第3章 — ソンジンジ
その夜は美しい夜だった。月は輝き、木々の葉が、風が揺らしていた。
でも、私は景色に気を取られるどころではなかった。
私は待っていた。
メイワンが現れるのを待っていた。
メイワン。私が結婚する娘。彼女がひとりで解決できるすべての問題。
私は急く気持ちで、彼女に待ったした。
この結婚は、私たちにとって、政治的影響力と支持を得る、最も有用な手段だった。
だが、問題があった。
李亮の娘メイワンが遅刻していたのだ。彼女がまだ姿を現さない。
彼女は来ないのではないかという予感がして、私の爪は手に食い込むほど握りしめていた。
なぜこない?
私は時間がない。メイワンのような貴族令嬢が、自分の立場を分かっていないことに時間をかけること自体が、私には理解できなかった。
私は欄端に離れ、部屋に戻ると、私の兄であるシェンジンがいた。
「李亮の娘メイワンはどこに?」シェンジンが訊いた。「いつまで待つか分からないぞ」
私は彼の質問には答えず、テーブルに歩み寄ると、グラスにワインを注いだ。
私はひと口口に含み、そのアルコールで、喉が焼けるのを感じながら、少しの落ち着きを覚えた。
「どうだ?」シェンジンが訊いた。
「どうやら来そうにないようだ」私はきっぱりと告げた。
彼は目を見張った。「なぜ?」
「分からないが……」
その時、ドアを叩く鋭い音が聞こえた。
「どうぞ」
私は固い口調で言った。
ドアがすべり、一男が入ってきた。彼は高身長で少し細かったが、大きく黒目をした、繊細な顔立ちをしていた。彼は緑色の刺繍に金色の糸で飾られたローブを着て、自信たっぷりに立っていた。
「ソンジンジ王子」男はお辞儀をした。「遅くなって申し訳ありませんが、急な問題に直面して、対処をしていました」
私は眉をつり上げた。「おまえは誰?」
男は立ち戻ると、私の視線と真っ向から対峙した。「私は、李亮のメイシンです」
部屋は静まり返っていた。その後、シェンジンが笑い始めた。「面白いではないか!」
私は彼を一瞥した。「うるさい」
男の改めてよく見ると、女だと明らかだった。顔は整っていて、肌は滑らかで、唇はピンク色で、立派に結われた髪には、銀の髪飾りがあり。そして、その彼女も、緑の刺繍に金色の糸で飾られたローブを、まるで、李亮大臣が着ていた時と同じように、身に着けていた。
「なぜ男装しています?」私は彼女に訊いた。「そして、メイワンはいったいどこにいるんだ?」
「彼女は病気です」彼女は答えた。「今夜、来られない」
私は眉をしかめた。「病気? 李亮大臣は私に何をしようと思っているんだ?」
彼女は手を挙げ、和解の態度を示した。「本当です。熱があるんです」
「ではなぜ、あなたはここに?」
「彼女が代わりの私を来ました」
私は彼女を見つめながら、待っていた。
シェンジンは立ち上がった。「ふたりだけで話をさせてほしい。俺は出て行くよ」
私は彼を見もしなかった。「座っていろ、メイシン」
彼女は椅子に座り直した。「ええ、ソンジンジ王子」
彼女は落ち着いていたけれど、緊張しているのが分かった。
「メイワンと結婚しない」彼女は言った。「私の父がそれを許しません」
私は片方の眉を上げてみせた。「そうか? 契約が変わって、あなたが今夜、男を装ってここに現れて、私たちを怒らせようとしているのか?」
彼女は首を横に振った。「いいえ。私はあなたにアドバイスをしに来ました」
「アドバイス?」
「そう。私の姉と結婚するのを、忘れてほしいのです」
「なぜ?」私は訊いた。「これは、李亮大臣が私に対する侮辱なのか? 彼は自分を破滅させるつもりなのか?」
彼女は少しためらって、また首を振った。「違います。あれは」
「あれはなんだ?」私は前のめりになった。「メイシン。光ろうの火をつけてくれ」
