過去 四 謁見
明継は宮廷に人力車を走らせた。
木製の車輪から、ゴム製の其れになってから振動や騒音が大幅に削減され、心地よい走りになって、文明が開けて来た事を余計に実感した。
町中を走らせるにつれ、電線の入り乱れている様を、目の当たりにすると、やはり西洋被れした日本人の姿が目に浮んだ。
確かに、目新しい物は其れだけで、素晴らしく見える。其れは、倫敦に留学した明継自身そうであったのだ。だが、新しい物を取り入れるのは、自分の内なる中身がなければ、問題外であり、ただ流されるだけの存在でしかなくなってしまうのだ。
今の日本は、流されるだけで、中身がないと明継は思った。電線が明継の考えている思想の象徴でもあった。其して、今の組織体系も……。
俥に揺られながら、明継は宮廷の中庭に奥付けしてもらった。
玄関から入るのではなく、中庭なら俥を走らせて参内しても、人目に付く事はない。
小銭を俥の主に握らせると、言葉なく、走り去って行った。
中庭と云っても、視界は悪く、紅と良く此処で日向で横になったりした記憶がある。
其の上、皇院である紅の寝床の別邸、直ぐ近くにある。
地理的にも小ぢんまりとしていて、人の気配が全くない。二人は此処を良く好んだ。
中庭と目と鼻の先に鴨の狩猟場所があり、だだっ広い野と、木々、池を作っている。
莫大な財産を必要とする為、上流階級の娯楽として、扱われている。其の上、鴨を呼び寄せる為、静寂さを保たねばならない。故に静かにならざるを得なく、人通りも疎らである。
其処を抜けると、皇の子孫の寝殿があり、個室の様な感じになっている。其の上、雨除けの廊下が辺りに張り巡らされていて、一種の迷路にも間違えるほどである。
昔は良く道に迷ったが、今では慣れて明継は何処に自分が位置しているのか理解出来た。
一つの建物の前に立った。
「お呼びで……。」
言葉少なに、明継が戸を開けた。
蝋燭の灯かりで薄ぼやけている部屋の中に、少年は座っていた。
「忙しい中、すまない。」
「いいえ。皇の第一御子息、佐波様の命であるなら……。」
明継は謙って申し上げた。
皇の子孫は成人してから、正式な名前を受けるので、佐波は幼児期の名前である。
「皮肉は良い。伊藤殿に聞きたい事がある。」
正式な面会であるなら、顔を隠して対応するが、明継の場合は私用が多いので、其れがない。
佐波はどんな時も、人相が分かる様な近距離には、席を共にしなかった。故に、明継ですら佐波の顔を良く知らない。
佐波は、御年十四になられる。紅と同じ年齢である。庶民的には十八で成人なのが、宮廷では十五歳になるまで成人として認められず、子供として扱われる。
正式な表舞台に立たれるのは、十五歳になってからで、其れまでは顔や年齢は国民に一切知らされずにいる。
神秘的な効果を高める為と防犯状そうなるらしい。
佐波が産まれた日は、朝早くから祝砲が鳴り響き、町中で祝いの席が持たれたらしい。町中がお祭り騒ぎで、大変だったらしい。
其の佐波が、成人に近い年齢になるにつれ、其の美貌は日に日に勝ると、顔を見た家臣は口を揃えた。
明継は一度も見た事がない佐波のおぼろげな輪郭を見た。
小さな佐波の口が、動く。
「紅隆御時宮に関する事だ……。」
明継は顔を強張らせた。全身が巌のように微動打にしない。
「心配するな。私は、お前等の事は、誰にも喋ってはいない。」
佐波の言葉が余計、明継を強張らせた。
見開いた彼の目からは、ギラギラした鈍い光が見える。
「今更ながら、紅に……。何か御用ですか……。」
喉を潰して明継が云う。
次の言葉次第では、喧嘩伍しになりそうな怪しさがあった。
「顔を見たいとまではいかん。写真などはないのか。」
