未來 十 帰宅
啓之助は思ったより手強かった。晴が四六時中紅時の側に居るのに、彼女が起きて居る時は必ず側には付いて話し始めた。
始めは、警戒心の塊だった紅時も何週間か経過すると、普通になり、笑顔が出る様になった。
旦那の秋がどれだけ警戒していたか解った。だが、何故か秋は居ない。可愛いばかりの赤子すらまだ一目も見ていない。
「旦那さんはまだ帰られないの……。」
流石に心配した時子が蒲団から顔を出している紅時に聞いた。
「秋さんは、継一様の手助けをしなくてはなりません。まだ、帰られないと思います。」
「伊藤家の家臣なのかしら……。秋さんとは……。」
「いいえ。伊藤継一様と、秋さんは根深い関係です。事情を知ってるのは、もう私達位だと思います。」
時子が顔を歪めた。
「事情とは……。私も知っているのかしら……。」
紅時が顔を横に振る。
啓之助が蒲団から鎖骨が見えたので、隠すように上掛けを掛け直した。啓之助らしかなる行動であった。目線の先に晴がいる。
「母上が知らなくても問題はありません。」
赤子を抱いて居る晴が、居ずらそうにしている。話の内容が芳しくないのが解っているからだ。
「啓叔父さん。赤子を宜しくね。」
後ろから晴が赤子を渡すと、直ぐに飯の準備をしている婆の元へと逃げた。
抱きなれてきた啓之助が赤子の顔を覗き込んだ。産まれたばかりの時より、大分がっしりとしていた。
「紅時さん。赤子の名前は決めたかい……。籍を作ってくるよ。」
「旦那さんがすれば良いのよ。あんたがやる事ではないわ。しゃしゃり出て来ないでよ。」
紅時が二人に困惑している。家族だけあって、時子に遠慮のない啓之助の態度にも驚きがあった。
何時も紅時が見てきたのは秋が側に居る安心感があって、継一が連れて来ていたからだった。
秋と継一が紅時を守ってくれていたのだ。
「秋さん帰って来ないかな……。早く、赤ちゃんの顔を見せたいわ。二人目だからもっと早く帰って来ると思ったのに……。先生の事もあるからまだ無理なのは解っているけど……。」
紅時が蒲団を頭から被る。
言い争いをしている二人が止まった。
「紅時さん。今先生って……。」
「『あかちゃん』て何ですか……。」
二人して動きが止まっている。親子で反応が似ていた。
啓之助が紅時の隣にある籠に赤子を下ろすと、寝息を立てているのを確認してから、紅時の蒲団に詰め寄った。
「紅時さん。何で、明継を先生と呼ぶの……。秋さんから話を聞く事になってるけど……。でも、やっぱり変よ。旦那様は来ないし出産してるし、訳が解らないわよ。体調が安定してきたから、そろそろ話してくれないかしら……。」
紅時が蒲団から顔を出す事が無かった。
「紅時さん。私も知りたいです。貴方は出会ってから何も話してくれない……。秋さんや父上の様に心を許して下さい。」
紅時が眼だけ顔を出した。
啓之助が息を飲んだのを、時子が頭を叩いた。
「あんたも、旦那様みたいに妾を持とうとしないでよ。父が父なら、子も子よ。女がどれだけ嫌か解るの。」
時子の語尾が強くなった。睨み付けた瞳は怒りだった。
「違います。」
紅時が上半身を持ち上げて云った。飛び起きる様にして、時子を見つめる。
「継一様が定期的に会いに来ていたのは、秋継さんです。此の農村の秋継さんと話をしに来ていました……。私が初めて妊娠した時、若すぎた為に医師を呼んで数ヶ月滞在なさりました。だから浮気だ何て思わないで下さい。」
啓之助が訝しい顔をした。
「『浮気』って何ですか……。」
「不義の事よ。其れに『秋継』さんて……。何……。」
紅時が驚いた顔をしている。
言葉に何時も気を付けているのだろう。顔が引き締まったのが解った。
「時子さんは、田所 節さんですよね。」
時子は口を真一文字に占めた。
彼女が自分が読んでいた通りになっているからだ。だか、啓之助は肌蹴た胸元へと視線が向いていた。
時子が又、啓之助の頭を引っ叩いた。
「話が進まないわ。啓之助。悪いけど、紅時さんを着替えさせるから部屋を出て行ってくれる。」
紅時も胸元を直してから、立ち上がり蒲団を畳んでいた。時子が蒲団を押し入れに仕舞うと、啓之助が部屋を後にした。
紅時の体を舐め回す様にしてから、居なくなった。
「啓之助の事……。御免なさいね。悪い子では無いけど、紅時さんには執着してるみたいね……。」
