過去 二 思い出2
紅との出会いがあり、数日が過ぎて仕事場にいた。
「伊藤殿、此方に……。」
御役御免の正式な通達がある前に早々と宮廷での私財を纏めていた明継に、見慣れない男が訪ねて来た。口振りや着物から危害はなさそうだと判断し部屋に招きいれると其の男は、梅ノ枝を差し出した。
意味が分からず、呆けている明継。
「あの……。此れは……。」
明継は梅ノ花を不思議そうに見詰めた。
変に紅隆御時宮の顔が過ぎった。
「もしかして……。紅……。あの人の使いですか……。」
「御主人様がお呼びですので、どうぞ此方に。」
男は答える事なく、手招きし中に招いてから、部屋を後にした。明継も怪しさはあったが、其の男の通りにした。
何時も出勤している場所を抜けて厳重に警備されているらしい見知らぬ所を突き進んだ。
其の男が会釈をすると、警備の者も何も云わず道を開けた。明継は肩を窄めて歩く。
全く違う風景に驚きを隠せなかった。
天井は高く、白い壁に絵画が懸かり歩く所には高級な布が敷き詰められている。明らかに貴族が出て来そうな面持ちの部屋部屋を眺めた。
廊下は永遠と続いていて、今まで歩いて来た所が小さな点のよう感じた。
海外から取り入れた高価な電燈と重厚な扉がある。調度品も海外の一流品が勢揃いである。
明継が歩んでいた所がどれだけ身分の違いがあるのか痛いほど分かった。
男は急に立ち止まると目前に厳重なドアがあった。
「御連れしました。」
其の男の言葉と同時にドアを開けて中に入った。
廊下から想像した部屋は西洋風な外装だと思い込んでいたが、期待も虚しく純日本的な装いであった。畳や障子がドアに不釣り合いである。
「何をしている。早く此方に来い。」
声の主を見詰めるとやはり紅であった。居間らしき所に端座している。
明継は洋服と畳の不釣り合いさを実感した。初めて出会った時も紅は、サスペンダーの付いた吊りズボンを履いていた。二度目に合った時も同じ装いである。
「此れは、此れは……。」
嫌味っぽく明継は頭を下げた。
其して、紅に近づいて畳の上に胡座を掻く。
紅は直ぐに案内して来た男を退室させた。
手慣れた風に茶を入れていた。
どうやら接客するつもりがあるらしい。だが違和感があった。
「此処には、貴方以外誰も居ないのですか……。」
明継は率直に尋ねる。紅は眉一つ変えず。
「此処の者は、世話を焼きたがる。」
疎ましそうな口調から、知らない者に身の回りの事をされるのが事の他、嫌なのが分かった。
部屋を見回すと整頓されている。どうやら紅が己だけで行なったらしい。
此の時代の御偉いさんは通常金を払って、人を雇い全て家の事は任せるのが常である。良い身分であって、異彩を放つ此の少年に興味が湧いた明継。
「では、私を呼びになった御用件は。」
明継は本題に入りたかった。
明継の対応を見て紅は鼻で笑う。何故ならば、目上の上司には率直に聞かず、遠回しに用件を覗うのが、此の時代の決まり如であったのに明継は無視したからである。
「何か……。紅隆御時宮殿。」
明継は紅が自分を小馬鹿にしていると勘違いをした。口調に棘がある明継。
「否。」
紅は笑みを食い殺すように、肩を震わせていた。
どうやら明継の反応が面白くて仕方ないらしい。暫く、其の侭の状態が続く。意味が分からず明継は一人で笑っている紅の言葉を待った。
「明継殿を呼んだのは、貴行の任に付いてである。」
「通訳の事ですか……。確か英国人家庭教師を呼び出来なくなった故に私は解雇なのでしょう。此れと云って重要な仕事はしておりませんし……。仕方ないですよ。」
紅の思ってもみない言葉に、要らない事まで明継は話してしまい後悔する。
「では、明継殿は職を失っても良いと……。」
「日本での職を失っても、倫敦に残した物は沢山ありますし……。」
「では、倫敦に残した物とは、何だ。」
そう云って紅は、明継に付いて色々と質問したのだった。事の他、倫敦の話に興味を持ち、明継が答えられない事も疑問に持った。
紅との取り止めもない会話には、裕福には見えても自分を尊重の的にする自由のない幼少期を過した紅が見え隠れした。
此の時の紅の年齢は十歳にも関わらず、大人びた口調と人を押し黙らせる威圧感は、十分に上の人間の血を感じさせた。
其の上、命令や指図をする事に慣れてしまい宮廷の同年代の子供達と打ち解ける事も出来ず、一人で居過ぎた為甘え方を忘れた子供の姿も見えた。
紅と親しくなってから聞いた話によれば、自分で身の回りの事をするのは、長年の伝統に対する反発であると紅の口から聞いたからでもある。
其れ故に、紅が変人と噂されて家名に傷が付く事を恐れた者が完全に独立した小高い丘の梅ノ木の後ろにある別邸に、紅を住まわせたのである。
『御前の様な下々の者に怪我されるのは不快だ。』と言葉を吐いたのは、又自分を偵察に来たのだろうと思ったからだそうだ。
どんなに独立しようと考えても、紅は自分の居場所を探し倦んでいる様だった。
「そなたは家庭教師をする気はないか。」
「は……い……。」
「英国人家庭教師は駄目になったが、又新しい外国の者が来る。ならば、英語を覚えていても損はない。」
紅の表情から云って、明継を気に入ったらしくどうやら此の侭、倫敦に帰すのを辞めさせ様としているらしい。