彼女は深く息を吐いてから言った。「父の……」メイシンはまた言葉を途切れさせた。「父は、あなたとの契約に、足を踏み入れてはいけないところで踏み入っていました。そして、私はあなたに、その契約をキャンセルしてもらうことをお願いに来ました」
私は彼女を眺めた。彼女は、美しい若い娘で、顔には決心が浮かんでいた。「それは、李亮お嬢様」私は言った。「私とあなたの父さんは、約束したのです。そして、私は決してそれを反故にはいたしません。だから、彼がそれをキャンセルしたいというのであれば、自分で私に言えるようになってからでないと。あなたの場合……あなたは、強大な力の者に関わってはいけない。知らないのですか? あなたは、宮殿の中で刺繍をするべきなのです」
彼女は私を睨みつけ、唇をきつく噛み締めていた。「あなたは、傲慢な男ですね。誇り高いのは結構ですが、それと、権力を振りかざすのは別のことです。そのことを分かっていないように見えます」
私は嘲笑を浮かべた。
「俺は話を聞いているんじゃない」私は苛立ちながら遮った。「とにかく、今、ここにいるのは、俺と結婚する覚悟があるということ。もし断れば、その父親と、大変なことになることを、考えておくんだな。俺はカードをすべて持っているんだ」
彼女の頬が火照り、顎は強く噛み締めていた。「結婚しません。できません。あなたのことなんか、知りもしないんですよ」
「じゃあ、これから知るといいじゃないか」
私は対面で椅子に座り、挑戦的な笑みを浮かべて、彼女の視線を正面から見返した。「好きなだけ、俺を知るといい」
彼女は顔を背け、恐怖に満ちた目で、目を大きく開いた。「俺は……俺は」
私は残酷で、それが当たり前だった。「取引だ」私は言った。「俺は、首都の貴族たちが、俺の兄さんを支持してくれるのを望んでいる。この結婚は、それを実現する手段だ。愛がどうだとか、そんな話じゃない。俺は、お前が俺と同じ振る舞いをしていればそれでいいんだ。愛妻を演じるし、俺は若くて幸せそうな新郎になる。お前に伴われて、どこでも行くつもりだから、みんなに俺たちの姿を見せておきたい。それと……」私は彼女に向かって、きつい視線を投げた。「男装を辞めておけ。いいな?」
彼女は私を睨みつけ、「私はあなたを憎んでいる」と、低く言った。
私は肩をすくめた。「どうでもいい。協力さえしてくれればいいんだ」
彼女は顎に力を込めて、私から視線を逸らした。「答えが必要です」
彼女は躊躇ってから、ぎこちなくうなずいた。「分かりました。やりますけど、ひとつだけ、はっきりさせましょう。私はあなたの妾にはなりません」
「まあ、そうだな」私は前のめりになって、彼女の目を見返した。「だが、よく覚えておけよ、メイシン。俺はいつも、欲しいものをつかむ。それと、忠告しておくが、お前に、すべてをかき回されてしまっては困る。おまえのためにも、家族のためにもな」
彼女は、恐怖のヴェールを顔に浮かべたが、私は気にしなかった。「今夜は始める」私は決めた。「私は、灯籠祭りに行く。そして、そこで、俺たちは幸せそうな、恋人のふりをするんだ」
「灯籠祭りのこと? でも……」
「ああ、灯籠祭りのことだ。私と一緒に行って、お前は幸福な婚約者、あるいは恋人を演じてくれればそれでいいんだ。だが、その前に、お前の服を取り去らないといけない」
彼女は動揺した。「どういう意味ですか?」
「男装は祭りで着るものじゃないぞ、メイシン」私は席を立って、ドアの方へ行った。「だから、私は侍女に頼んで、ドレスを用意させる。時間があるだろうから、着替えには時間を取っていいけど、私は中庭で待っている」
「でも……」彼女は言いかけた。
「いや」私は一歩彼女に近づくと、その唇に、人差し指を押しつけて、黙らせた。「『でも』はないんだぞ、メイシン。今夜から、私たちは一緒に過ごす時間が増えるんだ。だから、覚えておけ」
彼女は青ざめていた。「私はあなたを憎んでいる」
「知っているよ」私はドアを閉めながら、「俺は外で待っている。早く準備をして来いよ」