現代 五 時
秋継から連絡のあった日付けは、律之と紅で決めた。
節が会いたがっていると、メッセージが来てから数日間が経っている。しかし夜夢で見る紅の記憶は明継が去る場面ばかりで、話の繋がりが無い。
律之が時系列を説明したくても、混乱させるだけだと思い、言葉に出さず、明継の記憶は自然に任せる事にした。
「此処が待ち合わせの喫茶店みたい。階段から上がろうか? 紅は何か不安はある? 」
「俺は遭った事ない人に会うんだよ。不安しかないよ。先生も困惑してるみたい。同席したいって言ってたのだけど、彼女が嫌がったのだって……。」
律之が階段を上がって行く。紅はその後を続いた。
自動ドアの店先があり中に入ると冷房の風で汗が引っ込んだ。
「三人で会うのか。前は身分があったけど今は只の中学生だからな……。変な感じだ。」
「前世は律之が兄だったのでしょ? 確かに今も兄弟に間違われるけど……。」
窓際に女性が座っている。緊急事態宣言の為、店内はがらがらだった。
直ぐに上を向くと二人に微笑み掛けた。
化粧をしている大人の女性。
「やっぱり佐波様と紅様だ。間違えないわ。田所 節よ。前の名も今の名も変わらないの。」
座った侭手招きする。
「時宮 律之と紅です。私は名前が3つあるはず……。佐波と律之と皇の名前があった。」
「佐波様は今世は律之になったのね? 紅様は紅の侭なのね。違いがあるのかしら……。」
律之が考えている間に、紅が節の前に座った。直ぐにメニューを見て何を頼もうか悩んでいた。
「紅様は相変わらずね。」
「紅で構いません。今は記憶すら持ってないのです。先生にお会いしたのもこの前が始めてです。」
又メニューに目をやった。
節は逃亡中の茶店での記憶が甦った。真剣にお品書きを見ている紅と姿が共鳴する。
「『律之』は時継が付けてくれた名前だから忘れたくなかった……。大人になると誰も其の名で呼ばれなくなったし近しい者も変わってしまった。私の人生はさもしい物だったよ。」
律之が傷笑気味に笑む。
「でも今の人生は楽しいでしょう? 」
節は律之を紅の隣に座らせた。
「緊急事態宣言の世の中で楽しいも何もないよ。只、提出物をやってゲームしてる毎日だよ。」
節が紅茶をティーカップに注ぐ。
「今は戦争がないわ。それだけでも良しとしましょう。」
節が紅茶を飲むと、紅がメニューをずらした。
「俺、メロンソーダがいい。」
「普通に飲みたい物を頼むのな。不安は何処に消えた? 」
「優しそうな人だけど仲良く成る気はしない。只、先生の彼女と言う立場が気に入らない。会いたいと打診されたから会っただけだもの。やっぱり、気に入らない。」
「初対面で案外紅は言うね。」
「この人はそんな言葉を気にするタイプじゃないよ。そんな気がする。俺はメロンソーダ。」
律之がメニューを見ると、節が店員を呼んだ。注文をすると節が身を乗り出した。
「律之くんは覚えてるのね? 紅くんは全く記憶がないのに性格が変わらないのね? 面白いわ。秋継も優柔不断な所は変わらないわ。」
「先生の話題は辞めて下さい。」
紅が怒った。
「でも伊藤殿の話が無いと会話が成り立たない。紅は覚えてないけど先生と紅の関係者だよ。」
「節さんから先生の話を聞きたくないだけです。」
節が目を丸くする。紅は秋継の記憶が無くても彼に惚れるのだと気が付いた。恋とは儘ならない物だと思った。
「律之くんは何処まで思い出しているの? 私は節の人生を最後まで覚えてるわ。七歳の時に思いだし始めたの。」
「私も七歳位から徐々に……。死ぬ所迄。」
「では何故、紅くんは思い出さないのかしら? 」
紅はメロンソーダを飲んでいる。耳は聞いていた様だ。
「だから先生が秋継だとは知ってる。でも捕まる場面しか見てない。」
節と律之が目を合わせた。
「伊藤君は捕まらないわよ。」
「私も報告は受けてない。倫敦まで逃げるはずだ。」
紅は目を瞬きさせる。
人の生々しい感触。押さえ付けられる痛み。先生と叫ぶ声。振り替えらない秋継の笑み。非現実の物には思えない。
「大勢の男に取り押さえられる夢ばかりだよ。先生が……。」
二人は首を傾げた。
「林くんが最後まで倫敦の船に乗って海外まで着いて行くわよ。渡ってから、戦争になってしまったから安否までは解らないけど逃げ切るのは事実よ。」
「誰に囲まれるのだい? 日本人? 」
「日本人だと思う。だだ、怖い思いしかしない。」
二人は黙した。
「時継さんに聞けば解るかしら……。」
律之が放心状態で聞いた。
「時継を知っているのか?! 」
