乙女の一途沼
※ハーフフィクションシリーズとして、公式企画に春〜冬まで全4作投稿していく予定でしたが、申し訳ありませんが投稿は夏までとなりました。シリーズとしては未完になりますが、1話完結の物語としてお楽しみ下さい。
夏真っ盛りの八月中旬。社会人になって初めての盆休みがやって来た。山田智晴は、高校時代の陸上部仲間の隼人、美千、和花の四人で、田舎町のキャンプ場に一泊二日で来ていた。一晩過ごし、今日は帰る日だ。
朝起きた時は小雨が降っていた。が、朝食の間に晴れたので、先にテントを片付け、荷物を車に乗せてからアスレチックで遊んでいた。
しかし、また天候が変わり、今度は大粒の雨が降り出した。遊んでいた智晴たちは、雨から逃げて車に乗り込んだ。
「さっきまで晴れてたのに。雨なんて聞いてないよぉ」
「山の天気は変わりやすいって、本当なのね」
後部座席の美千と和花が、ジャケットが弾いた水滴をタオルで拭きながらぼやいた。
美千は明るくムードメーカーで、和花は知的でいつも落ち着いている。元走り幅跳びと砲丸投げの選手だった二人は、同じフィールド競技だったこともあって、入部当初から仲が良かった。
時間は午後一時過ぎ。ミニバンの車体に雨粒がバタバタと音を立てて当たり、四方の窓にナメクジが歩いたような道を作る。これだけ雨が降っても気温は下がらず、クーラをきかせていた。
「隼人、早く戻って来ないかな」
このキャンプの提案者で車の運転手の隼人は、駐車場に来る途中でスマホがないと言い、探しに戻っていた。智晴たち三人は、隼人が来るまで待っていた。
すると、美千が話し出した。
「て言うか。すべり台のあの足跡、本当に誰のだろうね」
「だから、誰かが遊んだんだろ」
「でも、きっちり並んだ両足の跡、一つだけだよ?やっぱり、昨夜の女の人のじゃない?」
「俺たちだけが見た、ワンピースの?」
「ちょっとやめて二人とも。思い出させないで」
話がぶり返された和花は、聞こえなくなるように両耳を塞いだ。
智晴たちが話し出したのは、昨夜の肝試しのことだ。
昨夜、キャンプ場の管理人主催で肝試しが行われた。訪れていた人たちの中から七組が参加して、ロッジがある大広場をスタートとゴールに設定して小さな林とアスレチック広場を周る、短い簡単なコースだった。
二人一組ずつスタートしたのだが、先に行っていた隼人と和花の二人が進むのが遅かったせいで、智晴と美千が途中で追い付き、林から四人で周る流れになった。
スマホのライトを頼りに進み、枝から吊るされたこんにゃくに驚かされながらアスレチック広場に出た時、進む方向がわからなくなってしまった。最後の二組だった為に、誰にも聞けず迷っていると、すべり台に白いワンピースを着た長い黒髪の女性が、明かりも携えずに膝を抱えて静かに座っていた。
参加者が迷わない為に誰かいてくれているのだと思った智晴たちは、女性に道を聞いた。しかし、女性は何も答えてくれなかった。
仕方なく勘を頼りに進み、その後、無事に大広場に戻ったのだが、管理人に女性のことを聞いても「知らない」と言われた。他の参加者も、そんな女性は見ていないと言っていた。
しかし今朝、人がいた痕跡を探そうとすべり台を見に行くと、一人分の靴跡がはっきりと残っていた。男性でも子供でもない、女性のサイズの靴跡が。小雨が降っていたから、朝から遊ぶ人もいなかった筈だ。
昨夜、誰かがそこにいたのは確かだった。
「きっと、管理人さんが怖がらせる為に嘘ついただけよ」
「俺もそうだと思う。あんまり仕掛けがなかったし、何か一つガチで怖がらせるポイントを作りたかっただけだって」
智晴は怖がる和花を擁護した。智晴は霊感はないし見たこともなく、幽霊という非科学的な存在はあまり信じていなかったという理由もある。それに、暗かったとは言え足元まではっきり見えたのだから、実物の人間に違いないと思っていた。
しかし、あれは幽霊だと信じる美千は食い下がる。
「じゃあ、なんで他の人は見てないの?」
