過去 三 昔話
明継が我に返る。
「先生。こんな所で寝ると、風邪を引きますよ。」
紅が明継を覗き込んだ。どうやら数時間が経過しているらしく体は冷え切っていた。
目前のテーブル上には食べ掛けの葛餅がある。
紅が読書していた本の枝折が少しだけ進んでいる。
洋灯の火が細く波打っている。
「否。寝てはいませんよ。昔を思い出していたのです。」
明継は初めて出会った梅ノ下での出来事や、宮廷での事を感慨深く振り返っていたのだ。
だから場所は明継が借りている洋風の家である。大通りに面した等身大の窓の或る部屋。
「先生と出会った時ですか。」
「えぇ……。確か四年前だったかな。私は二十二歳で、紅は十歳でしたね。」
紅は顔を赤らめながら頷いた。
大分、様変わりした紅の顔付きは少年でもない大人でもない色気があった。
「今では考えられませんが、先生に生意気な口を良く付いていましたよね。」
「確かに、あの頃は酷い餓鬼だと思っていたが……。もう君は十四だからね……。大きくなる訳だ……。」
紅の顔は余計赤みを増して明継に食って掛かった。幼い頃の事を云われるのが、とても恥ずかしいらしい。
「先生だって歳をお取りになりましたよ。二十六歳ですよね。一言云わせてもらえば、私はまだ十四歳ですよ。先生。」
明継は嬉しそうに紅を見た。紅の成長をこの目で追う事が出来たのが嬉しかった様だ。
壁に吊り下げられた古時計が、低音で二人の空間を割って入った。
紅は思い出したように、明継に問う。
「先生。今日は又宮廷にお仕事ですか。」
「えぇ。すみません。今日は夜遅くなるので御飯は一人で取ってください。」
此処の所、明継は宮廷での仕事が多くなり、家を空ける事が増えた。其れでも紅は何も云わず頷いた。
十歳の頃と、大分聞き分けの良くなった紅が目の前にいる。
あの頃、紅が一日でも皇院の別邸に足を運ばなければ、二時間は口を聞こうとしなかった彼が懐かしく思えた。
明継は、懸けて置いた上着を羽織ると、紅がネクタイを手渡し、彼に御礼を云ってから部屋を後にした。
二人は笑いながら、手を振った。
其れでも、時間は流れて行った。
夢のような日々が何時の間にか薄れ、泣き出しそうな雲行きと現実が繋がって行く。終らない日々が遠くの方で聞こえて来る。