「……と申しますと……。」
「久しぶりに顔が見たいのだ。紅も十四になるであろう。風貌も様変わりしたのではないのか。」
頷くに頷けず、明継が返答に困っていると、佐波は続けた。
「紅が皇院を捨ててから、三年は経つであろう。先刻までは騒ぎが大きかったが、今では諦めに近い。今頃は一心地と思うと、懐かしくなって顔が見たくなった。」
明継は、佐波の見えない表情を覗た。
高い身分にいる紅を連れて行ったのは、三年前。もっと自由に周りが見えるように、宮廷から人知れず連れ出したのである。
紅が望んだと云え、誘拐罪で追われる身になってしまった明継。
紅の失踪は役職や軍人の噂の的になり、神隠しだのと一気に広まった。
完全な報道管制の遮断により、宮廷以外では、其の話は漏れなかったようで、噂をする者は大変な処罰を受けさせられた。其の上、皇院については、余り宮廷内でも知る者は少なく、下女は知識の貧しさから蚊帳の外であった。
時間と共に、紅の名前は聞かれなくなる。
日夜、脂汗を掻いていた明継。急に辞職したら余計怪しまれると思い、出務を続けていた。だが、心配を余所に、時折、紅の話を臣下に聞かれたぐらいであった。
実情は下記の通りである。
次期皇も、皇院の紅も宮廷内では、顔を識別出来る者は少なく、十三歳の内向きな披露をする事により、人相を覚えるらしい。庶民は十五歳の公式な御披露目で、次期皇を知るのである。
防犯場の問題もあるが、どうやらそう云う風趣の為、代々続いてきた事なので、表向きは紅達も同じ事をしているらしい。
「気を付けられよ。未だに、捜査は続いているらしいぞ。」
佐波は、唯一、紅を明継が連れ出したのを知っていた。
紅が事前に、明継の家に失踪すると告げていた為か、皇に対する忠義心か、どちらにせよ、紅が失踪してから明継が呼ばれ、紅宛ての手紙を渡された。
其れからは、紅と佐波の手紙の遣り取りが伺えた。だが、佐波は誰かに話すでもなく、二人を見守っていたのである。
明継が云いづらそうに口を開いた。
「申し上げにくいのですが、私は紅を元の生活の戻してやりたいと思っているのです。」
明継は慎重に言葉を選んだ。
ずっと考えていたが、其れが一番紅に取って良い事ではないのか……と明継は考えていた。だが、佐波の表情から云って、驚きでしかなかった。
「何を云う。紅は犬猫ではない。可愛いからと云って連れて帰り、要らなくなったからと云って捨てて良いはずはない。」
押し潰した声で呶鳴り付けた。
佐波の大きな瞳が、闇の中で明継を睨んでいる。
其の目は憎しみが溢れていた。佐波は、明継が玩具に飽きて撃ち捨て様としていると感じている。
「誰も捨てるなどとは……。」
明継は、結果的に其のように捉えられるとは思っていたが、言葉に出されると流石に傷付いた。
佐波は、睨みを利かせた侭、明継の次言葉の判断を待った。
「三年間の生活で紅は私の家から一歩も外に出ていません。視野を広げる意味で、連れて帰りました。これでは自由でない。日夜、人の視線を気にし、気付かれないようにしています。宮廷での生活と同じ……、いいえ、其れ以下です。」
紅が明継の部屋で窓際に立ちはするが、露台に出た事は今まで一回もない。
もし、人の目に留まれば、噂が管下の者の耳に入るかもしれない。
明継との生活を守る為、紅は身を潜めながら、生きてきた。其れが、余計明継の紅に対する不憫さを募らせた。
「紅の為か……。なら気持ちは分かるが……。紅本人の考えはないのか。」
「いいえ。確認は取っていません。しかし、薄々は感づいている様です。」
其して、言葉を詰らせた。
微妙な沈黙。
明継は決意の表れに似た目付きだった。
佐波は、溜息を吐く。