「タイミングよく、女性がトイレに行ってた時に通ったんじゃないか」
「一時間に何度も?」
「腹下してたんだよ」
「だったら断ってるでしょ。絶対あの人幽霊だよ。だって、管理人さんが話してたじゃない。心中したカップルの話!」
美千がこれだけ信じるのには、肝試しの直前にある話を聞いたせいもあった。
肝試しをやる前、管理人が全員にある昔話を語った。それは、この山で心中した男女の話だ。
もう何十年も昔のことだが、町長の息子と漁師の娘が恋に落ち結婚をしようとしていた。ところが町長は、漁師の娘など由緒ある家に似つかわしくないと猛反対し、町長が認めないなら許すことはできないと娘の両親も反対した。
二人は何度も両家に許しをもらおうとしたが、話すら聞いてもらえなかった。思い詰めた二人は、認めてもらえないならいっそのこと心中しようと話し、キャンプ場の展望台にある桜の木で首を括って自殺した。その時に成仏しきれなかった女性の幽霊が今も山を彷徨っている、という話だった。
「あの話が本当なら、あたしたちが見たワンピースの女の人って……」
「だからやめてって言ってるでしょ!私が幽霊とか苦手なの知ってるくせに!」
「て言うか。あの時、誰かに憑いた可能性あるんじゃない?もしかしたら、隼人と腕組んじゃってた和花に嫉妬して……」
「やめてよ美千!」
和花は、耳を塞いでいた手を離して美千を叩いた。手を出してまで抗議されているというのに、怖がっているのを面白がる美千は楽しそうに笑う。
「和花ってば頭良いくせに、本当に幽霊とか弱いよね。そこは科学的にあり得ないって言いなよー」
「酷いわよ、もう!」
「あんまりからかってやるなよ美千。そうやってやり過ぎて、いつもあとで痛い目に遭ってるだろ」
「大丈夫だよ。きっと昔話も作り話だって」
決して悪気があってからかっている訳ではなかった。美千は昔から、人をからかって遊ぶのが好きなのだ。だから時々、性格が悪いと言われて嫌われることもあるが、本当は優しく思い遣りがある。少し加減を知らないだけなのだ。
「隼人にもやめておけよ。あいつも幽霊の話、真に受けてたから」
「あ。その隼人が戻って来たよ」
美千が指差したので正面を見ると、ジャケットのフードを被った隼人がこちらに向かって来ていた。
大粒の雨が降っているというのに、走ることなくのんびり歩いていた。ジャケットは撥水だから、濡れても平気だと余裕でいるのだろうか。しかし、脱力しているかのように肩が落ち、俯きぎみだった。
運転席に座っても身体をだらりとさせ、濡れたジャケットを拭こうともしない。
「スマホ見つかった?」
美千が聞いたが、隼人は何も答えない。
スマホを取りに行くまでは元気だったのに、何かあったのだろうかと心配になり、助手席の智晴は声をかけた。
「どうした隼人。大丈夫か?」
「大丈夫」
しかし目は虚ろで、声に覇気がない。
隼人は陸上部の部長も務めたリーダータイプで、いつもはつらつとしているのに、さっきまでの元気は一体どこへいってしまったのだろう。雨に濡れたせいで、体調を悪くしたのだろうか。
代わりに運転したい智晴だが、うっかり運転免許証を忘れてしまったし、女子二人も免許は持っていないので、運転は隼人に任せるしかない。
智晴は心の中に気がかりを残したが、そのまま車はキャンプ場を後にした。
曲がりくねった山道は整備されてはいるが、所々窪んでいて水溜りができていた。車は水飛沫を上げながら走った。木々の間から見上げる空はどこまでも曇天で、雨はまだ暫くやみそうにない。
キャンプ場を出て十分。もうそろそろ、民家が見えてくる頃だった。けれど、車はまだ山道を走り続けていた。
智晴は、ふと違和感に気付く。
「……なあ。来る時って、この道だったっけ?」
「え?ちょっと待って。道、間違えてない?」
町の方へ下りている筈が、途中から道を間違えていた。智晴は慌てて隼人に停めるよう言い、車は杉林のど真ん中に停まった。
「隼人。ちゃんとナビ使って……って。お前、何も見てなくないか!?」
