第60話 君の足跡を辿って
ティナは走っていた。
闇を通り越し、次第に周りは明るくなった。だが太陽のような暖かさはなかった。走り続けていると、真っ白だった地面は色味を帯びていき草原となった。そして土の道となる。道を走っていると、村に入っていた。村には何人もの獣人や人間の子供達が集まって遊んでいた。農夫達は笑いながら畑へ向かい、女房達は子供の話をしながら洗濯をしていた。皆幸福に満ちた満足げな表情であった。ティナは悟る。ここは彼の村なのだと。理想の、なんかではない。かつての村なのだと。
坂を登っていき、山を見ると、雪は積もってはおらず、寧ろ緑で生い茂っていた。地面にも花が踊っている。前を見ると、ある家族の笑い声がした。黒い髪に、黒い瞳、そして同じような様相の子供と白髪の妊婦、ティナはハッと息を飲み、そのまま叫んだ。
「ウラドさん!!」
だが叫んだ途端、彼女に良心の呵責とも言えるような、妙な理性が飛び出した。ティナは少し立ち止まり、彼の幸福な顔を見る。このまま来ていいのだろうか。そんな考えが今更ながら、彼女の頭によぎる。このまま幸福な夢を見るのも良いのではと、何か囁かれている気さえした。何故彼がメテロトロンを目指すのか、何となくわかった気がした。彼からすれば、我々なぞ有象無象、それどころか忌々しいのだろう。どう生きても、どれだれ生きても、死ねぬ事に変わり無い彼にしてみれば、罪深き我々は幸福に見えるのだろう。
ティナは唇を噛み締める。悪い頭を動かす。どっちとっても一理あり、どっちにも非がある。しかしそれでは納得がいかなかった。我々は理想に溺れる存在であろう。この夢はまさに天国に近しい。しかし、ここに溺れることは幸福だろうか?むしろ、このままいることは夢物語で終わってしまわないだろうか。彼女は前を向く。
「ウラドさぁぁぁん!!!」
ウラドはふと、坂の方を見る。ティナと目が合った。彼は最初こそポカンとしていたが、数秒沈黙が流れ始めると、彼は徐々に顔を歪ませ、微かに震えた声で言う。
「––––ぃ、ぃゃだ。」
彼はほんの微かにそう言った。すると、ティナの腕に背後から黒い槍のようなものが突き刺さる。声すら出せないほどの激痛が肩から全身に走る。彼女は思わず跪き、血に塗れる腕を押さえる。過呼吸になりながら,彼女はゆっくり槍を握り、引き抜く。血飛沫が飛び散り、彼女は悶絶する。だがそれでも顔を上げる。汗が濁流のように流れる様を見て、ウラドは思わず叫ぶ。
「どうして––––どうして来たんだい–––?」
「ゔ–––ウラドさん––––!」
ティナは一歩ずつ前に進む。今度は茨が彼女の足に巻きついたり,鞭打つように打った。だが彼女は止まろうとはしない。ティナはゼェゼェと息を吐きながら言う。救うには、言葉では足りないのだ。
「まだ–––旅は終わってません–––!貴方こそ––分かっているのですか–––?彼らは–––彼らではないんですよ?!」
彼は黙る。ティナは真っ直ぐに、目を逸らさずに言う。
「夢から醒めましょう。そうじゃないと––––貴方は永遠にこの、夢に!囚われる事になる!何も見えなくなる!夢物語で終わってしまいます!」
「もう––––もう良いんだよ。ティナ。もう良いんだ。君がここまでする道理はないはずだ。僕も–––もう疲れた気がする。何年歩き続けたろうか。どこ行っても、忌々しき絶望がいる。彼らは自分達の過ちを顧みることなく、他者を傷つける。本能として、もう変えられないんだ。僕はここにいたい。ここなら、そんな存在もいないんだ。」
淡白に、諦め切った眼差しでまっすぐに彼は答えた。長い歴史の中で、覆ることの無い事実、それを見て来た者の言葉は、ティナにのしかかった。
ティナは一歩、一歩と前に出る。その度に黒い茨が彼女の足に絡まる。彼女はそれを足の力で引っ張って千切ると、彼女の白く綺麗な脚から真っ赤な血が流れる。ウラドは少し狼狽える。もう来なくて良いと、だが彼女は下を見る事なくウラドの目を見る。
「ウラドさん!いつか、いつか世界は変わります!時代も変わります!人も!いつかは過ちを終わらせ!変わらざるおえなくなる!」
高い声で叫ぶ彼女を前に、ウラドはほんの少したじろぐ。
「でも–––僕の悲しみは消えない!奴らが悔いたとしても、もう–––僕の家族は帰ってこない。」
だんだんと引き攣っていき、涙ぐんだ声になっていく彼を前に、ティナは毅然としていた。まるで彼女は答えを分かり切っていたように、間髪入れずに答える。
「その感情を消す必要なんてない。私も同じです。ウラドさん。」
「同じなわけないだろう––––!同じであってたまるか。」
「私のスラムでは、幼子が基本的に間引かれていました。私には6人下の兄弟がいましたが、全員間引かれました。その度に––––何故自分ではないのかと、ずっと––––思って来ました。でも––––」
