多くの時間が残されていません。魔法の源が枯れ、大地は死に、人々は夢を見ることをやめてしまった」
ルナリアの声は、震えていなかった。けれど、その奥底には深い痛みと願いがあった。
「どうか、リゼル。あなたの力と知識を、この世界の希望として貸していただけませんか」
「……俺なんかに、そんなこと……」
「あなたの目には、優しさがあります。それは、滅びに慣れすぎた私たちにはもう見えないもの。だから、あなたなのです」
リゼルは、深く息を吐いた。
迷いも、恐れもある。だが、それでもこの手を差し伸べたいと思った。
かつて何もできなかった自分に、今度こそ――
「……分かった。できるかわからないけど、精一杯やってみる」
ルナリアは、静かに微笑む。
「あなたの決意に、我らの命運を託しましょう。
滅びの中に灯る、その始まりの祈りを――」
魔導陣の光が静まり、異世界からの召喚は、ひとまずの成功を収めた。
だが、周囲の空気は依然として張り詰めていた。
「異界人だと? 本当にこの少年が……?」
「どう見ても、ただの若者にしか見えん。魔力の気配もほとんど感じられんぞ」
「……異界の知識こそが我らの望み。力は不要、と会議で決まったはずだろう?」
召喚を見守っていた高官たちが、ささやき合う声が広がってゆく。
まるで神の遺物でも見るような目線。あるいは、失敗作を見るような冷たい視線。
リゼルは、その全てを浴びながら立ち上がろうとしたが――
「……っ!」
全身に鋭い痛みが走った。空間転移の衝撃が、身体の芯を軋ませる。
息を吸うだけで、胸が締めつけられるような違和感。頭もまだくらくらしていた。
「無理をしないでください」
傍にいたルナリアが、咄嗟に支えようと手を差し伸べた。
その瞬間、リゼルの肩に触れた彼女の指先が、ひやりと震える。
(この手……こんなにも冷たい)
召喚されたばかりのリゼルには、彼女が抱える重さも、真意も分からない。
けれど、それでも「人の優しさ」だけは感じ取れた。
「……ありがとう。ちょっと、目が回ってて……」
まだ魔法陣の輝きが完全には消えていない。空気中には高濃度のマナが残滓として漂い、それだけで呼吸が苦しい。
「このままでは危険です。侍医を――」
「必要ない」
軍服を着た男が、一歩前へ出た。
銀の短髪と、鋭い目を持つ壮年の騎士――フェニア王国軍の将軍、グレイ=ドルマードだ。
「異界の者など信用できるはずがない。まずは拘束し、検査するのが筋だ」
「ですが、彼はこの儀で我々が招いたのです。客人に剣を向けるのは――」
「口先だけで世界は救えん。これは軍の判断だ」
将軍の言葉に、周囲の騎士たちが即座に動き出そうとする。
リゼルも本能的に身を固め、腰のあたりに手を伸ばすが――武器はない。
「やめてください!」
ルナリアの声が、鋭く響いた。
驚いたように、周囲の動きが止まる。
「今この場でこの少年を傷つければ、それは六王国すべてに対する侮辱です。
それとも、将軍は我が国が交わした誓約の重みを、忘れたのですか?」
静かな怒気がこもったその声に、グレイ=ドルマードもわずかに言葉を詰まらせた。
「……第二王女殿下。私に口出しするおつもりか」
「いいえ。ただ、彼を護る責任があるのは、最初に声をかけた私です。
それが、王族としての義務――でしょう?」
ルナリアの姿は、気高く、そして少しだけ痛々しかった。
彼女の背中は真っ直ぐだが、その孤独さは、幼い少女のようでもある。
「……ふん。好きにしろ。だが、何かあったら責任は取ってもらうぞ」
グレイ将軍は踵を返し、部下たちを従えてその場を離れた。
リゼルはようやく深く息を吐いた。
あまりにも濃密な空気に、汗が背を流れている。
「助けてくれて……ありがとう。でも、あの人、怖いな……」
「将軍は、軍人ですから。力を以て正義を語る人々も、この世界には多いのです」
「やっぱり、ここは……俺がいた場所とは違うんだな」
リゼルは、ようやく「本当に別の世界へ来た」ことを実感し始めていた。
空の色、空気の密度、空間を満たす魔力――どれもが、異質だった。
「その実感があるうちに、できるだけ多くの情報を記録しておいてください。あなたの知識は、いずれこの世界の支えとなります」
「……まるで研究者みたいなこと言うね」
「私は、少しだけ未来を見ているだけです」
リゼルがふと彼女の顔を見ると、ルナリアは微かに微笑んだ。
その笑みには、何かしらの期待――あるいは祈りのようなものが込められている気がした。
儀式の後、王たちによる会議が続く中、ルナリアはその場を離れるよう命じられた。
玉座の間を出てからしばらく、彼女は誰にも言われることなく、まっすぐに城の南塔――医療管理塔へと向かった。
リゼル・アストレイアはそこで一時的に保護・観察されることが決まり、彼女は自ら「世話役」を申し出た。
「陛下は……許してくださるでしょうか」
塔の扉の前で、彼女は空に問いかけるように呟いた。
答えは、まだ風の中にすらなかった。