時折 十八 春
膜に戻ると、春が慌てて走り出した。
晴が紅との別れを惜しむ暇すら与えてくれない。
「ごめん。晴!私は先に帰るわ!」
目の前の膜が、青白く光っている。
晴が膜を見ると、少女の部屋がうっすら見える。女性的ではない部屋は、端的に纏められ整理されている。
「パパが部屋に入ってきちゃう!じゃあね。晴!もう会えないけど、あんたは元気でやってるでしょ?私もそう。元気でいるわ。紅くんだけは譲らないけどね!」
春が膜を切り裂くと飛び降りて、自分の体のあるベットに降りると、セーラー服の姿が消えていた。
春が開けた切り筋は自然と消えて行った。
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ゆっくりと春の瞳が開く。
上半身を上げると、腕時計の時間を確認する。
布団の上にあるセーラー服を掴み、パジャマを脱ぎ畳むと、枕元にある手帳とジッポとペーパーナイフを机の引き出しに仕舞い、手帳だけ学生鞄に入れた。
黒い靴下を履き、セーラー服のタイを結わく。
髪の毛をとかし、下の方から男の声が聞こえる。
「春~。起きてるか?」
「今行く~。」
鞄を掴み下の階へと向かう。
春が後ろに振り返り、笑顔で手を振った。晴に最後のお別れをしたのだった。
洗面台に行き、歯を磨き、顔を洗う。前髪が跳ねているのを直してから、父親の元へ向かった。
ダイニングテーブルに朝食を出し、エプロンをほどいている秋継が居た。焦げている目玉焼きを苦々しく見ている。
春がテーブルの上の弁当包みを、鞄に仕舞う。
「ママに、挨拶をして来なさい……。」
秋継は椅子に腰かけると、厚切りのトーストを食べ始めた。
「解ってる。私より朝出勤が早いのに大丈夫?」
「今、急いでる。燃えるごみと鍵だけ頼む。」
秋継が時計を確認しながら、慌てている。
春は和室に移動し、仏間にある仏壇の前に背筋を伸ばして座った。
「おはよう。ママ。昨日なは、晴に会ったのよ。今の晴くんよりも負けん気が強かったわ。」
線香に灯をともし、おりんを鳴らす。
幾ばくの時間、拝んでいる。
「今度の土日は、四十九日だから親戚が来るぞ。合わせて納骨もするから忙しくなるぞ。」
台の上に、骨壷と遺影が置かれている。
「きっと、あの廊下に行けるのは、もう終わりね。ママが導いてくれたのでしょ?紅時さんや紅隆や晴に出会わせてくれた。有り難う。もう、ゆっくり休んでね。」
春が立ち上がると、ダイニングから食器を流しに出す秋継の姿があった。
「ついでに皿洗いも頼む。行ってくる。」
秋継が家を出る。
玄関先に燃えるごみの袋を置いて行く。
TVから天気予報が流れてきたが、春は座りながらスマホから情報を得る。
「頂きます。」
パンをもぐもぐしながら、朝のニュースも見る。
がらんとした人の気配のない空間に、アナウンサーの声が響く。
ついこの前迄、居た母の気配がない。春の涙も荒れ果てて居たのである。
夢の赤い廊下に行く様になり、何とか元気を取り戻した。
一人で令和の秋継と紅の出会いを見て、紅時に会い、明治時代の事を知り、晴に会って、自分の生い立ちを見たのである。
長い流れの中の一つでしかないと自分が思えた。
だが、春の実年齢の記憶しか見られず、令和の未來は見る事が出来なかったのだ。
春は元から母親っ子であった。相談事は全て母親に話していたのである。その心の隙間を埋める者は見付かっていない。
「晴くんは来るから、紅くんも来るのかしら……。土日だから会社は休みだろうけど……。バパに会わせたくないわよね。気丈に振る舞っているけど弱っているし、独身に戻ってるものね。二人が同居して数年経ってるけど、晴くんが何処迄、信頼を得ているか謎だわ。」
春が考えたが埒があかなかった。
「まあ、会った時の様子で解るからよいわ。また、紅くんに会いましょう。久しぶりだから、私が誰だか解らないかも知れないけど……。」
流しに食器を持って行き、皿を洗う。
TVを消し鼻唄混じりに、ゴミと鞄を持ちながら、学校に向かった。一日の始まりである。
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晴が其の姿を薄くなった膜から見ていた。
段々と色が赤くなり、他の膜と同じ様に色になっていく。
もう春の姿をすらない。
晴が後ろを振り返る。長い通路は、キラキラと輝いている。
「此れが我々の未來か……。」
晴が満足気に見詰める。我々は間違えを犯した訳ではない。
「僕の前世が伊藤 春である様に、未來も予想される事ではないのだな……。何が正しく、何が間違え等ないのだな人の人生は……。」
膜に手を置くと、胎動する様に脈を打っている。
晴が鼻唄を歌いながら先へ進む。
「ああ、そうか……。此の場所が懐かしい訳が解ったな……。生き死に関係する時にしか開かない場所。此の場所は、産道だ。だから、明るく脈を打っている……。」
鼻唄が言葉になっていく。
先が見える。光が指して居るのが分かる。
「僕の未來か……。」
先端に近付くと、春の帰った場所の様に透けている。
触って見ると、脈を打って暖かい。
下を覗くと、明治時代で紅時と一緒に眠った和室であった。
紅時は蒲団の上で赤子に母乳を与えている。其の側を、秋継が寄り添っている。二人は幸せにそうに微笑んでいた。
其の隣で寝ている晴の頬を叩いている啓之助が、必死に呼び掛けている。心配そうに時子が晴の手を握り締めている。
どうやら目を覚まさないので、焦って居る様だった。
「大丈夫ですよ。後、少しです。」
晴はペーパーナイフを取り出し、膜に突き立てた。
赤子の産声が聞こえる。
膜の下に飛び降りると直ぐに意識が遠退いた。
「ああ、僕の産声が聞こえているのだな……。今帰りますよ。」
読んで頂きます有難うございます。