隼人が会社の同僚から借りた車なのだが、ナビが壊れていて、行きはアプリの地図でルートを確認しながら来ていた。行きにそうしていたから、帰りもアプリを見ているんだろうと思っていたが、隼人はスマホを用意すらしていなかった。
「なんで確認してないんだよ。らしくないな。本当に大丈夫かお前」
「この先、どこに繋がってるかわからないわよね。一度キャンプ場に戻った方がいいんじゃない?」
「そうだな。そうしよう」
智晴は体調が悪そうな隼人の代わりに、地図アプリでキャンプ場へ戻る道を確認しようとした。しかし、現在位置が狂っていて、マーカーは真っ白な画面の真ん中を指していた。正しい位置情報を表示しようとしてアプリを何度か開き直してみるが、赤いマーカーは何もない場所を指し続けた。
(どういうことだ。山の中だからか?電波もギリギリ立ってる状態だ)
「あ。隼人。肩になにか付いてるよ」
隼人の斜め後ろに座っていた美千がふと気付いて、手を伸ばしてゴミを取った。
付いていたのは、花びらだった。小さくて、薄ピンク色の。夏に見る筈がない花の。
「……桜の花びら?」和花が言った。
「桜?そんな訳ないだろ。今は夏だぞ。咲いてる訳ないじゃん」
桜の花びらを夏に見るなんて、季節が入れ替わらない限りあり得ない。智晴と和花は、それは似た植物の花びらで全くの別物だとすませようとした。
その時。花びらを取った美千が呟いた。
「連れて来てくれて、ありがとう」
「美千。今なにか言った?」
美千は俯いていた。雨音に掻き消されそうな声だったから、和花は空耳かとも思った。
道の奥から強風が吹いてきて、雨粒が激しく車体を叩いた。
車内に流れ込む冷気が、さっきよりひんやりと首筋に当たる。
「ねえ。あの人はどこ?」
「……美千?」
和花はすぐに美千の異変に気付いた。その高い声は、明らかに彼女のものではなかったのだ。
気付いた瞬間、肝試しの時とは違う種類の恐怖を感じ取っていた。けれど、美千はいたずら好きだ。きっと退屈な時間を潰したいだけだと、恐怖を消そうとした。
「……や、やめてよ。また、からかおうとしてるんでしょ」
「あの人は、どこにいるの?」
「だから、からかうのはやめ」
俯いていた彼女は顔を上げ、和花の方を向いた。
「あなたは、誰?」
「ひっ……!」
白目を剥いた顔が向き、和花は顔を青褪め引きつらせた。一瞬心臓が止まり、全身に鳥肌が立つ。冷水を浴びせられたかのように寒気が襲い、背中に一筋の汗が流れる。
「あぁ。お義母さまではありませんか」
「だ……誰っ!?」
「和花?」
どうにかして地図を見ようとしていた智晴は後ろの二人の様子に気付き、バックミラー越しに窺うが、和花が動揺しているのが見えるだけで、何が起きているのかはわからない。また美千がふざけ始めたのかと思っていた。
「お義母さま。どうしてお許し頂けないのですか。こんなにあの人を愛しているのに」
そう言いながら彼女は、怯える和花にジリジリと迫る。
「お義母さま……お義母さま……」
「いや……いやっ!」
恐怖に怯え逃れんとする和花は、ドアにぴたりと背中をくっ付ける。なぜ突然、自分がこんな恐怖を味わわされているのか。自分が何かしただろうか。そんな疑問が頭の中を延々と回っていた。
逃げなければ。和花は本能で命の危機を感じていた。
「おい。二人で何やってるんだよ」
智晴は、ふざけているんだと未だに思い込み、和花の危機を察知できていない。その意識が向けられない間、逃げられない和花はどんどんと追い込まれ、恐怖に飲み込まれていく。
「私はこんなに苦しんだのに。どうして……」
接近した彼女はシートベルトを掴むと、和花の首に巻き付け、力一杯締めようとする。
「ぐっ……」
気道が塞がれパニックに陥る。それでも本能が働き、死の恐怖から逃れようと手探りでドアを開けようとした。しかし、ロックを解除してレバーを引いても、なぜかドアが開かない。
誰かが外から押さえているのか。だが、大粒の雨が降る人気のない山の中、一体誰がこんな質の悪いことをするだろう。
(なんで!?)
