Episode70・(Ren Side)
廉目線の物語が、ようやく始まります。
(大変、お待たせ致しました)
「_____お母さん………!!」
あの母親の後ろ姿。
警官と刑事に付き添われながら、
彼女は手錠かけられ肩を竦めながらパトカーに消えて行った。
あの母親が、
今にも泣きそうな儚げな表情で、自分自身を追いかけ
父親に静止されている息子の姿を振り返り見返す事はなかった。
(_____僕は要らない子だったんだ)
視界がぼやける中で、そう息子は思った。
その時、母親がどんな表情を浮かべていたのかは、誰も知らない。
「…………っ」
瞼の裏に注いだ淡い光りで、意識が目覚めた。
廉は上半身を起こす。なんだか気持ちは気怠いままだ。
気分が悪い。
今でも時折にしてその、夢を見てしまう。
あれは悪夢の始まりで単なるあれは序章だったのだと。
昨日は
運送の仕事の後、美容室のカットモデルの仕事を終えた後
肩にへばりつく泥の様な疲労感を抱えながら帰宅すると
いつの間にかベッドにもたれ掛かったまま泥の様に眠ってしまったらしい。
何か喉元に引っ掛かる、不快感と胸騒ぎ。
廉は無意識的に喉元に指先を当てたが身体的には何もない。
でも、空気の様に心を抉られる様な、拭えない不快感は自棄に張り付いて離れなかった。
今日は大事な日だ。
気怠い身体と気持ちを抱えたまま、廉はスーツに袖を通す。
丁度、ネクタイを締めている時に、通話を知らせる着信音が鳴った。
_____電話の相手は、あの人からだった。
前の家の住所に向かうと、更地になっていた。
あの家は何処に行ってしまったのだ?
舞子はてっきり、
家は現存している考えだった。
だからこそ裳抜けの殻状態の更地に呆気に取られてしまう。
(これでは手掛かりはないじゃない)
舞子が覚えていたのは、わが家の居場所だけ。
杏子が寄越す手紙には哀愁に満ちた息子の成長記録のみ。
____夫は、息子は、一体何処に行ってしまったのだ。
舞子が次に向かったのは、
うろ覚えの義妹のアパートに向かった。
当時、夫の妹である杏子とその娘はほんの少し離れた近所に住んでいた。
家族ぐるみの仲であり、よく交流していたのだから、
杏子ならば何かしら知っている筈だ。
しかし、杏子と娘が住んでいた
アパートがあった場所は解体され、広い公園になっていた。
聞き込みをしようと思ったが自身の顔が色濃く知れているせいでそれすらも出来ない。
(どうして、私の記憶の中にあるものは、何もないの?)
居場所が奪われたようで、自身の記憶を否定されたように思い
舞子は、募る苛立ちを隠せなかった。
しかし当然ながら
20年間の空白は、全てに変化をもたらしていた。
目に映る景色、見るもの全てが、まるで自分自身だけが別世界に来た様な感覚に襲われてしまった。
『____前回の診察よりも更に
記憶力、認知機能が低下している様に見受けられました』
白衣を来た白髪混じりの紳士的な雰囲気漂う医師は、
そう真剣ながら、凜然と厳しい面持ちで告げた。
テーブルの向こう側に居り、真剣さと
複雑な表情で医師の言葉を聞いているのは廉と杏子だった。
今日は、父親の担当師の定期的な診断結果を聞く日だった。
颯真の実妹であり、兄がホームで暮らす事を下した
身元保証人・引き受け人の杏子、颯真の唯一の実子である廉。
『これは、廉君の意思に任せる。
けれども貴方にはお父さんの知る権利があると私は思う。
廉君自身が、もしお父さんの事が知りたいと思う事があれば
今のお父さんの現状をお医者様に聞きに行きましょう』
杏子は無理強いは、一切しなかった。
実兄が息子にした痛々しい仕打ちの数々を知っているからだ。
両親に捨てられてしまったも同然の廉自身の心は相当な傷を抱えている。
廉は、物事の全て、
父親の身に何が起きているのか理解ように出来る年頃に成った頃
自身の意思で杏子に連れられて父親の様子を医師に聞く様になったのだ。
このホームは、精神病院も併設されている。
それは20年前から廉の父親___川嶋颯真の様子を見てきた医師からの宣告の様にも感じた。
そんな中で、
医師の話を真面目に真剣に聞いていた廉は
沈黙を破り不意に呟き、杏子の方へ視線を向けた。
「____伯母さん、
先生と二人にして貰っても良いですか」
