現代 四 記憶
光が窓から差し込んで来るのに明継の顔は冴えない。重い口を必死に動かして目を詰りながら話しはじめた。
「あのですね……。紅に別れを云いに来ました。」
口に付いた言葉は文章的に見て可笑しな語感があった。
明継が笑うと紅が目を丸くする。聞き逃した様な動作をする紅にハッキリした口調で同じ事を繰り返す。
「御別れを云いに来ました。」
少し遅れて紅が反応する。
「えっ……。」
遠い云い回し過ぎて、紅には明継が云わんとしているのが理解できない。
呆然と明継の事を見ている。紅は意味が分からず反応出来ずにいた。
だが明継の虚無的な瞳が、紅に語り掛けていた。彼は得体の知れない明継の穏やかな空気を感じ取る。
「もう二度と会う事はありませんが……、有り難う御座いました。」
異常なまでの静けさが辺りを包む。
其の途端扉を押し破るケタタマシイ音があり、一斉に人が突入してくる。
開いた瞬間音とは裏腹に、紅の視界だけがゆっくりとコマ落としの様な状態に見えた。本当に数秒ぐらいの出来事なのに、突入は時間経過が手に取る様に分かった。
狭い部屋が人と熱気で埋め尽くされると、上司らしき人が明継の前に現れる。
誰かが叫ぶ。
明継が数人の男に周りを囲まれていた。事態を認識出来ず紅は、脅えた目付きで見た。
明継が落ち着いて頷くと縄を体に巻き付けられ、取り押さえる。
紅の表情がハッキリ苦痛で顔が歪んでいるのが分かる。
「先生。嫌です。」
紅は制止も振り解き力一杯に叫んだ。
大柄な男達が紅を押え付ける様に腕を絡ませた。無理にでも、逃げ様とする紅。
それを裏目に明継は冷淡な態度で男に錠を掛けられた。
明継の腰に細い紐を括り付ける。
終始無言で穏やかだった。
紅は必死に抵抗していたが、案の定、無理で明継に「先生。先生。」と何度も呼びかげたが、反応は返っては来なかった。
視線すら向けてくれない明継に、半べそを掻きながら紅は、何度も何度も人の制止を振り払って、明継の元へと向かおうとした。
「紅。紅! しっかりして!」
掛け布団の中で腕を振り払おうとする。体を押さえ込み口に手を当てられ息を塞がれる紅。
「紅ちゃん。ここが何処か解る? 」
律之の母が覗き込んでいる。ゆっくりと手が外され、長い息をした。
「律之の部屋。」
「名前は言える? 」
「時宮 紅。」
「大丈夫ね。悪い夢を見てパニックになったんだわ。お茶入れてくるから律之に話なさい。」
律之が心配そうに膝を寄せた。紅も座ると、涙が出て来た。悲しい訳でもないのに零れては流れる。
「『先生』って言ってたけど、伊藤殿の事かい? 何か記憶で昔の感じがしなかった? どんな内容か話して……。」
「解らない。只、悲しい。引き離されるのが、凄く嫌だった。確かに伊藤先生に似て居たけど、違う。彼は誰なんだろう? 」
「私は過去と呼んでいる。きっと、産まれる前の記憶が甦っているのだと思う。紅も私の記憶に出てくるんだ。七歳の頃かな……、私は記憶を呼び起されたのは……。佐波と云う名前で生活していて、紅と良く遊んでいた。伊藤殿が登場すると、紅は彼に惹かれて行ったんだよ。」
紅は涙が堪らなくなった。
「この記憶はまだ続くの? こんな嫌な記憶は要らない。苦しいだけだよ。」
「辛い記憶だけじゃない。楽しい記憶もあるよ。だから大丈夫だよ。」
律之の母がお茶を三杯持ってきた。冷めたい麦茶を差し出す。
「律之も小学校の頃、悪夢に悩まされてね。毎日抱いて寝ていた時期があるの。だから、紅ちゃんと似てるのよ。だから気にしないで、ゆっくり寝なさい。」
「おばちゃん。有り難う。」
ゆっくりと飲む麦茶は旨かった。
「発作みたいになってた時期もあったのだけれど、話を聞いてると落ち着いてくれたわ。だから今は話して、話して落ち着いて。」
「多分話の内容がクロスしたりするからさ。安心して話してくれよ。看護師は伊達じゃないぜ。」
律之が母を指差した。
「過去は何処まであるの? 」
「死ぬまである。だから、辛いけどゆっくり思い出せばいいよ。」
「律之の場合は時継の話ばかりだったかしらね? 悪夢になる時は……。」
母が笑いながら律之を見た。
「後悔してるのだよ。過去では……。だから、嬉しい思いでと、辛い思いでとごっちゃになってる。どうせ、家に泊まり続けるのだから、ゆっくり思い出せ。」
三人は、ゆっくりと麦茶を飲んだ。