唯一の逃げ道が絶たれた和花は取り乱し、手足をバタつかせた。和花の足がシートに当たって振り返った智晴は、ようやく後部座席の異常事態に気付いた。
「美千!?」
友達が友達の首を締めているという初めて遭遇する状況に仰天し、身体が動かなくなる。しかしすぐに、和花の首を締める彼女の腕を掴みやめさせようとした。
「おい!何やってんだ!」
だが、まるで石膏像を相手にしているかのようにびくともしない。彼女より、男性の智晴の方が力がある筈なのに。智晴より細い腕を掴んでいる筈なのに、全く太刀打ちできない腕力だった。
「隼人!協力してくれ!」
自分一人の力では歯が立たないと判断した智晴は、隼人に助けを求めた。ところが隼人は、腕をだらりと下げ、ドアに凭れかけてぐったりとしていた。
「隼人?おい、隼人!?」
名前を呼びながら何度身体を揺すっても、まるで魂が抜けたかのように微塵も反応しない。さっき雨に濡れたせいか、体温はぬるく、目は虚ろだった。
だんだんと首を締められていく和花。彼女の腕にジャケットの上から爪を立てたり、さらに足を暴れさせて抵抗しようとしていた。
「くそっ!やめろ美千!」
もはや、助けられるのは智晴しかいなくなった。敵わない訳がないと全力を出し、再び彼女と力比べをした。けれど、それでも力は及ばず、逆に力を吸い取られていくように力がなくなっていく。
倦ねている間にも、和花の抵抗力が次第に弱まっていった。暴れさせていた足は動かなくなり、爪を立てていた腕も力強さをなくしていく。
そしてついに、和花の腕は力なく垂れ下がった。
相手の抵抗がなくなったのを見て、彼女の力が緩んだ。その一瞬の隙きを見逃さなかった智晴は、フードを思い切り引っ張って和花からその身体を引き離した。
「お前何やってるんだよ!まるで取り憑かれたみたいにリアルな演技して。悪戯も程々にしろよ!?」
普段は滅多に大声を上げない智晴だが、友達だからと言ってやり過ぎだと、さすがに怒鳴った。
その次の瞬間、彼女の頭が180度ぐりんっと回り、智晴の方を向いた。
「ぅわっ!?」
人間離れした動きと白目に驚倒し、智晴は腰を抜かしそうになった。
いや。驚倒した理由はそれだけではない。
その顔は美千ではなく、全く別人のものだったのだ。
智晴は混乱し、身体全体に恐怖が満ちていき、血の気が引いた。冷房の風が零下のような冷たさに感じ、身体の芯から凍らされていくような感覚だった。
「見つけた。そこにいたのね」
彼女は嬉しそうに笑みを浮かべると、首から下も正面に向け、座席の間をするりと抜けて智晴に接近した。智晴は、恐怖のあまり声が出なかった。
「やっと会えたわ。秋正さん」
彼女は、愛おしそうに智晴の顔を両手で包み込んだ。
逃げなければ。本能ではそう感じていても、身体は凍り付いたように全く動かなかった。しかも、なぜか彼女から目が逸らせない。
触れられている頬から、体温がなくなっていくようだった。それが冷房のせいなのか、気のせいなのかも考えられない。
「さあ。一緒に行きましょう」
そう言った瞬間、彼女の白い眼球はなくなり、真っ暗な穴が現れた。目を逸らせない智晴は、その暗い穴に身体の中の何かが吸い込まれる感覚に陥った。
意識が戻ると、肌で感じる空気の冷たさが違った。湿り気を感じる。
目を開くと、視界が白かった。どうやら、濃い霧の中に立っているようだ。いつの間にこんな場所に来たのだろう。記憶が途切れていて思い出せない。それに側には、車もなければ友達もいない。
「おい!みんな何処だよ!?」
視界が悪いあたりを見回しながら呼ぶが、誰の声も返って来ない。車の影も、人の気配もなかった。
「隼人!美千!和花!?」
智晴は、どこかわからない場所で一人になってしまっていた。途端に心細くなり、不安が胸に押し寄せる。
その時ふと、記憶が途切れるまでのことが脳に甦った。現実とは思いたくない、ゾッとする出来事を。
(俺……もしかして、死んだのか?ここは彼の世なのか?それとも、悪夢でも見てるのか?)
