未來 八 雨
晴は雨の中にやって来た。
足取りも重く女物の下駄を引っ掻け歩く。
平らになっていない道は所々に水溜まりを作っている。
「晴様。所作が大振りで御座います。ゆっくり御歩き下さいませ。」
年老いた下女が晴を嗜める。
少し頷くと口をへの字に曲げた。
言葉を出せない晴の精一杯の抵抗。だが下女は雨傘を深くする様な動作をする。
晴は柄を浅く持った。顔を隠す様にして歩く。
程無くして、農家が近付いて来た。
下女が戸を叩く。
「奥様。時子様。晴様と手伝いに参りました。」
戸を開けると少し疲れた顔の時子が立っていた。
「やっと来てくれたのね……。」
先に晴が入り下女が中に入った。
雨音が滴る。
晴が時子を見詰めて、への字を歪ませた。
「御婆様。此れはどう云う事ですか……。」
「何も……、只、紅時さんを手伝って欲しいだけよ。」
下女の方は直ぐに風呂敷包みから、襷を出して、晴の袖を縛った。
「男が穢れに入るのは風習に反しています。」
「其れを承知で奥様は、私と晴様を呼ばれたのですよ。」
下女の皺の入った瞳が笑い掛けた。
「奥様は長男の啓之助様を産まれてから、直ぐに寝床に呼び寄せ、旦那様に御抱かせになった人です。迷信なぞに動かされませんよ。」
「しかし、男が手伝う等聞いた事すらありません。」
「男の人も子育てに参加すべきです。紅時さんの旦那の秋さんは農村に顔が知られて居るから、非難されてしまう。でも御国に帰って来たばかりの晴なら、分かりにくいから力仕事を頼みたいのよ。」
釜焚きの前で火を弄っていた若い女が、立ち上がった。
「まだ元服前とはいえ、少年に家事をさせる等、私は反対です。噂になるに決まってます。」
「家事はさせないわ。からっきしダメだがら……。育児の方を手伝って欲しいわ。」
紅時が出産の時から居てくれる若い女は明白に嫌な顔をした。
「時子さんは、確かに産後の女性に優しいですが、常識を逸脱しています。此の一月以上一緒に手伝いましたが、もう耐えられません。」
「貴方は下女ではないのだから床上げ期間も終わって居るのだし、手伝いをしなくてももう大丈夫よ。」
何故時子が残って居るのかは、紅時の産後の肥立ち悪すぎるからだ。
回復に時間が経つのは仕方がない。其れを見越して、晴と年配の下女を呼んだのである。
だが時子が予想していたよりも時間が掛かったのは、晴が拒絶反応を示していたからだ。
「一月経ったのだから、紅時さんの旦那の秋さんを呼んでも良かったのではないですか……。」
若い女が云った。
「まず紅時さんのお世話が先。秋さんが帰るのは、継一さんと相談しています。」
「何故其の様な事をするのですか……。」
時子が黙った。
此の数週間で若い女は、秋を狙っているのが解ったからだ。年が離れていても秋は女を虜にする容姿をしている。一瞬だけ見た秋の印象は、其れだった。
だから晴を呼んだ。確かに、年は若いが彼は不純な物が嫌いだと知ってたのである。
「二人助けてくれるから、今迄有難う。一月も助けがなかったら大変だったわ。」
晴が観念して土間から板場に上がって、時子に視線を寄せた。
「どっちみち僕には拒否権がないのですから、産婦さんと赤子に挨拶をしに行きます。」
「だから私は嫌です。」
若い女が叫んだ。
年配の下女が諌める様に話をし出した。回りに聞こえない声に成る程、近付いている。
時子は其の姿を横目に、晴を連れて障子を開いた。
身体を起こし蒲団の上で座っている女性がいた。其の紅時は会釈をし、時子に微笑んだ。
「時子さん。大分、起きていられる様になりました。」
紅時を見た晴の顔が真っ赤になった。
確かに、三十路を過ぎているには妖艶だった。彼女は、晴にも微笑み。
