過去 十 苛立ち
佐波との会話の後、明継は人力車の上で考え事をしていた。
蹴込に足を組み、同じように腕も組んでいた。
悩んでいたが、紅のためにと頑張る気力が戻って来た。
見慣れた景色が辺りを流れる。渇いた大地に罅割れが生じている。偶に、溝に車輪が落ち込んで、不安定になり、首を捻るのを、気を付けていた。
庶民は天都から少し離れた、長屋に住んでいて、煉瓦作りの西洋建築には程遠い身分の世界だった。入り組んだ道、一本でも貧富の差は歴然としている。
俥を下車した。
家の前に立つと、かくしの中から、紙の切れ端が顔を覗かせた。
明継は完全に忘れていた。
紅から買い出しを頼まれていたのである。しまったと顔に書いてある。
ドアを開けた瞬間に『先生、材料は。』と聞かれるに違いないと渋々足を進めた。
階段で何度も、もう一度、買い物をしに出直そうかと思い直したが、無駄な足掻きでしかなかった。
革靴が一歩一歩、階段に当たって、足取りを重くした。
腹を括って扉の取っ手を握り締める。其れでいて、何時もより冷たく、堅く、重い。
「ただいま……。」
明継は、少し小さめの声で部屋に入った。
違和感のある空気が頬に伝わった。其の違和感が何かを示すのかは直ぐに分かった。
驚きで息が出来なくなる。やっとの思いで、息を細く吐くと、見開いた目から水分が飛んで乾燥し始めた。
其れでも、目を閉じる事が出来ない。現実を受け入れる事が出来ないように……。
「紅、何処だ……。」
叫びは虚しく響いた。
息を浅く吸い込む。
発作に近い状態になる。呼吸が普通に出来ない。
「紅。」
思い切り叫ぶと、明継は土足の侭、部屋を駆け摺り周った。
何時も居るはずの存在がいない。
何時も直ぐに出て来る存在がいない。
何処にもいない。
部屋の扉を、襖を、開けっぱなしにする。狭い部屋を、何度も確認する。
部屋の中を隈無く捜したが、何処にも紅の様子が伺えない。一段と部屋が広く感じる。
不安が一層深まった。必死に冷静になろうと努力はしたが、心は裏腹に動く。
室内を見回すと、窓やドアが破られている気配はない。物色された後もない。
「何処にいる。紅。」
誘拐、強盗、拉致、色々な可能性を考える。
明継は、地べたに座り込み、腰が抜けて、泣き崩れるかのように、腹ばいになった。
其して、拳を床に叩き付ける。
痛みで我を忘れるのを望んでいるかのように……。何度も何度も。
痛みすらしない手が、色合いだけを鮮やかにした。肉が擦れ、血が滲む。其れでも、打ち続けた。
骨が擦り減って、肉が裂けた時、物音がする。
物音と云うより悲鳴かもしれない。
其ちらの方を即座に振り返る。明継に、紅の大きな瞳が向けられた。
「どうしたのですか……。先生。」
驚きの眼が近づいて来る。
明継の拳を凝視してから、手荷物を垂直に落とした。
紅は慌てて救急箱を取りに行き、明継の横に座った。
「先生、其の手……。」
明継の拳には出血の色が痛々しさを伝える。指と指が直角に曲がった侭、動きが鈍い。
呆然と、明継は手当てする紅の横顔を見詰めた。紅は治療のため固まった指を無理矢理、離れさせる。上半身を起き上げ、紅の前に胡座を掻く。
「紅。」
呆然とした侭、の明継は、一生懸命、包帯を巻く紅を、まだ見詰めている。
「どうしたのですか。先生。床なんか殴って……。帰ってきたら、倒れているし、……。死んでいるかと思いました。」
「紅……、本物。」
「えぇ。本物です。」
意味も分からず笑いが出る明継。
渇いた笑いが部屋を木霊する。紅は呆れて、目頭に手を当てた。
「本物……。紅。しかし、どうして部屋に居なかったのです。外出をするなんて……、今までなかったのに……。」