「いいえ。啓之助さんには何時も助けられてばかりです。時子さんは、確か悪夢の方は覚えて居ないのですか……。先生が、投獄される過去の事です。其所で啓之助は、僕を最後まで看取ってくれた人の一人です。修一さんも、節さんも、最後まで側に居てくれましたよ。」
紅時が微笑んだ。
時子が記憶から紅時を呼び起こしている。浴衣の帯を肌蹴させると、華奢な体を見て思い出した。
「紅時さん……。もしかして、紅ちゃん……?」
紅には似つかわしくない胸の晒しを見詰めた。赤子を産んだばかりの張のある肌をしている。
「時子様。此れを御使い下さい。」
婆がいつの間にか、盥に湯と手拭いを持って立っていた。
「啓之助様から聞きましたが、婆も継一様が小さい頃から、此の村には付いて来ております。安心なされませ。不義密通はありませんよ。」
紅時が新しい着物を、行李から出している。
「まあ、懐かしい。」
時子が側に寄った。
継一が時子に仕立てた緋色の着物だった。当時は若すぎると時子が要らないと断ったのだ。
「其の着物も時子様に仕立てた物でした。処分しょうとした所に、秋さんが気に入って紅時さんに渡った物ですよ。」
婆が行李の中を見せた。蒼色の着物もある。此れも、継一が時子に選んだ物だった。
「何故継一様の贈り物を、紅時さんが持っているの……。もしかして、紅だから……。」
行李の中を見詰める時子。
婆と紅時が体を拭き始めた。高価な着物を着飾りる時に、肌が汚れていたら台無しだ。
婆は足を重点的に拭いてくれた。
紅時は汚れた晒しを外し、張った乳を拭いている。
時子が見た紅時の背中は前に拭いた背よりも膨よかだった。
女性的な丸い体付きだ。でも見た記憶がある。
「紅は何故に女性に生まれ変わったの……。」
肩を拭いている紅時が微笑んだ。
「令和で節さんが、春ちゃんを産んだからですよ。僕には到底出来ない。絶対に出来ない事をしたから……。僕も節さんが羨ましかった。先生の隣に居て、赤ちゃん迄産んで先生の隣で幸せそうにしていて……。僕と晴は春ちゃんの成長を楽しみにして居たのですよ。節さんが死ぬ迄は……。」
婆が紅時の背中を拭き始めた。
「春も懐いて居たのだから母親役をやってくれて……。私が死んでからも、そうでしょう……。」
「逆です。先生の近くに居られませんでした。二人の悲しみは深かった。だから、節さんのお葬式の直ぐに晴と先生の元から離れました。晴は其れでも良いと云って、僕と一緒にルームシェアで住んでくれました……。」
「では令和の秋継は二人で生活をしていたのね……。娘の春が高校に受かった後に……。」
「節さんが居なくなった後、春ちゃんは良く電話してくれました。だから余計先生には会わなかった。中途半端な態度は、春ちゃんにも晴にも悪いと思いましたから……。」
「確かに、紅くんと居る時の、秋継は不安だらけだったわ。確かに、令和の生きてる間、私を裏切らなかった。知ってるわ。でも、居なくなってからも秋継は父親で居てくれたのね……。」
時子は顔を両手で覆った。
泣いているのではない。嬉しいのではない。只、過ぎ行く時間が懐かしい思い出を思い出して居た様だった。
紅時が着物を着終わっていた。
しゃんとした紅時が時子の側に座って、抱き締めた。
「ご免なさい。苦しめるつもりは無かったのですよ……。僕も節さんが好きでしたから……。」
障子を力強く開く音がする。
婆が咄嗟に頭を下げた。
「だから秋継の事は黙って居たのに……。御前は私の側で笑って居れば良い。」
継一が仁王立ちで立っていた。
「紅時も心配するな。既に終わった事だ……。令和に私が居なかった事だけが、残念だ。」
「継一様が、気にする事はありません。令和は、多分楽しかったですよ。」
秋が部屋に入って来た。
啓之助が止めていた様で障子から顔を出して居る。
「紅時。体調はどうだ……。辛かったら休むのだよ。」
秋が紅時の側に座った。
紅時が泣きそうな顔で秋に抱き付く。
「良くぞ。御戻りで……。又、監獄に閉じ込められたかと思いました……。」
「明継達が倫敦に渡ったぞ。半田の情報だ。常継も、時継も頑張ってくれた……。後、啓之助もだ……。」
紅時が微笑みながら秋に抱き締められていた。只、二人とも幸せそうにしているのを、啓之助と晴が複雑な眼差しで見ているのだった。
時子が、其の姿を見て、安堵とも取れる溜息をした。




