非モテはリベラルに走り、無敵の人になる。そんな人達が多数派になる世界で、どうやって倫理的になればいいのだろう。
はい。わたし非モテです。
非モテって悲しい存在よね。
社会の中で承認してくれるのは親くらいなもので、他人は誰も承認してくれない。ひとりきりの存在なんだから。
つまり、社会にコミットメントできない存在。
もちろん、消費者とか労働者とか、そういった面でのコミットメントはできるけど、べつにわたしでなくても消費者はいるし、労働者はいるわけだから、そういった属性をまとったところで、自分が社会にコミットメントしているって実感は薄い。
何者にもなれず、何も成し遂げられないまま死んでいく。
なんというかジョーカー。
あるいは親すらも死んだら、本当に社会における自分の価値がなくなり、無敵の人になっていくのかもしれないね。
ただ、この無敵の人ってネガティブな面ばかり取りざたされているけれど、良い面もあるように思うんだよ。
例えば、ジョーカーというのは、何者にでもなれるカードだ。社会にコミットメントできない存在は、存在自体が軽い。
人は生まれ落ちた瞬間に親ガチャとかそういうので、本当は「いまここ」に臨在する存在だけど、社会にコミットメントしていないという属性が、「いまここ」から意識を解き放つのに役立つと思うんだ。
要するに、わたしは自由だという意識。
ある日突然、裸で往来を歩いても自由だし。
ある日突然、子猫を包丁で刺殺しても自由だ。
もちろん、それらの行為は犯罪になるし、逮捕されるし、刑務所にぶちこまれると思うんだけど、モテている者よりは、だからどうしたとなりやすいんじゃないかな。
誰にも繋がれないということは、わたしは唯一の存在であり、能力的な意味を除けば神様に等しい。
誰ともつながれないわたしは、神様のように世界と直接リンクする。だってその間にある「国」や「社会」は、わたしから顔をそむけたから。
そこには何も関係性がなかったから。
だから、もはや一息に世界と結びつくほかなくなる。
想像上の他者を世界として措定し、わたしの自我を最大化しようとする。
リベラルは非モテの思想だ。
本当の意味での他者がいないから。
想像上の他人しかいないから。
肌を触れ合うような人付き合いがないから。
世界だけがわたしのトモダチ。
リベラルはよく普遍性って言葉を使う。
みんなが自由だという意識は普遍性を持つってことなんだろうけど、でも、それは愛のない世界でもある。透明なフィルターで覆われたキレイな世界だ。ただ唯一、寛容であれという言葉だけは強制されるけど、さしあたり生きていく分には不都合はない。
愛は偏愛だよね。
つまり、誰かを愛するということは他の誰かを愛さないということ。
少なくとも誠実であろうとするなら、二股なんかかけないし、そうするのが望ましいとされている。
わたしは誰かに偏愛されたという経験がない。唯一親だけは愛してくれたといえるけど、親は純粋な他人じゃないから、マガイモノのような気がする。
だから、非モテはリベラルの考えに惹かれていく。
でも、リベラルは愛を知らないから、結局破滅すると思うんだよね。
例えば、生活保護を受けている人がいる。貧困な人がいる。障がい者がいる。弱者がいる。それらの人たちを助けようとするのは、愛があるから、つまり偏愛があるからだと思う。
少なくとも、仲間意識というか。いずれはわたしも彼らみたいになるかもしれないから、助け合おうという気概が生まれる。
でも、リベラルの思想を純化すると、生活保護を受けている者も、貧困な人も、障がい者も、すべてその人の自己責任だ。むしろ、そういった弱者に手をさしのべるということは、普遍性を著しく害するがゆえに、反リベラル的な考え方となってしまう。
……わたしは、非モテなのでリベラルを基礎にしたはずなのに、リベラルの限界を感じてしまった。
どうすればよいのだろう。
極限的なリベラルはむしろ人間を破壊するものだ。それでも自爆テロのように無敵の人になってしまえとは、とても思えない。
リベラルには一定の縛り「倫理」を必要とするようだ。
でも、それって結局、社会に対するコミットメントを基礎とするんでしょう?
コミュニタリアンは共同体の善として、リベラルに制限を加えることで、倫理的な健全性を取り戻そうとする思想である。
コミットメント――の基礎的な単位は、家族だろう。
この世界に、わたしが代替のきかない存在として、つまり他者の他者たりえるのは家族――とりわけ子を成したときだろうと思う。
結婚は、残念ながらコミュニティの基礎の基礎ではない。
わたしという自意識を神たる自由から、「いまここ」に縛りつけるのは、子という自分の分身であると同時に自分とは異なる存在、他者が生まれることによる。
まあ、非モテにはどっちも関係ない話だけどね。
つまり、子持ちはほとんど無条件にコミュニタリアンとなり、コミュニティの持続を願うことができるということだ。
もうちょっとカンタンな言葉を使うと、なんだろうな……子どもがいるなら、社会を存続させたいだろうし、犯罪者だらけになるのは嫌だろうし、社会がよりよくなっていくのを願うだろうという傾向がある。
言うまでもないけれど、社会に無敵の人がたくさんになったら、そんな世界で自分の子どもが生きていくのは嫌だということになるだろう。
だから、空想のなかの「世界」や空虚な他人なんかではなくて、隣り合う人に対して、優しくなれるだろう。
もちろん、コミュニティには広がりの限界値みたいなものはあるよ。
生活保護を外国人が受給するのは許せんというようなコミュニティの内外で壁を構築するなんて話は想像しやすいだろう。
けれど、子どもという身近な他者がいるなら、わたしが「いまここ」に縛りつけられていることを理解し、逆説的にだが、コミュニティの外へも想像力を働かせることができる。
偏愛を普遍化させることができるんだ。
しかし、そういったバフ効果を持った人が少なくなってるというのが、いまの世の中の流れだよなぁ……と、わたしは思う。
未婚率とか少子化とかのデータを見る限り、子持ちはどんどん少なくなるだろう。ゆえに、コミュニタリアンになるというのが、子持ちバフによって自然となるのが難しい世の中になってくるんじゃないかと予想できる。
ゆえに、リベラルは野放図に拡大され、それを抑制する倫理はどんどん失われていくだろう。
どうすればよいか。
ひとつの解法としては、子を無条件に与えることができる社会だろう。
もちろん、それはグロテスクな世界ともいえるが、非モテが社会にコミットメントしたいという欲望が、総量的に大きくなればなるほど、そういった世界は実現可能性を増していく。
そのとき、モテる人たちは、世界の持続性を求めるがゆえ、非モテの共犯となりうるだろう。
このあたりにSFの発想があるんだよという話。
次回、親子比100:1の世界に転生しまった私。始まります。
一応、設定としては親が100で子が1くらい。
アストラルスフィアの解析により、子無しも自分のタマシイを子に引き継がせることができる。
子は天使であり、子どうしをナメック星人みたいに吸収して、少数になっていくことができるみたいなイメージ。
子は多数の親の子であり、親は子であるから溺愛する。
わたしは、親子の一対一世界から転生してきたんだけど、親たちの溺愛っぷりがすごい。
みたいな感じか。男女比より書きにくそうではあるなぁ……ううむ。