過去 十五 下女の噂話
紅を連れ出して同居し初めた頃、明継の書斎が部屋であり、窓も雨戸を閉めた部屋で生活をしていた。
神経質に紅を、監視していたのだ。彼の生活は、徹底した隔離を実行されていたのである。
明継の尋常な精神ではなかった事は、確かだ。
やはり、一週間後、教育と精神衛生上問題だとし、今の和室を紅に使わせた。
家の中なら自由に利用を認た。
書斎を嫌う理由が此処にあった。
今は、大分落ち着いて、明継が書斎に居れば、紅も安心して、其の場に居るようになった。
しかし、節の存在が、昔の明継を呼び起こした。
異常なまでの紅への執着が、出て来てしまう。今までの日々で、紅の自由や元の生活と悩んでいた男とは思えないほどである。
何時ものように宮廷に向かった。成人の儀の前に大抵の事を済まそうとしていた。
「重いなこれ……。」
大きな竹で編んだ箱に荷物を入れた。其れは、一人で運ぶのは困難であった。
明継が居る所は、宮廷の仕事部屋である。
紅の家庭教師が決ってから、個室を与えられて、彼に会いに行く時以外は殆どを此処で翻訳の仕事をして、過ごした。
壁の染みも、小さな窓も心に残る。
三年間と云う長くもない時間だったが哀愁が込み上げて来る。
「誰か呼んで来るか……。」
此の侭、荷物といても意味のない事なので、運ぶ為の人手を探しに部屋を後にする明継。
部屋を出ると忙しく、人々が動き回っているかと思いきや、辺りは静か其の物。人の気配すらしない。
下女や力仕事専門の男すら居ない。
異様な雰囲気の中、明継は歩いて人を探したが、誰一人として居ず。
佐波の成人の儀式が催されるために、人手を駆り出されたのかもしれないと思い戻ろうとした時に、大広間の廊下から人の声がする。
辛うじて聞こえるか聞こえないかだったが、人の居る安堵感からか、明継は近づいた。
柱に側に寄り添うと丁度其の人影からは、見えない位置で足を止めた。
意識的に隠れたのではない。ただ、蟲の知らせがあったのだろう。
「佐波様の成人の儀式が催されるから、朝から大変よね。」
女の声であった。しかし、言葉づかいからして、下女である事は分かった。
「えぇ。まだ、十四でしょう。どうしてそんな急に……。」
「噂では、皇院の御時宮様が、関係しているらしいわよ。」
御時宮とは、紅の別称である。
「でも、三年も居ないのよ。関係しているわけないわ。」
「皇院家としては、探しても何の利益もなさそうだけど……。御時宮ようだけ話は別よ。」
「あぁ……。其うよね。佐波様も御気の毒にね。」
女達は、口を噤んだ。
明継は出るタイミングが遅れて、出るに出られなくなった。
「でね……。失踪なされたのは伊藤様が、関係しているらしいわよ。噂では伊藤様が誘拐したって……。」
「えぇ……。でも、どうして。」
女達の色めきたった言葉が広まった。
(其処まで諜報が流れているのだと……。)
節は確かな場所から、諜報を仕入れていると言った。其所は、分からないが、真実に近いものを持っているのだろう。
「そんなの知らないわよ。でも確かな、諜報よ。噂じゃないもの。私の耳できいたもの。」
女の話が飛び交う中、明継は顔面蒼白の侭立ち竦んだ。
驚きのあまり眼球が零れ落ちそうな程、瞳を大きく見開いていた。
女の一人は、前に佐波の下女として遣えていた者だ。
今迄の明継達の近辺の異様な人物の出現、佐波の異例の行事、新聞記者・節の行動。全ては、失態を暴くためだと節は云っていたが、下女達の会話から、紅が台風の目になりかねない人物である事は云うまでもない。
紅を調べれば、一本の糸で繋がっていると感じられる発言。
しかし、明継は、紅が確かに政治的背景のある皇院で或る事に変りはないが、そんなに秘密はありそうにはなかったのだが。
慌てて紅の元に帰ろうとして、足が絡まり地べたに座り込んだ。
流石に女達も気が付いた。
気まずい雰囲気で視線を下にした。逃げる訳にもいかず、腹を括る明継。
「今の話は何ですか……。」
下働きの女はお互いに顔を見合わせると、口を真一文字に結んで黙っていた。
どうやら噂をしていた罪悪感からではなく、誰かに口止めされているようだった。
「ハッキリ云えば、皇の権威を低める様な噂をするべきではないね……。」
嫌みったらしく不快を露にする明継。
其れが逆効果なのは理解していたが、上手く取り繕うだけの精神状態ではなかった。
キリキリと胃壁が痛み出す。
「今後二度と口にしないように……。」
二人を小馬鹿にした表情だけが冷たい明継。
侮辱されたと怒る女達を尻目に、背筋を伸ばして退場した。
其の場を去ったのも束の間通り過ぎる者達が、明継の顔を見るや否や、ぼそぼそと何かを呟いていた。
どうやら、噂は広まっているらしい。明継は平常心を装った。其れが精一杯の悪あがきである。
仕事部屋に着くと、明継は腰を抜かした。
数分間は其の侭の恰好で過したが、足を踏ん張って立ち上がり、逃げ場がないと判断して紅の元に今すぐ帰る事を望んだ。
ガタガタと肩が震えた。
明継は見えない不安と想像が現実になって行く恐怖で打ちのめされていた。歩いて帰るだけの足取りではなく立っているだけでも精一杯だった。
扉をコッコッと叩く音がする。