何か顔色を窺いながらも
何処か思い詰めた表情を見せる甥を杏子は見詰めた。
廉はある種の何かしらの覚悟を決めた様な面持ちをしていると気付く。
「………………」
「僕自身、聞きたい事があるので」
(_____この子は大人になった。兄さんの実子。
もう、私が口を挟むつもり事ではない。それに親子の領域があるのかも知れない)
そう思った杏子は静かに頷き、立ち上がった。
「分かったわ。
高木先生、私は兄に会いに行って来ます」
「分かりました」
「すみません。話が終わったら、僕も合流します」
杏子が去った後、
伯母へ向けていた微笑みを瞬時に消して
廉は、医師に視線を戻した。
「___お尋ねしたい事があります」
「何かな?」
「20年前、当時の事です。___父はどんな状況でしたか。
そして、父の今の現状になったのは、心因性ものですか。
それとも病の影響ですか」
愛した女だけの記憶だけを留め、他の記憶は抹消してしまった。
二人三脚で人生を歩いてきた実妹の存在も、
誰よりも優しく溺愛し大切に育てていた一人息子の存在も。
そして、娘同然に可愛がっていた姪の存在も。
廉の事も、実妹も姪の存在も全て。
今の颯真には存在感しないのだ。
子煩悩で優しかった父親の姿はない。
医師は厳しい面持ちのまま、姿勢を正した。
そして真剣でありつつも、何処か苦虫を噛み潰した様な面持ちで告げる。
「………廉君。
今まで私も黙っていたが、君ももう立派な大人だ。
大人になった今だからこそ、言おう。
君のお父さんは20年、此処のホームに来た時、
『妻は何処かですか?』『妻はいつ来るのですか』と言っていたんだ。
それから、自分自身の家族構成を尋ねても
自身の実妹さん、息子である廉君の事。__そして居たね、
君の従妹さん。だが家族の事は全部、忘れていたんだ。
担当医である私としては、
過剰なメディアスクラムと誹謗中傷に対して過剰なストレスや精神的苦痛を感じ、無意識の内に自分自身の記憶を忘れてしまう。
消えてしまったと推測している。………心因性だろう」
「……………」
廉は愕然とした。
だが反面、何処かで納得してしまった自分自身がいる。
それだけ、
あの母親が起こした事は炸裂な出来事だったのだろう。
不倫の末に、4人の人を殺める放火殺人犯となった。
不倫という裏切り、妻が犯罪者となった現実を受け止められなかったのだ。
だから、父親という男は妻と平穏な頃の記憶だけを
閉じ込めたまま生きる事にしたのだろう。
(もう、僕が知っている川嶋颯真は、どこにもいない)
「____補足して現状を伝えると君のお父さんは
20年前の記憶のまま留まっている、というべきかな。
川嶋さんはずっと奥様……君のお母様だけを待ち続けている……そんな状況だけだろう。
こう言ってしまえば残酷だが、
この状態は現状が変わらなくとも、症状が好転する事はまずないでしょう」
「……………」
全てを壊した元凶である母親を憎み、
その女の血が流れている自分自身に嫌悪感、憎しみを抱き
自分自身を傷付ける事で、今までのなんとか精神を保ってきた。
刹那、
心に浮かんだ乾いた嘲笑と軽蔑。
それらが全て父親へと向けられる。
(哀しい虚像に縋っている、無意味の人)
廉はずっと尋ねたかった、禁断の言葉を、告げる。
「…………では、
もしも、その待ち続けている妻という人が現れたとしたら
父はどうなってしまいますか」
廉は真剣な面持ちで尋ねた。
医師は厳しい面持ちながらも悩ましげに眉を潜める。
「…………現状としては何も言えないだろう。
ただ本当に妻の帰りを待っているのか、
心が、脳が、強い記憶を憶えているだけで、
会ったとしても呆然とするのか。分かりません」
「…………そうですか」
記憶に佇んでいる人物が現れたとして、
もしその人が現れた場合、どうなるかは解らない。
記憶と心に妻の存在が植え付けられただけか、
本当に妻を待っているだけなのか。
「………最後に聞きたい事があります」
「__何かな?」
「父はこれからもずっとあのまま、ですか」
「…………繰り返しになってしまうが、
良い傾向へ向かう事はないかと」
「分かりました。症状がそのままという事ならば
進行する事はありますか」
厳しい面持ちで、医師は告げる。