「時子さんが云っていた。手伝い様ですか……。何て御可愛らしい。」
晴は言葉が出ない。何時もなら雄弁に接する晴が、視線を向ける事が出来ない。
「男の子だけど良いかしら……。まだ、体調が優れない紅時さんの為の、赤子の世話役をお願いするつもり……。」
「まあ……。私は気にしません。晴なら可愛がってくれるでしょうし……。」
言い方に引っ掛かりを覚えたが紅時の表情は、優しかった。
「抱っこして下さいな。」
紅時が抱き上げている赤子を見詰めた。流石に、生後1ヶ月を経過しているので、がっしりとしていた。まだ首は座っていない。
「大丈夫よ。男の子だから、直ぐには泣かないわ。」
「赤子に名前はないのですか……。」
「まだ、神の内だから決まってないわ。でも、一番始めに秋さんに伝えるわ。だから、まだ名前はないの……。」
紅時から渡された赤子を、恐々と晴は抱き締めた。
「小さいな……。」
晴が珍しそうなに覗き込んだ。赤子は泣くでもなく静かに眠っている。
「大丈夫そうね。紅時さん。晴に細々とした事を教えてくれるかしら……。」
紅時は頷き。晴と話をし始めた。
柔軟に対応する紅時を見て少し気になった。赤子の世話を男の子にさせるのを承知する紅時に、何とも云えない違和感を感じた。
だが聞いても曖昧な返事を返す、紅時を1ヶ月見て来たので、何とも云えない。
二人から背を向け土間の方へ時子が向かった。
土間には下女しか居ず水仕事をしている。
「彼女は……。」
「家に帰しましたよ。口止めと銭を握らせて……。」
時子は何とも云えない表情をした。彼女が居たから、紅時は助かった。彼女が紅時を励ましていたのは本当だろう。
「何か世知辛いわね。」
「時子様が知らないだけで、あの子は此の村で有名ですから……。」
「婆は何か知ってるの……。」
「此の村は旦那様が良く知っている場所ですから……。」
「私が旦那様に嫁ぐ前の話をしているのかしら……。其れをとも、今の話かしら……。」
「両方で御座います。まだ、明継様の事が終わっていないので近頃姿を現しませんが、定期的に御越しになっている場所です。」
時子が訝しい顔をした。
継一が事の顛末を全て話す筈はない。秋の口から話させると云った事からもう何を聞いても無駄だろうと考えた。
「知っている事だけでも教えてくれる……。」
下女の隣に立って時子が問い掛けた。
其の時戸を叩く音がする。
雨音でも風でもない人の気配があった。
時子が躊躇うと下女が歩いて戸を開いた。
「時子様。啓之助様です。御通し致しますか……。」
時子が溜息を吐いてから長男の顔を見に行った。
雨傘を立て、着流しの着物を羽織っている。
「此所が何処か解って居るのよね。」
「紅時さんは床上げが終わって居るはずだ……。秋さんが必要なら呼びに戻る。父上はもう少し時間が必要だ。佐波様の連絡が上手くいっていない。半田ですら近付けない。」
「……節さんが何とかしてくれるから大丈夫よ。」
「母上も節と云う人物を信用するのですね……。」
「当たり前よ。」
時子は言葉を続けなかった。自分が節と同一人物だと行っても誰も信じない。
継一の指令で此の時代の節は動いている。なら、継一の事も信じられる。昔の自分が其うだった様に……。
「旦那様を待ちましょう。其して、全てを聞けば良いわ。性格上嘘は付かないと思うから……。」
息子を家に居れると傘を開いて乾かした。
下女から手拭いを受け取ると啓之助は髪を拭きながら、紅時の部屋へと足を運んだ。
毎回している動作の様に滑らかだった。
不定期投稿です。
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