上から覗き込んだ紅の茶毛が、目に留まった。
瞳が睨み付けているが、紅の表情が愛らしい。
「折角、先生から貰った鍵があるのですから、買い物ですよ。節さんの件もありましたから、止めようと思ったのですが……。先生、余りにも遅すぎですし……。もっと早く帰る予定でしたが、道に迷ってしまって……。」
玄関付近で散らばる食材、手持ち袋から野菜が、転がり出て来ていた。
「其うでしたか……。私は誘拐でもされたかと……。」
「部屋の中でですか。其れは、拉致ではないのですか。」
「どちらでも良いのです。こうやって見付かったのだから……。」
又、笑い出す明継。
「此れ、御返しします。」
天井を仰ぎ見て、紅が明継の目前に黒い鍵を突き出した。明継の顔の上に乗せる。
「此れ以上、床を壊されたくないですから……。」
愛らしく微笑む紅。嫌みっぽく云ったつもりらしいが余計に、可愛い。
「分かりました……。預かります。」
額から鍵を取ると、床に転がした。
頑丈に縛られた包帯が、手の感覚を無くすほど殴ったのを印象づける。
紅が帰って来たのが、純粋に嬉しかった。
笑みが何時までも顔から離れない。其れでも、不安は付いて来た。笑えども幸福にはならない。
「申し訳ないのですが……。抱き締めても良いですか。」
不意に明継が云う。
「又、馬鹿な事を云って……。」
傷ついた腕で、紅を引き寄せる。
紅の上半身がバランスを崩し、明継の胸へと、撓垂れ掛かる。
明継の頸元に、紅の頭が掏り付いた。
「佐波様は何と……。」
其の体勢の侭、紅は話をした。俯いている紅に、視線を落とす。
「慶吾隊についてどう思われます……。」
「慶吾隊が動いているのは心配です……。皇院の誰かが私を狙っているのかもしれません……。」
話す度に暖かい息が、漏れる。
明継は愛おしく、優しい表情になった。
胸の奥底から、幸福感が湧いて出てきた。
「慶吾隊なら、紅に危害は加えないはずです。」
「皇院家で一番嫌われているのは、私ですし……。」
「何時も、私と一緒にいたからですよ。」
「いいえ。其うではなくて……。」
声を引き締めて、紅は呟く。
紅の話をもう少し聞きたかったが、
「食事の支度をしますね。」
と言い残し、明継の腕の中から離れた。
紅の表情は微笑んでいた。
(紅は何を云いたかったのだろう。其して、何を隠そうとしているのだろう……。)と明継は考えた。
だが、無理に聞き出して、紅が傷付くなら、見ぬ振りをしようと腹を括る。時間がくれば、紅の方から話してくれると納得した。信頼関係は強いと思った明継。
「佐波様が会いたいと云っていました。」
「聞こえません。」
と台所で紅が云うと、炊事場に重い腰を上げて、明継は向かう。
其の前に、靴を玄関に置き、転がっている食材と、鍵を戸棚に閉まった。
紅の背中を確認できる位置で、壁に凭れ掛かった。
「佐波様が会いたいって……。」
水場でシャッを捲くし立てて、食事を作っている紅に話し掛けた。其れでも、紅の動きは止まらない。
「どうする。」
「えぇ……。」
紅の腕だけが止まらない。受け答えはするが、明継の方に正面を向けなかった。
「どうする……。」
「えぇ……。其うですね……。」
明継は立っているのが面倒臭くなり、壁伝いに腰を下ろした。紅の背中に話し掛けた。
炊事場に立つ紅の背は、とても華奢な骨格をしている。女性のように細い手首が露になる。
「先生なら、どうしますか。もし会うなら何時、会いに行きましょうか。」
「深夜に迎えがきます。佐波様が信頼できる者を出してくれるそうです。近々に……。」
「ですか……。」
紅の態度から乗り気ではないのが伺えた。確かに、宮廷から離れて、三年、彼の元いた場所に舞い戻るのは勇気がいる。