「病状が進行するかどうかは分かりません。
ただ確かな事は認知機能低下も伴っているので
病状が進むつれて、日常の自立は難しくなるでしょう」
廉は物憂げな色が含んだ瞳を伏せる。
父親が変わる事はもうないのだ。自分自身を
ただただ裏切り罪を犯した妻の帰りを待ち続けているだけ。
(……………そろそろ決断しないと)
自分自身が忘れられていても、
この20年、穏便で良好な関係を築いて来たではないか。
全ては、この先の為に生きてきたのだから。
夕暮れ。
舞子は周囲の冷たい視線に、気付き始めていた。
そうだ。自分自身は犯罪者。それに当時の報道により顔は全国に知られている。
当時、在住していたこの街なら尚更。
舞子は引き返す事にした。
その道の最中
トレンチコートを着た、黒髪のロングヘアーの
清楚な人物が歩いて此方に向かってくる。
それは何処か薄幸な雰囲気を佇ませ、雪の様な色白の肌に品の良い端正に整った美貌。
すらりとした出で立ち。
____その人物が、誰かに似ていると感じた。
(……………杏子)
その刹那、舞子の脳裏にある少女が現れた。
杏子の娘だ。名前は確か和歌、と言っていたか。
此方に歩いてきた女性は、
自身の存在に気付いたのか不意にぴたりと止まった。
肩までのセミロング。品行方正な雰囲気を佇ませた令嬢の様な顔立ちの女性には何処かで見覚えがあった。
和歌は愕然として、立ち止まってしまう。
(…………舞子、さん……?)
反対に舞子は和歌に対しては馴れ馴れしく近付いてくる。
その表情は嬉々、意気揚々として微笑みというハリがあった。
立ち竦む和歌の前に、舞子は距離を縮め、現れた。
「和歌、ちゃんよね」
「……………ごめんなさい。……どちら様ですか」
「嫌だわ。他人行儀なんて止めて、 ね?
大きくなったわね。すっかりお母さん似になって」
「…………」
微笑みを浮かべている舞子に、
和歌は複雑化した心情になってしまう。
朧気に和歌の記憶にあるのは、穢れのない純粋無垢な微笑みを浮かべた女性。
娘同然の愛情を受け、可愛がって貰って記憶が脳裏を掠める。
けれど、目の前にいる人が舞子だと言われても信じがたい。
其処にあるのは柔な微笑ではなく、“悪”を宿した微笑みは
酷く醜く見えた。
(…………この人、罪の意識がなさそう)
全く自身が犯した罪の自覚が皆無というべきか。
廉はあれだけ苦しみながら生きているのに、と何処かで不公平にも思えた。
自分自身の後遺症のPTSDの症状に悩む中で、
同時に廉の苦しみも見詰めてきた和歌にとっては、
今の舞子に良い感情を抱ける筈がない。
でも突然変異により絶句したせいで、
急に喉が砂漠の様にカラカラと急激に渇いていき、声が出ない。
_____その時だった。
「…………私の娘に、何してるの」
凜然とした声音が響く。
不意に目を遣ると、
杏子がそう告げ、此方に来て娘を守る様に和歌の前に出た。
「………久しぶりね。杏子」
「………何故、此処にまだ、」
「仮出所したのよ」
杏子は唖然とする。
朗らかに笑う舞子。
嬉々とした表情と声音の舞子とほ違い、
緊迫感のある面持ちしている杏子。
罪を犯し無期懲役の刑が下っても、
いずれは仮出所して外界に出てくるとは思っていたのだが、
時期が少し違う気がした。
杏子は、無意識的に睨む。
娘と甥が30歳を迎えた頃から
いつ自由の身になる事の許しが下され
塀の中から出てくる事がいつか、とひやひやと杏子は気を張り詰めていた。
きっと罪の意識のない令嬢は、
当然の如く、息子の前に現れる。
それは可愛がってきた姪という娘の前にも。
安々と近付いてくるかも知れないと
杏子は普段よりも和歌と廉を見張っていた。
杏子は微笑み、和歌の方へと振り向くと、
「和歌、長旅は疲れたでしょう。
先に帰って家でゆっくりと休みなさい。
お母さんは舞子さんと話があるから。……遅くなるわね」
「………でも……」
すると携帯端末の着信音が震え、鳴った。
慌てて携帯端末を見ると、杏子からのメッセージがある。
“家を悟られない様に、遠回りして違う道に行きなさい。
そして廉君には絶対に言わないで。何事もなかった様に過ごして”
いつの間に母はメッセージを送ったのだろう。
和歌は母親の顔を見遣った後で、静かに頷いて家とは違う方向へ向かった。