「ええ彼も呼んでいるわよ。キーワードは『時』。名前に時の字が入ってる人が意思を受け継ぐ。だから貴方達を呼んだわけ。ほら、来たわよ。」
節が指差した。
喫茶店の入り口で店員に話をしている男がいる。
律之の目が見開いた。
彼は、草臥れたスーツを着てバックを片手に走って来た様だった。
タオルハンカチで汗を拭いながらペットボトルの水を飲んだ。
「節さん。遅れてすみません。急な仕事で出てたものでしてね。もう、話しは終わりましたか……。」
座っている律之と紅の方を向いた。
紅に変化がない。律之は立ち上がると男に飛び付いた。
男はバランスを崩す様に律之を抱き止めた。
「時継! 」
悲痛な叫びを律之が発する。
「貴方は佐波様?! 顔を、顔を見せて下さい。」
抱き締めた腕を緩めて律之の顔を押さえた。苦痛を伴った表情が目の前にある。
「ああ。やはり佐波様だ。良かった。御無事で……。痛みは無いですか……。最後は苦しみながら御亡くなりになりましたから……。」
時継の破顔した表情が、律之に向けられる。
「時継は最後まで側に居なかった。最後まで居ると約束したのに……。側から離れないと云ったのに。」
律之が抱き付いて頭を振った。
時継が体を支えながら、微笑んでいる。
「御側に居られる身分ではなかったのですよ。其れは佐波様も御存知の筈です。最後まで居られなくて申し訳ない。初めにした約束だけは守りましたよ。貴方が死んでも、結婚はしなかった。誰とも添い遂げなかったのです。嘘は付いてません。」
律之の腕が緊く絡み付く。誰も空間に入らない様に体重を預けた。
「やっと会えた。もう居ないと、もう探しても無駄だと思って居たのですよ。節さんに佐波様らしき人も居ると聞いて、気が気ではなかった……。」
律之から手を離すと、背広を脱いでカバンを床に置き被せた。クーラーが効いてるので時継の汗が引いて行く。
「28年も探しても見付からなかった。だから、もう駄目だと……。存在しないと只の夢だと思う日もあったのですよ。また、こんなに年齢差があるとも思ってなかった。諦めなくて良かった。」
「時継。」
律之が又抱き付こうとすると、節が咳払いをした。
「嬉しいのは解るけど、話を聞いて貰える? 紅様が置いてきぼりになってる。」
時継が節の椅子に律之の前に座った。二人は手を繋いだ侭座った。
「紅。伊藤 時継。だよ。前の時は明継の兄だった。私の側近をしていたのだよ。覚えてる? 」
紅は下を向いて、頭を振った。
「知らない。」
「紅様は前回で接点はなかったはずよ。私も時継さんと今世で出会ったのは九州の秋継の本家に行った時に、偶々親族の紹介で会ったのよ。秋継とは遠縁の親族になるの。連絡先を交換して、やはり緣があると解ったわ。」
「前世で常継と明継とは兄弟だったのだけれど、今世で親戚になっていてね。記憶が戻りだした。10歳の時に常継さんに聞いたが馬鹿にされるだけだったよ。其の後に今の秋継が産まれた。だから、自分だけだと思っていたのだ。大学生になった秋継が節さんを紹介されてね。直ぐにスパイをやってる女性だと解った。」
「私の場合前世でも今の記憶を持っていたのよ。だから、前世も今世も秋継に会った時は嬉しかったけど……。私の事は知らなかったみたい。だから話さなかったのよ。でも、時継さんに会ってからは、考えが変わったわ。」
「だから先生の彼女になった訳ですか……。」
紅が、メロンソーダを飲み終わって、次のメニューを見ている。
「紅には悪いけど今度は渡さない。」
「まるで、恋人を奪う様な言い草ですね。俺は男ですし、どうにも無理ですからね。先生は自分の意思で節さんと付き合ってるなら仕方ないです。熱病にでも掛かった位で諦めます。」
律之と時継が手を放し次々に言う。
「紅が何を云ってるのだ。伊藤殿には紅しかいないし、紅には伊藤殿しかいない。」
「明継が心底惚れていたのは紅様だけです。思い出すのは、二人の姿だけです。」
「でも、今は既に節さんと付き合ってる。私が入る隙間はありません。私は今度はお邪魔です。だから、先生には距離を置きます。」
「紅はそれで良いの? 」
紅は店員にコーヒーフロートを頼む。
「先生が御決めになった事です。私が口を出す事ではありません。」
三人とも沈黙した。
冷房の音だけが店内に木霊する。
「良かった。紅様に本気出されたらどうしようと思っていたの……。私が好きなのは今の秋継だから別人よ。」
コーヒーフロートを受けとる紅。
「でしょうね。」
紅は、アイスクリームを乱暴に混ぜていた。
律之と時継が心配そうに見つめ合った。




