過去 一
第一章
窓の外には、文明開化の象徴の二十三階が見える。
其の美しい風貌とは裏腹に今にも泣き出さんばかりの空が、心を憂鬱にした。
気持ちを晴らす為視線を下に降ろす。多くの人々の心は浮き足立っている空気で大地を這っているのだった。
洋風の外観を持つ煉瓦造りの街並みにモダンな瓦斯灯が夜でもないのに薄暗くなった鉄道馬車などを照らしていた。
早足で立ち去って行く人の群れを、只考える事のなく見詰めていた。
「何か、珍しい物でも……。」
明継の声に返事をせず硝子窓に張付く様に近づいていた為、外気の冷たさが伝わって腕の皮膚を擦る。
声を掛けた男を確認して紅は、真後ろにある椅子に腰を下ろし読み欠けの小説を膝に乗せた。そうして、重たく口を開いた。
「否。何時もの通りです。」
近頃出来た家の上を行き交う電気を運ぶ電線が、とても醜く見えて、でも其れを口に出すのは憚られた。
「先生。何時もよりお早いのですね。」
紅は手の上で遊ばせた枝折をもう一度本に挟んだ。
「ええ……。」
言葉少なに黒のフロックコートと山高帽を上着掛けに掛け、黒光りしたドアの横の蓄音機を弄っている。
心地よく流行歌が流れて来た。明継は歩みを進める。白のワイシャツが凛々しい。
紳士的に紅の正面にある肘掛け座椅子に深々と座った。
「では、今日何をしていたのですか。」
何時もの日課の話題を振った。
キッチリと首周りを締め付けていたネクタイを、脱ぎ捨てて背凭れに引っ掛けた。
「其れでは、皺が寄りますよ。先生。えもん掛けに掛けて置きますから……。」
紅は何時も、すみませんと面目なさそうに会釈する男からネクタイを受け取り、何時もの場所にしまいにいった。
先生。身の回りの事を手伝ってくれる下女でも、お雇いになったらどうですか……。其の言葉は声に成らなかった。
蓄音機の音の所為か、先生と呼ばれた明継が居る部屋と、紅が居る部屋が違えているように覗き込んだ。
窓の前の定位置の席に戻ると紅は、伏せてあった椅子の上の本を拾いあげ再び腰を落ち着けた。
紅の帰りを待っていたかの様に目を瞑って、胸元で手を組んでいた明継が、溜息を吐いてから目を開ける。
「話を戻しますが……。今日は何をしていたのですか。」
明継は日本人に似つかわしくない腫持のない白肌が育ちの良さを物語っていた。
キリリと持ち上がった凛々しい眉や、長い睫は西洋人と退けを取らない。
其の上背丈も高く、指の長さは極めて美しい。優美な振る舞いと二十六歳と云う中途半端な年齢、故の大雑把な性格が愛敬になっていた。
「そうですね……。木蓮の花が咲き乱れているのを見ました。もう春なのだなと実感しました。」
紅は明継の言葉の問に、今日一番印象が残った事を話した。明継に伝えようと思って今まで忘れまいとしていたのに、今思い付いたように勿体ぶって云った。
「専攻が自然ではないので良く分からないが……。何処の窓から見かけたのです。」
この二人のいる部屋は大通りに面しているので等身大の窓が三つほどある。日当たりも良く居間として利用している。
紅はとてもこの部屋がお気に入りで、明継の書斎から本を数冊持ち出して貰っては、読み耽っているのが日課だった。
「左横の小さな硝子窓から……。御隣の庭先に咲いていました。今日は薄暗かったので、其の白さを一層引き立てていました。でも眺めていると……。」
紅は其れ以上言葉を発しなかった。吊りズボンの肩紐を憂鬱そうに触る紅。
「日本建築といっても此処ら一帯は西洋風になっていますし……。大通りを挟んでいる分、住宅が密集している為、自然が見え難い。隙間に咲いた花々では味気ないでしょう……。」
紅は味気ないの言葉に首を横に振った。
「否。此処からは人力車や人の往来が激しいので、露台に出なくても人の表情が見えます。花は『美しい』で終ってしまいますが、人を見ていると飽きません。其れに、先生の本や音楽を聞いて楽しい事もたくさんあります。」
一生懸命に紅は明継に伝え様としていた。しかし、明継は憂かない顔で紅を見詰めていた。
紅は大きな瞳を一層見開き、先生を不快にさせてはいけないと必死になって食い下がった。
だが、明継には余計、其の違和感のある動きが心苦しくさせた。
「先生の語る御話もとても楽しいです。先生と要る時間の全てが勉強になります。」
「しかし、其れでは……。」
苦味を持った笑みを作る明継。
「先生は良く昔、おっしゃりましたよね。此処では君も自由だと……。」
「えぇ……。」
煉瓦造りの洋風建築は事の他、気まずくなると声を反響させた。
「其れに私は、此処に居とう御座います。」
紅は、強い口調で云って退けた。
余りの真剣さに可笑しくなった明継。
溜息を吐く様に微笑する。小馬鹿にした訳ではなく紅に対する愛おしさが溢れた。
「少し、暗い……。ランプでも付けますか……。」
明継の雰囲気が元に戻って、紅は肩を撫で下ろした。
丁度二人の間にある机上の瓦斯洋灯に手を伸ばす。背広のかくしから燐寸を取り出し、瓦斯の付いた布に引火する。藍碧の炎が暖かく灯った。