一番最悪な事態を想像したが、足はちゃんとあるし、手が透けていたりはしていない。しかし、場所の空気感が、生きているという実感を智晴に与えなかった。
不安と恐怖を一人で抱え佇んでいると、少しずつ霧が晴れていく。すると、正面に木が立っているのが見えてきた。立派で、樹齢何十年という感じの幹の太さだ。けれど、枝を覆っているのは新緑ではなかった。
「……桜?」
その木は、薄ピンク色の花をまとった桜の木だった。霧がかかり幻想的な雰囲気を作り出しているが、どこか不気味さも醸し出されていた。その枝の一本に、輪っかにしたロープらしきものがかかっている。
さらに視界が開けると、人影が見えた。誰かが桜の木の側に立っている。
「誰かいるのか!?」
智晴は友達だと期待した。しかし、頭に浮かべた三人の誰でもなかった。
立っていたのは女性だった。白いワンピースを着た、長い黒髪の女性。
見覚えのある姿を目にした智晴の心臓が、ドクンッと脈打った。昨夜、肝試しの時に遭遇した女性だ。
顔もはっきりと見える。まだ未成熟さが残る二十歳くらいで、アイドルや若手俳優でもおかしくない顔立ちだ。
「ずっと探していたのよ、秋正さん。やっと会えて嬉しいわ」
女性は、安堵するように優しく智晴に微笑んだ。
智晴は理解する。ここは、さっきまでいた世界じゃない。心中で死んだ女性の幽霊に、自分の恋人だと思われて彼の世に連れて来られたのだと。
(俺、死んだのか……)
自分の状況を理解した智晴は愕然とし、全身から力が抜けそうだった。頭の中にやり残したことの数々が浮かび、諦念と後悔が入り混じった。
「どうしたの秋正さん。私たち、再会できたのよ?」
女性は、魂が抜けた智晴を「秋正」と呼び続けた。突然死んで彼の世に連れて来られ、あとは現実を受け入れるしかない気力をなくした智晴は、今さら逆らったところで呪いなど関係ないと思い、彼女に言った。
「あの。違います」
「なに?」
「俺は、秋正という人じゃありません」
「秋正さんじゃない?」
「はい。よく見て下さい」
女性は足音も立てずにスーッとすべるように近寄って来て、智晴は少し上半身を仰け反らせた。
至近距離でその顔を見ても、肌は透き通る程にきれいで(幽霊だからかもしれないが)、モテそうな顔立ちだ。だが首に目をやると、縊死した跡がくっきりと残っている。
女性は五秒くらい智晴の顔をじっと見つめると、小さく溜め息をついた。
「違う。秋正さんじゃない」
肩を落とすと、智晴から静かに離れた。
「誤解が解けてよかったです……いや。死んじゃったから何もよくないんだけど」
「いいえ。あなたはまだ死んでないわ」
智晴は耳を疑った。けれど、確かに彼女は「まだ死んでない」と言った。
「え?でもここ、彼の世じゃ……」
「ここは、彼の世と此の世の境目。彼の世に行けない私は、いつもここにいるの」
何十年も昔、恋人と心中した彼女は、一度は三途の川まで行った。ところが、一緒に心中した筈の恋人・秋正がいないことに気付き、三途の川を渡らず、恋人を探す為に此の世に幽霊となって戻って来てしまったのだった。
それから長い年月が経過した今でも、愛しい人を探し続けていた。
「まだ死んでないってことは、生き返れるんですか。じゃあ帰らせて下さい!」
死んだと諦めた智晴は希望を見出し、人違いなんだから帰してもらえると思った。しかし人違いだったとしても、彼女にとって智晴は別の利用価値があった。
「それはだめ」
「なんで!?俺は探してる人とは別人なんですよ?人違いなら帰らせて下さいよ!」
「別人でも、似てるから。あの人たちみたいに、ここにいてもらうわ」
そう言って女性が後ろを振り向くと、その視線の先に大きな塊があった。
目を凝らすと、人間だった。登山客やキャンパーらしき数人の成人男性が、人形のように地面に無造作に置かれていた。
「あの人たちも、秋正さんに似てる人よ。目、鼻、口、耳、手、骨格、背丈、声。似てるところを全部組み合わせて、秋正さんにするの」
全身の鳥肌が立ち、途端に冷や汗が噴き出した。
「なんで、そんなこと……」
「本物の秋正さんに会えないから。でも、パーツを組み合わせれば、秋正さんになるわ。あなたの目と鼻も似てるの。だから、帰さない」