彼女は涙を浮かべ、訴える。
「私達は『生かされている』。ウラドさんも、私も、この世の全ての生物は皆、生かされてるんです––––!死ぬ権利があったとしても、道理がない–––!私が死ねば、死んだ兄弟達に顔向けできない––––!だから、私達は自ら死を選ばない。ウラドさん–––!来てください!一緒に!」
彼女は拳を握る。
「失うのは辛い–––だからそれは終わらせなくて良い!!でも–––––そこにいれば––––悲しみが少し楽になる日も来ない。貴方の恨む存在が、過ちを認めるのを見られない。ここにいたら–––生きてる人は、貴方だけになる。」
ウラドは少し落ち着こうと深呼吸した。だが、涙と冷や汗は止まろうとはしない。
「––––ここから覚めたとしても。今後も、変わったとしても、世界は回り続ける。過ちを知っても、それでも、人は過ちを犯す––––何度だって。」
「その中に––––光もある。」
ウラドは少し、ほんの少しハッとした表情をした。だが強張ったてもいた。刹那、ティナの足元から闇が噴き出す。彼女は底なし沼にハマったかのように地面に、ゆっくりと飲み込まれていく。彼は手を伸ばせずにいた。まだハッキリとした覚悟ができていなかった。ティナは確信する。言葉だけでは足りないのだ。本当の地獄にいるものに必要なのは、上っ面の同情や導きではない。彼女は叫ぶ。
「ウラドさん!私がいます!貴方が地獄にいるのなら、私も行きましょう!そして何度でも!光へ!地獄の中の光を、共に見つけましょう!!」
ウラドは仰天し、冷や汗をかく。
「何を言ってるんだい–––?!君がそんなことをする必要はないんだ!もしそうなったら,シモンと同じようになる!家族が死に、関わる人全てが死ぬ!置いていかれるんだ!何でそこまで–––!」
ティナは下を一瞥する。もう膝まで埋まっている。彼女は少し唇を舐め、ポケットを弄る。そして少し硬く、古ぼけた何かを握る。
ティナはウラドの右手に、何かを託す。彼は思わずそれを受け取った。堅い布だった。それをウラドを見ることはせず、代わりに彼女を見た。青い瞳が光を取り込み、美しい瞳が真っ直ぐとコチラを見ている。まるで、瞳が光のように見えた。彼女ははっきりと口を動かす。
「貴方に––––生きていて欲しい。」
彼女は闇に飲まれていった。
いつのまにか、辺りは真っ白になっていた。村どころか家族すらもいない。手を開いてみると,それは腕章だった。金の腕章だ。金の腕章は何故か次第に黄色の花びらと成り変わる。ウラドは手のひらから少し漏れ出る花びらを握る。そしてそれを目の前に出しては、悲しみ深く呟く。
「君にだって、花のように尊い死があるんだよ–––––」
ウラドは心の中が少しざわつく感覚さえあった。だが同時に疲れた。彼は無意識に後ろに倒れるように座る。光は次第に、水彩画のように淡く彩り始める。地面は茶色くなり、木目を刻みだした。その茶色の床が左手に伸び始め、壁が囲いだし、家となった。場所は無の國のサタエルの家だ。今と大して変わらない内装で、対面にはベリアールが座っている。丁度、100年前かそこらだろう。サタエルは奥の台所で茶の支度をしてるのか仄かに良い匂いがした。2人はそれを静かに嗅ぎながら、こうして座っている。ベリアールの髪は黒くなっており、金色の目が山から覗いてる月のようだった。彼はカウンセラーのように少し前のめりになって言う。
「なぁウラド、そろそろここを出たらどうだい?」
ウラドはやつれた顔を垂らしながら言う。
「どうして–––––?聖導師が管巻いてる所に行くだなんて、バカも休み休みに言ってくれ。昔のことは思い出せないけど、それでも、人が苦痛の塊だったのは、明白だ。」
「でも、楽しいよ!」
ウラドはやっと顔をほんの少し上げ、嘲笑する。その目は暗く窪んでおり、重篤患者のそれであった。目の前に座っている男は、窓からの逆光を浴びている。まさに光の中毒者のように思えてならない。光のみを知ってる者が、上っ面の戯言を言っているに等しい。
「楽しい–––?とんでもない。人間は何度も間違える。そして今や、聖導師の教えに、思考停止して崇拝してる。獣人達なんてもっと可哀想だ。何の根拠もないのに、魔物扱いされてる。そんなことしても平然としてる人間と、どうしてそんなに仲良くなりたがるんだい?」
ベリアールは少し覗き込むと,またクスッと笑う。そして背もたれにもたれる。
「美しいからだよ。その醜さが。人は何度も間違える。『戦争なんてごめんだ』と言ってたのに100年経つと戦争の苦しみを忘れて、挙句当時の軍備品をコレクションしたりするんだ。僕も持ってる。そして、また戦争を起こす。どうしようもなく馬鹿だけど、その馬鹿さは僕からすれば子供のすることのように思える。その度に––––見ていたくなるし、尊いとすら思える。」