「帰りの途中に葛餅を売っていたので買いました。どうです。」
紅が頷くと、燐寸を出した背広から土産袋が登場した。
食べ物をそんな所から出すのかと驚いたが、口に出す気も起きない紅。
明継がランプの横に置くと、頑丈に包れた袋から背広はまだ綺麗であると分かった。どこも紙に汁が染み出した形跡もない。
「昔、母が良く作ってくれました……。」
言葉を発しながら包みの紐を解く。取り外して皿には取り分けず、見かねた紅が小皿と箸を持って来た。
明継は手渡された小皿に葛餅を取り分けると、黒蜜ときな粉を塗して紅に戻した。
二人はただ黙々と箸を進めた。気まずかった為か、美味しかったが食は進まなかった。
「先生の御国は、確か九州でしたか。」
この感覚を打破しようと紅は策を振り絞ったが、考え付くのは下手な会話文句でしかなかった。紅の気遣いを察してか、明継は笑みを発した。
「そうだね。紅に余り自分の話はしていなかったね。」
体格の良い明継には、肘掛けが肉体の一部に当たり窮屈そうに伸びをした。紅を気遣っての事だった。
「確か、先生は士族上がりの伯爵の四男でしたよね。」
「あぁ。母は私の事をとても可愛がってね……。」
しみじみと望郷の念に浸る明継。
母や故郷の自然は昨日の事の様に思い出せる。だが、父親の顔だけが、鉛筆で塗り潰されているかのように、記憶の中に埋もれていた。
其れを、紅に伝えるべくもなく平然とした。
「歳の離れた兄達とは遊ばず、よく下働きの子供や侍女とかと遊んだよ。木登りや川遊びで一日クタクタだった……。」
故郷の大自然が素晴らしく輝いたが、其の反面、家庭は、堅物な一回りも離れた兄達と、どうやって仲良くなれると云うのだろう。
どうやって恥じかきっ子と蔑んだ奴等と……明継の脳裏に過ぎって打ち消した。
「倫敦に留学したのですよね。」
明継は帝学にも行かず、離別状態で家を飛び出した。
「えぇ。九州は幼少期しか過していなかったけれど、山も空も素晴らしかった。懐かしき日本でしたね。」
静かな瞳を紅に向けた。
「この天都では、見かけなくなった風景ですか。」
素朴な疑問を云っただけなのに、明継の表情は硬くなった。
「天都の周りは西洋風の街並みですが、人力車で少し天都を離れれば、舗装された道すらない。都心だけが西洋被れを、起しているのですよ。」
「すみません。」
自分の無知さを恥じる紅。
世間知らずな彼に罪悪感を持たせまいとして、明継は大人の威厳を保って優しく慰めた。
明継の微量の感情を、紅が敏感に感じたような気がした。
「謝る事はない。紅は本や話の知識が豊富だが、経験が伴っていないだけ……。君は若い。これから色々な事を見て聞いて触れて実感して行けるよ。」
今度は紅が口を噤んでしまい。今までとは逆の立場になってしまった。しかし、明継はそんな空気を気にも止めず小皿をテーブルに置いた。
今頃、時として気まずい空気に陥り易かった。だが、其れの原因が何故なのか二人とも理解していた。
十四歳の紅が其の小さな胸を痛めている原因を、明継なりに認識していたが打開策は見当たらず、無理にでも沈黙を辞めようとしても結果が同じ為半分諦めていたのだ。
問題は事の他大きい。
「其れは、此処を出て行けと云う事ですか。」
細い声で震わせながら明継に云った紅。
「いいえ。其んな事は……。」
思ってもいなかった言葉にシドロモドロしていた明継。本人にとって紅の方が、精神的に自立して行くものだと思っていたのだった。いつか出て行く日が来ると思っていた。
「誰も出て行けとは云えません、………其うだ。良い機会だからこれを渡しておきます。」
紅の目の前から立ち上がり、書斎から何かを持って来た。
明継の行動を只、見詰めた紅。
洋灯の灯かりしか、部屋を照らし出す物がなかった為、紅一人が気分的に残された状態になった。
「あの……。先生。」
心細くなる紅に、明継が暗闇の中から顔を出した。ユックリと登場すると其の表情は優しかった。
「私は長い事、倫敦で生活していましたから、文化の違いで良く分かりませんが……、男は一般的に十八歳になると大人として自覚を持つそうです。」
言葉と同時に明継から手渡されたのは鍵だった。
意味が分からず瞬きをしている紅に、話を続けた。
「紅も十四歳になったのだから、自由に行動をして下さいね。」
明継は、笑みを称えた侭、紅の手の上を見詰めた。
洋館に似つかわしい面持ちの鍵で、幼い紅の掌には少し大きい。
「でも……。先生。其れでは、私が此処にいるのが分かってしまいます。」
「えぇ。其れも良いかもしれない。」
「先生……。」
「私の我侭の為に君の人生を、此の侭にしておくわけにもいかないよ。」
明継は表情を変える事なく、紅を見詰めている。
其の裏腹に、紅の今にも泣きそうに鍵を握っている腕が少し震えている。しかし、明継は其れ以上、話を続ける気配はなく、椅子の上で目を瞑った。
大きく息を吸い込むと、思いは昔へと溯って行った。