だが、明継は乗り気ではなかった。専攻は文学でも教職はズブのど素人。確かに生きて行く為に、英語は話せるし、学ぶ為に書けるが、其れを教えるとなると話は別である。
「例えば……ですよ。英語を教えるとしたら誰にですか。」
シドロモドロして明継が云う。
「私に決っておろう。」
シャンとして紅は言い放つ。
「はぁ……、あの。では貴方は……。」
明継は貴方は何者ですか……と聞こうとしたが、流石に口には出せなかった。
此の目の前にいる紅隆御時宮たる少年。
謎が多すぎると首を捻った。
「私に教えるのは不服か。」
「否。そう云う訳では……。」
明継は口を濁した。しかし、皇院の別邸に住んでいるとは、此の紅が皇院の血脈であるのは云うまでもない。帝王学や物理学まで習っていると云う紅は、何者なのだろう。
「では、何だ。」
「其の御話をお請けしますと……、私の主は紅隆御時宮様でありますよね。では、御無礼を承知で申します。紅様はどのような身分の御方ですか。」
不意の言葉に驚き憤慨する紅。だが、日本については余り詳しくない明継の真剣な眼差しに、無知なので仕方ないと諦めた様だった。
此れから、明継が身分高い紅に無礼な事を云っても、受け流される由縁となった。
「倫敦に長いと、日本の風趣も忘れるのか…。」
溜息を吐いて独り言を呟く紅には、明継に対する同情の色が見えた。
「私は次代の第一皇の皇院であり、後々には此の国を動かす人物になる。其れ故に、私は華族と同じ教育を受け、日夜第一皇の御子息と共にある。」
良く分からない侭、明継は呆然と紅を見ていた。
愚かしくもあり可哀想に紅を思った。
自分の幼少期時代を重ね合わせてしまっていた明継。
外見上は裕福な家庭であった為、助けは誰もいないと云う点でも明継と紅は同じであった。だが、大きな違いは明継には母がいたが、紅には誰もいないのである。
其れが余計不憫にさせた。
権力と云う物を凄い物としか認識出来ず、大人の中で路頭に迷っている幼い少年に紅が見えた。
「では、第一皇は友達ですか。他には、頼れる者はいますか。」
紅は質問の意味を正確に理解していない様子であった。
「皇子は友達ではない。そんな物ではない。」
返答が明継の心を決めた。
其の後はトントン拍子で、紅の教師になり、充実した毎日を送った。
彼の教育の中で一番厄介だったのは、思否りの精紳に乏しかった事である。其れを分からせる為、対等に物を見る事を学ばせた。
始めにしたのは自分は教える側であり、先生と呼ぶ事を義務づけた。当初、紅は難色を見せたが、幼い分順応性も高く直すのはそんなに困難ではなかった。
後は、話し方を尊敬語に直す事が苦労を伴った。元来自分が上だと思っている物を変えさせるのだから一悶着があるのは当たり前である。
自分以上の存在を知らない彼にとって、全ての人間は下の身分でしかない。唯一の尊意に値する皇は紅を下々として扱い信頼関係ではない。
其れが余計厄介にさえた。紅の人間関係は下か上しかいないのだ。
信頼と云う物が存在しない環境に育った紅に、其れを証明するのは苦労以外ない。大人の中で大人を牛耳り人の賞賛しか受けた事のない紅が次期皇院にならなければならない。
目線が一緒になれば優しい感情も芽生えるだろうと思った明継は必死になった。
成果があってか明継にだけは、尊敬の念が芽生えたらしく、話し方も普通になり心の内まで話すようになった。
其の反面、下々と同じように振る舞うのを疎ましく思っていた家臣達は明継を目の敵にした。
命を狙われると云う怪文書まで受け取ったほどである。しかし、明継の意志は固く紅を自分の思い描く方へと進ませた。
明継の前では言葉上で丁寧な言葉づかいになったが、他の者との面会や外部の前では明継に出会う以前の紅に戻っていた。
彼は自分の立場を良く分かっていて、自分を使い分けていたのだ。
結果的に紅の使い分けの効果により、明継を目の敵にしていた者は、明継殿の教えにより益々威厳を保たれると評価するほどの変貌ぶりだった。故に、明継を下手に噂する者もいなくなった。
明継の評価を上げさせたのは、紅の語学力の急上昇ぶりも上げられる。彼は思いの他、優等生で日常的な会話だけではなく、明継が持って来る英文学の本を読み出すほどであった。
此の時代どんなに文章が書けても、発音で躓く日本人は多く生きた英語を習う者は少なかったのだが、明継がする発音の癖も真似るほどである。
紅により人望を広めたと云っても明継の場合、相手は知っていても日に一回紅と話をする為に紅の別邸に行き来する事ぐらいで、他の客人と顔を合わせる事はなかったのだ。
一日の大半を紅の為に、費やす日々が続いた。紅も先生と明継を慕うようになった。
紅との間に愛着に近い物が芽生え出した時には、宮廷で明継の仕事が増える事になる。
紅だけでなく、他の貴族の子供達に勉強を教える事になったのだ。
皇院の紅以外の男子や第一皇の第四子、第三子、第二子、紅が皇と云う第一子に合う事はなかった。
始めは下のまだ、少年と云うよりも子供である第四子や第二、三子は然程問題もなく打ち解け勉強とは名ばかりのゲームなどで茶を濁しているだけであった。
他の仕事が忙しくなるに連れ、紅の態度が激変した。
久しぶりに来た明継を部屋に入れなかったり、機嫌が悪いと云って寝床から出てこなかったりした。
其れでも、明継は諦めず、何故そんな行動をするのか、毎日のよう聞きに行っていた。