明継が此の侭ではいけないと、苦肉の策であるのだろうと考えた。
「其れなら、紅を三年前に連れ出さなければ良かったのでは……。いや、聞かなかった事にしてくれ……。」
佐波は、無駄な事を話したと撃ち捨てた。
過去の事は無駄でしかない。其の上、二人の事情を知りながら、黙っていた佐波にも、負い目があった。
「もし、紅を宮廷に戻すなら、伊藤殿が罪をおう。」
「其れは、仕方のない事……。自分の我侭の為に、紅をこれ以上、部屋の中だけに住まわせるのは可哀想です。」
突然の言葉に驚きを隠せない様子の佐波に、追い討ちを掛ける。
「いいえ。今まで考えていた事です……。しかし、誰に相談出来る問題でもなく、一人で悩んでいただけで……。」
一人で追い詰められて、熟考した案なので、極端な事しか考え付かないと佐波は分析した。しかし、言葉にせず、佐波は無言で聞いていた。
「私は明け方、人目に付かないように、紅を自分の家へ連れ出してしまった……。己の身が可愛かった故に、今まで、紅を部屋に監禁していた様なもの……。罰せられても、文句は云えない。其れでも、彼のこれからの将来を考えると……。」
又、言葉を詰らせた。決意は揺れている。
(三年前に戻れるなら戻りたい)と心中で思った。
そうすれば、紅を連れ出さず、倫敦に帰って、二人とも違った場所で幸せに暮せたかもしれない。だが、今は後の祭りでしかない。
明継自身、紅の未来を奪い、皇院と云う明るい地位も捨てさせてしまった。
もしも、紅が宮廷に帰れたとしても、下々と生活した差別と偏見の中、窮屈な生活を強いられるかもしれない。良くて、幼い時誘拐されて鄙びていると同情されるであろう。
どっちにしろ、佐波にも近づけず、落第のレッテルを貼られるだろう。でも、自由を奪うよりはましだと明継は考えている。
「お願いです。佐波様。どうか紅を……。戻ってこられたなら、貴方様だけが便りです。」
明継は悲痛に叫んだ。
「誼で蔑ろにする気はないが…。私だけの力で守り切れるかは、分からない。」
血筋の面からも、第一子である佐波が皇になるのは確定済みだ。現在、位に就いている佐波の父が、紅を皇院の血族から外せば宮廷にも居られず、天都から追い出される。
「紅の事は、考えておくが、戻って来てからは、伊藤殿について守り切れない……。其処は心得ておけ。」
佐波は語尾を強調した。
明継は、首を縦に振った。其して、肩の荷が下りたように、安堵の表情になった。
元から、明継は紅の身を心配しているのであって、自分の事はどうでも良いと考えていた。
「佐波様。」
後ろの方で声がする。
扉の向こうで待女が、今し方現れたらしく、声を掛けて来た。
「其れでは……。」
明継は頭を垂れると、下がる。
障子を開けると、中廊下に出た。扉を引くと、驚いた顔の下女が現れた。
緊急に呼び出された明継は、異例の客人だった。
下女は呆然としてしまい、ドアの前に仁王立ちになった侭だった。其して、明継が女に目配せすると、慌てて横に寄る。横目で見ながら、明継は歩みを進めた。次の用事を済ませる為に急いだ。
紅に今日は遅くなると伝えたが、深夜を過ぎれば帰路に付けるのだ。だが、紅に云ったのなら、どんなに遅くても寝ずに待っている。少し前に実際にそんな事があった。
以上に、明継が工作して二人だけの生活が終りに近づけ様としている。少しでも長く紅の側にいようと思っていたのだ。気持としては今の侭が理想だが、自分本意な状態で紅を苦しめるのは嫌だった。
夕方を過ぎてから、下働きの者や貴族は帰宅に着いている。使われていない廊下には、電燈すら付いていない。殺風景な洋館には、だだっ広い分、異様さが漂った。
臆する事なく明継は背筋をシャンとして前を見据えて歩いた。