ついさっきまで美少女だった女性の笑みが消え、眼球がギョロリと向いた。
「ま、待ってくれ!そんなの……」
ギリギリ死を免れ帰れる希望を見出した矢先に現れた橋は、今にも谷底に落ちそうな木製のボロボロの橋だった。
智晴は数歩、後退りした。と、何か固形のものを踏んだ。
振り向いて足元を確かめると、人間の腕だった。
「ひっ……!」
智晴の背後には、おかしな顔の人間の男性が転がっていた。
しかも、一人だけではない。幾人もの人間が折り重なったり、転がっていた。そのどれもが顔のパーツがなくなっていたり、目鼻や手足が歪にくっ付き、顔色が土色に変化した表情は苦悶や叫喚の痕跡を留め、地獄の様相を呈していた。
「そこにあるのは、失敗作よ。上手く秋正さんにならなかったの」
心臓が握られている気がして、呼吸が浅くなる。
智晴は小刻みに震えながら、恐る恐る聞いた。
「……い……生きてる、のか?」
「死んだ魂よ」
「え。でもここは、彼の世じゃないって……」
「何年、十何年もここにいると、魂は肉体に戻れなくなって、死ぬの」
一瞬、心臓が止まり、目眩がした。
死ぬ。その二文字が頭を過ぎった瞬間、智晴は本能的に走り出し霧の中に逃げ込んだ。
どうやって此の世に戻ればいいかわからなかったが、方法なんて考える余裕はなかった。とにかくこの場所から出る。彼女から離れなければと走った。
元陸上部とは言え、短距離走専門だったから長距離はそんなに得意ではない。けれどそんなことも忘れ、生き延びる為にひたすら走り続けた。
そうして1キロは走っただろうか。霧が途切れ、広い場所に出た。息を切らす智晴は、逃げ切れた安堵で力を抜き、ヨロヨロと倒れ込みそうになった。
と、何かにぶつかった。なんだと頭を上げると、縦長に伸びる黒い絹の糸の束のようなものがあった。すると、それが突然拗じられ、女性の顔が現れた。
「ぁあっ……!?」
智晴は、元の場所に戻って来てしまった。
躓きそうになりながら、慌てて踵を返し逃げようとした。だが腕を掴まれ、肩の関節が外れるくらいの腕力と勢いで地面に倒された。
暴れる隙きを与えられず、身体は字面に固定された。完全に身動きが取れなくなる。
「無駄よ。他の人たちも逃げ回って、最後は諦めたの。あなたも早く諦めて、あの人たちと同じになった方が気が楽よ」
「やだ……いやだっ!やめてくれ!誰か!」
恐怖で力が入らないのか、彼女が何かしたのか、足掻こうとしても手足が動かず、何も抵抗ができない。
「今度はちゃんと、秋正さんになるかしら」
女性は智晴に覆い被さり、智晴を永遠の夜に閉じ込めるように長い黒髪を垂らす。その顔は、長年望み続けた愛しい人との再会を心待ちにしている恋人ではなく、三日月型に口を歪めた顔は、不気味で悍ましい捕食者の顔付きだった。
もう終わりだ。自分の命の残り時間と死ぬ恐怖に襲われ、智晴の目に涙が浮かぶ。
「早く会いたいわ。私の愛する人」
「いやだ!」
亡霊の彼女には敵わない。自分もこれから、あのゾンビのように歪んだ姿にされる。そう思い知らされても、生きることに執着したいと本能が叫び、智晴はできる限り足掻いた。
「やめろ!俺はまだ死にたくない!ばあちゃんの為にまだ何もしてないのに!」
「……お祖母ちゃん?」
女性は、智晴の言葉に反応したようだった。
「あなたにも、お祖母ちゃんがいるの?」
「あ……当たり前だろ。俺にだって大切な家族がいるんだよ!」
「大切な家族……」
「山奥の集落で一人暮らししてるばあちゃんが不自由しないように助けたくて、働き出したばかりなんだ。大好きなばあちゃんの為に役立つことをしたくて頑張ってるのに、何もできないまま死にたくない!」
「お祖母ちゃん……」
「だから帰らせてくれ!頼むから!」
束縛から逃れようと身体に力を入れるが、相変わらず1ミリも動かない。それでも智晴は、自分の身体に「動け!」と脳内で命令し続けた。
女性は、なぜか黙っていた。恋人の名も口にせず、不動のまま覆い被さっていた。
すると彼女は、急に身体を退けた。それと同時に智晴の束縛も解け、手足が動くようになった。
「あなたは帰してあげる」
「……え」
「捕まえたのに帰すのは、あなただけよ」
