過去 二十九 次兄の報告書
佐波は、朝飯の前で毎日散歩をする。
梅ノ木がある同じルートの敷地を歩くのである。
廊下に出ると磨りガラスの小窓を開いた。必ず此の窓は開けるのが、日課だ。
外側からシルエットが見えるが、顔までは判断出来ない。
「佐波様。」
聞き慣れた男の声がする。此所で待ちぶせる人間は、一人しかいない。
「伊藤常継殿、如何された。」
小窓から書類が投げられた。佐波は其れを掴むと、目を通す。
「計画通りか……。なら良い。続けよ。」
硝子の姿から、跪いているのが解る。
「林を同行させます。紅隆様の警護には適任かと思わます。」
「構わん。田所の様子はどうだ……。」
「やはり二人には、警戒はされていません。引き剥がしますか……。」
佐波は書類を着物の袂に入れる。
「慶吾隊員を、全て回収してある。彼らが目的地に着くまで、護衛せよ。二人なら間者にも対応できる。」
「御意。」
常継が頭を下げたまま声を発した。
佐波は襟から文を出した。
「護衛にもう一人増やす事、お許しを……。」
「適任がいるのか……。」
佐波が驚いている。
此の三年紅には修一しか付けていないからだ。
「はい。一番の適任かと……。」
「ならば、田所を回収し、元ある任務に付かせよ。」
「御意。」
佐波が小窓から、文を投げ入れた。
「林に文を持たせよ。紅に渡せ。」
佐波が少し崩れた着物を直す。影が空中で文を受け取り、かくしに仕舞う。
「御意見を承り申します。佐波様も、成人の儀を早めたのは、皇の御考えでしょうか……。」
佐波は沈黙する。
長い溜息の後で口を開いた。
「皇の名で、正式に発表される。理由は如何程でも付けられる。嘆かわしい。」
佐波が奥歯に力を入れた。
常継も肩に力が入った様に見える。
「皇はお前にすら話さないのか……。父皇の信頼を取り戻せ。此の件で田所の顔が面に出てしまった。残った慶吾隊員は、信頼に価するか……。」
「はい。問題はありません。諜者の処分は如何いたしますか……。」
常継は回答を解っている。尋ねなくても、同じだ。結果は同じだろう。
「皇に使える者ではない。処分せよ。」
「御意。」
佐波が足を滑らせる。
散歩に出掛ける様だった。何時もの時間よりも、少し遅れて歩き出す。
影は微動だにしない。
佐波の姿が見えなくなって、始めて息を漏らした。
常継は、明継を尊敬する。十四歳の目上に緊張もなく、話せる人物は彼しかいない。其の上、紅隆までの信頼を勝ち得ている。
「慶吾隊員になれば良いのに……。」
呟きながら立ち上がり、空を見た。
彼にはやらなくてはいけない事がある。足早に場所を変えた。
「修一に文を渡すのが先だな。もう少しで、電車に間に合わなくなる。その後は……。」
頭の中で仕事量を計算する。まだ、空は登ったばかりだ。
太陽は一番高い所にいる。
常継は事務処理以外を終わらせて、明継の家へ向かった。
諜報で知っていたが良い家である。
階段を上がり、明継の部屋の前に来た。扉をノックする。
声は帰って来ない。
もう一度ノックする。
「常継です。母さん、大丈夫ですから、開けて下さい。」
重い扉が開かれた。
「常継、久しぶりね。」
母の顔を見ると、常継は抱き締めた。
「兄弟揃えて、まだ子供ね。」
言葉とは裏腹に嬉しそうだった。
「お茶でも飲むでしょう。」
我が家の様に母が、明継の家に招く。
常継も始めて入る、空間に興味があった。
想像よりも広く蓄音機まである。其れを物珍しそうに触った。
「いい家ではないか……。」
調度品は華美でもなく実用的で、明継が輸入してまで持ってきたお気に入りの品ばかりだった。日本で買いそろえた物もある。
「常継。お茶を飲みなさい。」
机に出されたお茶を立った侭飲む。
「行儀義悪いですよ。明継の椅子にでも、座りなさい。」
母も椅子に座り、お茶を飲んでいる。割烹着姿である。
「料理でもしていたのですか……。人の家で……。」
「失礼な、家主から許可は得ています。」
家主と云う言葉に、明継が思い出される。
「紅ちゃんが、キッチンの使い方も、食材の事も教えてくれたのですよ。明継が料理でもする人間に見えますか。家の事は紅ちゃんがやってたのよ。」
「紅隆様が……。」
常継が目に手を置いた。
「流石に、身分の高い人にやらせるか……。」
「紅ちゃんは進んで、明継の世話をしていたわよ。嫌々ではないわね。洋服や着物を見れば解るわ。きちんとしていたわよ。」
常継が、大きな溜息を吐いた。お茶を一気に煽る。
「常継が迎えにきたのだから、早く料理をすませるわ。待っていて。」
また母がキッチンに向かう。鍋が湯気で揺れている。
「お茶位自分でも入れなさい。手が離せないのよ。」
母の声が聞こえる。
明継と紅が過ごした三年間の部屋。
(彼らは本当に幸せだったのかも、しれない……。)と常継が思った。
母が荷物を持って、部屋の黒い鍵を閉めた。
「家族で食べなさい。」と風呂敷包みと食材が渡される。
階段をゆっくり歩いて、通りに出た。
大通りで人力車を拾う。
二人で腰かける。常継の風呂敷が暖かい侭、膝に乗せた。母が荷物を膝に乗せる。
「私はまだ天都を見てないのだけど……。」
「仕方ありません。母さんにはまた、九州に戻って貰います。」
母が不満を話す。
何処に行ってない。あれを食べてない。其れを見ていない。
全て物見遊山出来てない。
「二度とないかもしれないのに……。」
「父上の許可が、又出ますよ。母さんは、何処まで話を聞いていますか……。」
車輪が、跳ねる。
問題が問題だけに返答に困っている母の表情が伺えた。
「何も知らないわ。御父様からは聞いていません。」
何を云い出すのかと目を白黒させた常継。
「しかし、危ないのでは……。あの父上が私の文だけで、母さんを上京させるとは思いません。」
時代は男ですら野党や追いはぎが襲う。
女物の上質な着物を纏っているだけで危険である。
宮廷の周りは警護員が配置されているので、庶民の住居に比べて、安全であるがだ……。
「一人で悩んでいる人は、知りません……。」
(質問の答えになっていない……。)と言葉が、喉の奥で出掛かった時に、母はシレッとした顔で云った。
「紅ちゃんは、紅ちゃんよ。もう、身分制度も無くなったのですから、可愛い御友達です。明継にはもったいない程の友達だわ。あの身のこなしを見れば、解ります。」
常継が手で顔を覆う。
「父上からは何も聞いてないのですよね。」
母は素知らぬ顔をした。
「ええ。」
駅に人力車が停る。
常継が荷物を持ち、母に手を差しのべる。
優雅に下りて荷物を受け取ると微笑んだ。
「時継にも、連絡を寄越しなさいと伝えてくれるかしら……。明継よりも違う意味で、あの子の方が心配なのだから……。」
伊藤家の三男の伊藤 時継の事である。
「伝えはする……。」
「常継のお嫁さんにも宜しく云っておいて、顔位は出したかったわ。残念ね。」
母が駅に向かう。
常継は、荷物を両手に持ち従う。
「九州に連れて行って欲しいのが、居るのだけれど……。」
モダンな駅舎の外に男が立っている。
常継は紹介する様に、彼を手招きした。