「腐ってる。」
「君の褒め言葉は本当に好きだよ!ウラド。だが––––君の気持ちも、理解できる。僕達からすれば100年なんて去年と変わらない。そう考えると、呆れるよね。馬鹿すぎる。でもね–––––」
彼は少し窓の外を眺めてから,またウラドを見下ろす。疲れと絶望に浸った彼の顔は、陽光によってより白く見えた。見ている分には面白い。
「その醜さの中に、『美しい存在』はあるんだよ。それが、世界の歴史には必ずと言って良いほどあるんだ。それらが頑張ってくれるから、歴史は変わるんだ。それは美しい。人間みたいな未完全でそのくせに高い知性を持った存在にしかできない。」
台所からやって来たサタエルは、彼の衰弱し切った様を見る。そしてティーポットを速くテーブルに置くと、彼の背中をさする。
「ベリアール––––そんなこと言わなくても––−–この子が経験した事は壮絶よ。無理して出る必要なんてないと思う。確かに人は––−–間違いを犯しすぎてるし、それを正当化してる。ウラドは、ずうっとここに居ればいいのよ。」
ベリアールは特に怒りも何もない表情で、サタエルの慈愛に満ちた顔を見上げる。だが、次に放った言葉は、やけに冷たくも、俯瞰した態度であった。
「サタエル–––−それは君の解釈だ。定義ではない。歴史は変わり続ける。その中で常に人間が悪だったという解釈をしていいのは、見て来た側だけだよ。解釈は個人が決める。でもその為には見なければならない。」
彼は軽く手を広げる。
「この世は解釈で満ちてる。学問も大半はそれの集合体だ。だから、本当の学びを得るには、自分の目で見なくてはいけない。たとえ答えが同じでも、教わったものとそうでないものとでは、理解に差が出る。歴史が繰り返してるように見えるのは、人がそれを試み続けてるからに他ならない。」
サタエルは少し唇を噛むと、そのまま少し俯いた。ベリアールは愛おしい人の手のように、ウラドの骨ばった両手を掬い上げる。微かに温いが、弱々しく潤いのある枝のように思える。彼はウラドを見る。妻の瞳の色だと言っていた彼の赤い目は、どことなく血のようで、かつ澱んでいた。
「ウラド––––見るんだ。この世界の希望であり絶望を。いずれ、君は出会えるよ。君と一緒にいてくれる存在に。」
2人は花びらとして散って行ってしまった。1人光の中に取り残されたウラドは、ただ呆然と座っていた。この世の絶望、その中にある希望、それを探す事を生き甲斐とする。それは楽しいものなのだろうか、果たして見つかるだろうか。–––だが彼の頭の中にはずっとティナの存在がちらついていた。今になって、都合よく夢の中にいるわけでもない。彼は都合が良すぎると思った。何もかもが、自分に向けられたものが、何故こうも都合よくいい方向に向かおうとしているのか、彼にはわからなかった。
皆が、生きてほしいと願ったのは、復讐を果たしてほしいからだと、そう思ってきた。だから殺し続けてきた。それが当然の報いだとさえ思っている。だが、彼らが本当に心から、それを望み、彼らの血潮を恵の雨のように喜んでいるのか。彼は呆然と光を眺めていた。淡い水彩画の様に、旅の道中が流れていく。枯れた田畑を水の魔法で潤した日、1人寂しく死んでいく定めの老婆を看取った日。あれこれと思い出していく。今まで忘れてたくせに。だが、それら儚き全てに、彼の心は潤っていく。
彼はポツリポツリと呟いていく。
『 望むものは ただ1つ。幸福だったあの日の再来。 僕は延々と彷徨うだろう。 君の足跡を追って。 』
ウラドは詠唱する。
【 愛しい君よ 】
水面に一滴の雫が垂れたように、水紋が浮かんだ。全て静寂になり、暫く何も起こらなかった。だが、突拍子もなく、沢山の足跡が四方八方に入り組んで行った。見覚えのある足跡が、びっしりと虹色に重なり合う中、彼はただ足元を眺めていた。何重にも重なり、地面が虹色に染まった時、彼はふと言う。
「ティナ–––––」
足跡はサァッと消え去っていき、ある一つの足跡だけが残った。それは青色の淡い足跡で、歩幅も小さい。ウラドはやっと立ち上がり、少しずつ歩き出そうとした。
「貴方––––」
ウラドは肩をすくめて、思いっきり振り返った。そこには息子を抱っこしている妻がいた。彼女は生まれつき真っ白な肌だった。日差しに弱く、常に日陰にいた。こうして日の下を歩けているのは、やはり夢だからだろう。彼女は春風に髪を靡かせながら微笑む。
「行ってらっしゃい!」
「––––うん。」
彼ははにかみながらそう答えると、まっすぐに足跡を追って歩いた。