身体が自由になり、見逃すと突然言われても、助かったんだとすぐに理解できなかった。恐怖に支配された頭では、どういう状況に変わったんだと自問するのが限界だった。
さっきまで恐ろしい顔付きだった女性だが、ふと見ると、どこか憂えているように見えた。
ここで首を吊った時、何かが心に支えたまま死んでしまったのだろうか。結婚を認められない苦しみから逃れる為に縊死したことを、本当は後ろめたく感じているのだろうか。
理由を問い詰めようなんて、そこまで智晴の頭は回らなかった。自分から離れて行く女性の黒髪を、後ろから呆然と見つめるだけだった。
「その気持ちを忘れないで。そして、どんな時でも、自分がどこにいても、大切な人がいることを忘れないで。家族でも、恋人でも。忘れていても、必ず思い出して」
そう言い残した女性は、霧の中に消えて行った。智晴自身も霧に包まれ、視界が閉ざされた。
「智晴。聞いてるの?」
後ろから聞こえた美千の声で、智晴はハッと目を覚ました。バタバタと音を立てる音が耳に入り、フロントガラスを流れる雨が目に入った。
智晴は、車の助手席に座っていた。
「寝てたの?遊んで疲れた子供みたい」
美千はくすくすと笑いながら言った。
外に目をやると、迷い込んだ山道でも、さっきまでいた場所でもなく、キャンプ場の駐車場だった。時間を見ると、午後一時過ぎ。運転席に隼人の姿はない。
後部座席の美千と和花は、昨夜の肝試しの話をしていた。幽霊が苦手な和花は、耳を塞いで「もうやめてよ」と美千に文句を言っている。
(さっきのは、夢……?)
安堵して、深く息を吐き出した。
だが、一度はこの駐車場を出て、道に迷って大変なことが起き、自分だけがこことは違う世界に行ったという記憶が鮮明に残っている。身体の感覚も。だから、その記憶が本当に夢だったのかと疑うくらいだった。
(なんて悪趣味な夢なんだ。マジで最悪)
急に喉の渇きを感じて、ペットボトルの水をがぶ飲みした。幽霊に殺されそうになるという自分の人生史上最悪の夢を見るほど、悪いことはしてきていない。きっと、寝ている間に美千が耳元で何か囁いて、それが影響したんだろう。智晴はそう思うことにした。
そこへ、忘れ物のスマホを取りに行っていた隼人が、フードを被って小走りで戻って来た。
「スマホ見つかった?」
「あった。アスレチックのところに落ちてた」
運転席に座ると、ジャケットの水滴をタオルで拭いた。その顔を横から見た智晴は、なんだか少し顔色が悪いように見えた。
「どうした隼人。大丈夫か?」
隼人は智晴の方を向いた。やはり少し顔色が悪い。
「……あのさ。今、管理人さんが教えてくれたんだけど。昨夜会った女性、やっぱり管理人さんが用意した人だったんだって。姪っ子らしいよ。他の人たちとも、口裏を合わせたんだって」
「えー、そうなの?」
「ほら。やっぱり幽霊なんかじゃなかったじゃない」
幽霊だと信じていた美千は心底ガッカリしたが、幽霊じゃないと証明された和花は途端に元気を取り戻した。それにしても口裏を合わせるなんて、美千なみに意地悪な管理人と参加者たちだ。
「それと。心中したカップルの話に、実は続きがあるみたいでさ」
教えられたのはそれだけではなく、昔話の新たな情報を聞いてきたようだ。隼人も幽霊の話を真に受ける方だから、顔色を悪くしていたのだ。
隼人がその話をしようとした時、
「あ。隼人。肩になにか付いてるよ」
美千が、隼人の濡れた右肩に手を伸ばした。智晴は、夢と同じ場面にデジャヴュを感じてドキリとする。けれど、付いていたのはただの葉っぱだった。
隼人は続きを話した。
「女性の方は死んだけど、男性は奇跡的に助かったんだって。だけど、死んでしまった女性は成仏できずに幽霊になって、一緒に彼の世へ行けなかった恋人のことをずっと探していて、顔立ちが似た男性を彼の世に連れて行こうとするんだって。今までに似たような顔の人が何人も、この山で原因不明の急死をしてるらしい」
智晴は鳥肌を立たせた。まるで夢と同じじゃないか、と。
その時、後ろで美千が笑いを溢した。
「ふふふ……見つけた」
それは、いつもと違う笑い方と言葉遣いで、美千ではないような雰囲気だった。