其の上、連れ出した明継が其れを薦めているのは、不可解に思われるかもしれない。
「先生……。今頃、何の用でしょうかね……。」
「さぁ。其処までは……。」
紅は一呼吸した。
「先生と引き離されるなら、戻りたくはありません……。」
ぽそりと本音が出た紅。
動揺の色が背筋に現れているが、明継は紅の安全を考えた。事情も伝えず、従えと云うのは理不尽に思えるかもしれない。
卑怯に思われても紅の安全第一である。
「大丈夫……。」
節の話を鵜呑みにする訳ではないが、誰が紅に敵なすか判断しずらい。佐波の権力の側に置けば、警備も万端だ。
(其れを承知で佐波様は紅に会いたがっているのだと……。)其れならば、明継は従うしかない。
「先生は、どう御考えですか。」
「えっ……。」
紅の背中が話すが、不意の質問に明継は答えに詰った。
「何が。」
「いえ……。何でもありません。出来上がってから呼びますよ。先生。」
紅は、顔だけを明継に向ける。
其の表情は穏やかであったが、冷たい視線にも感じられた。
歩みを進めて何時もの居間に向かった。
紅の好んだ窓際の椅子に寄り添う。癖で、椅子の上に読み掛けの本を伏せてある。其の本は枝折や紐があるにも関わらず、伏せてある。
明継は本に紐を忍ばせ、机に置く。
中央には硝子の灰皿があり、其の上に不釣り合いな煙管が乗っていた。
煙草は毛嫌いしたが、紅は煙管なら良いと了承されていた。
明継は常用者でなかったにしろ煙草を止めたのである。本人も何故吸っているのか疑問に、思ったからでもあった。しかし、今日は非常に吸いたくなる。
「今日はやけに疲れたな……。」
上着を脱ぎ捨てて、足を放り投げた。
一番楽な姿勢で寛ぐ。煙管には目をやるが、手に持つ事を拒否した。今更、拳が痛いのである。
昔良く、母に行儀が悪いと叱られた。人前では母の顔に泥を塗ってはいけないと、何時でも姿勢に気を付けていた。
今では身の回りの事を紅に任せっきりにしている姿を叱るだろうか。紅の前では母と同じ様な行動を取っているのが、面白くて仕方ない。母に対する愛情が紅に移行したのかもしれない。
「行儀悪すぎです……。」
驚いて、声の主を見た。
紅がお盆を持って、明継の前まで来ていた。
苦笑いをする明継に、馬鹿な思い出を振り払った。少しだけ、紅に、母の面影を見た。
「ごめん。御免。」
明継は立ち上がり、紅の側に寄る。
低めの机に、紅は不服そうに味噌汁と麦飯を乗せた。
初めて明継と外出した記念にしようと考えた品揃えが出来ないのが、残念だった。
先程、戸棚に食材を運んだ明継だけが、紅の心を理解していた。
祝ってくれる気持ちを、喜ぶだけの気力は、先程、紅を抱き締めた時に、補充した。
「先生、どうぞ……。」
「あぁ。すみません。こんな時間になるまで、待たせて……。」
自分の所為で、食が遅れた意味で謝る明継。
『いいえ。』と紅は首を振る。
紅は箸を差し伸べた。
何気ない動作に明継は、口元の笑いを隠せないでいる。
「何が可笑しいのですか。」
「否。昔良く母と、此の様な会話をしたなと思いましてね……。」
「其うなのですか。」
「えぇ。其うだ……。紅の両親はどんな人でしたか。今まで聞いた事ないですし……。」
紅は驚きに満ちた瞳で彼を見たが、明継は箸で味噌汁の具を食べていた。
芋を口の中に頬張る明継がやっと紅の方に興味が行くと、紅は視線を逸らせてしまった。
「どうしました。紅。」
返答すらしない紅に変な事でも聞いたかと、後悔する。弁解をする上手い台詞が見付からない。
仕方なく黙々と食を進める。
「男親は……。」
紅が重い口を開いた。




