時折 十二 (過去 十 苛立ち)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ただいま……。」
明継は、少し小さめの声で部屋に入った。
違和感のある空気が頬に伝わった。其の違和感が何かを示すのかは直ぐに分かった。
驚きで息が出来なくなる。やっとの思いで、息を細く吐くと、見開いた目から水分が飛んで乾燥し始めた。
其れでも、目を閉じる事が出来ない。現実を受け入れる事が出来ない様に……。
「紅何処だ……。」
叫びは虚しく響いた。
息を浅く吸い込む。
発作に近い状態になる。呼吸が普通に出来ない。
「紅。」
思い切り叫ぶと、明継は土足の侭、部屋を駆け摺り周った。
何時も居るはずの存在がいない。
何時も直ぐに出て来る存在がいない。
何処にもいない。
部屋の扉を、襖を、開けっぱなしにする。狭い部屋を、何度も確認する。
部屋の中を隈無く捜したが、何処にも紅の様子が伺えない。一段と部屋が広く感じる。
不安が一層深まった。必死に冷静になろうと努力はしたが、心は裏腹に動く。
室内を見回すと、窓やドアが破られている気配はない。物色された後もない。
「何処にいる。紅。」
誘拐、強盗、拉致、色々な可能性を考える。
明継は、地べたに座り込み、腰が抜けて泣き崩れるかの様に、腹ばいになった。
明継の首から黒い影が出て来ている。
首筋の影から肩が出て来て、力を加え易い様に右手が虚空を仰いだ。
頭がずずずと出てくる。
明継の本体はまだ、床を殴るのを辞めない。
其して拳を床に叩き付ける。
痛みで我を忘れるのを望んでいるかの様に……。
何度も何度も。
影が上半身を露にした。空中に手繰り寄せる動作をして、外に出ようとしている。
明継の痛みすらしない手が、色合いだけを鮮やかにした。肉が擦れ、血が滲む。其れでも、打ち続けた。
骨が擦り減って、肉が裂けた時物音がする。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「何?あれ……。」
春が口元に手を当てて、声を震わせて居る。
『先生の影でしょう……。正確には魂が見えて居る様です。』
「でも、あそこまで真っ黒いのは可笑しいわ。だって魂でしょ?紅隆の時は、あんなに気持ち悪くなかったもの。」
『煉獄に連れて行かれる魂だと思います。』
晴が考え込んでから紅隆を見た。
膜をめいいっぱい迄開いて、確認している。
「地獄に落とされる様な悪い事は、明継叔父さんはしていないよ。何かの間違いではないかい……。」
『人の魂は死んだら、一旦地獄に落ちるのです。四十九日が終わると旅を終え自分の正しい場所に向かいます。先生は死んでも落ちていない。正しい霊界に進んでいないのです。』
「明継としてループしているから?魂が真っ黒いって事?」
『生まれ変わりなら令和の秋継としても生まれ変わらないし、同じ時代に同じ人物にはならないはずです。』
「でも先生だけ記憶を持たないのは何故かしら……。何度もループしているなら、私達の様に記憶を残して産まれてしまうと思うわ。」
『其れは解りません。でも此のまま探せば何かの手掛かりが出て来る筈です。』
黒い影が動きを止めている。
鼻がある場所には何も無く、落ち窪んでいる目が此方を見ている。
「ひっ……。目が合ってない?」
晴が膜を引っ張り、皆の顔を隠した。だが遅かった様で、明継の影は体から這い出ようともがき始めた。
「何か危ない。早く膜を閉じましょう。」
紅時と春が一歩下がって抱き合った。
『私を見ている様です。あの影は……。』
下の世界からガタンと音がする。
音のする方を見た。紅が買い物袋を盛大に落としている。荷物が転がっている。
※※※※過去 十 苛立ち※※※※※※※※※※※※※※
物音と云うより悲鳴かもしれない。
其ちらの方を即座に振り返る。明継に紅の大きな瞳が向けられた。
「どうしたのですか……。先生。」
驚きの眼が近づいて来る。
明継の拳を凝視してから、手荷物を垂直に落とした。
紅は慌てて救急箱を取りに行き、明継の横に座った。
「先生、其の手……。」
明継の拳には出血の色が痛々しさを伝える。指と指が直角に曲がった侭、動きが鈍い。
呆然と、明継は手当てする紅の横顔を見詰めた。紅は治療のため固まった指を無理矢理、離れさせる。上半身を起き上げ、紅の前に胡座を掻く。
「紅。」
呆然とした侭、の明継は、一生懸命、包帯を巻く紅を、まだ見詰めている。
「どうしたのですか。先生。床なんか殴って……。帰ってきたら、倒れているし、……。死んでいるかと思いました。」
「紅……、本物。」
「えぇ。本物です。」
意味も分からず笑いが出る明継。
渇いた笑いが部屋を木霊する。紅は呆れて、目頭に手を当てた。
「本物……。紅。しかし、どうして部屋に居なかったのです。外出をするなんて……、今までなかったのに……。」
上から覗き込んだ紅の茶毛が、目に留まった。
瞳が睨み付けているが、紅の表情が愛らしい。
「折角、先生から貰った鍵があるのですから、買い物ですよ。節さんの件もありましたから、止めようと思ったのですが……。先生、余りにも遅すぎですし……。もっと早く帰る予定でしたが、道に迷ってしまって……。」
玄関付近で散らばる食材、手持ち袋から野菜が、転がり出て来ていた。
「其うでしたか……。私は誘拐でもされたかと……。」
「部屋の中でですか。其れは、拉致ではないのですか。
「どちらでも良いのです。こうやって見付かったのだから……。」
又、笑い出す明継。
「これ、御返しします。」
天井を仰ぎ見て、紅が明継の目前に黒い鍵を突き出した。明継の顔の上に乗せる。
「此れ以上、床を壊されたくないですから……。」
愛らしく微笑む紅。嫌みっぽく云ったつもりらしいが余計に、可愛い。
「分かりました……。預かります。」
額から鍵を取ると、床に転がした。
頑丈に縛られた包帯が、手の感覚を無くすほど殴ったのを印象づける。
紅が帰って来たのが、純粋に嬉しかった。
笑みが何時までも顔から離れない。それでも、不安は付いて来た。笑えども幸福にはならない。
「申し訳ないのですが……。抱き締めても良いですか。」
不意に明継が云う。
「又、馬鹿な事を云って……。」
傷ついた腕で、紅を引き寄せる。
紅の上半身がバランスを崩し、明継の胸へと、撓垂れ掛かる。
明継の頸元に、紅の頭が掏り付いた。
「佐波様は何と……。」
其の体勢の侭、紅は話をした。俯いている紅に、視線を落とす。
「慶吾隊についてどう思われます……。」
「慶吾隊が動いているのは心配です……。皇院の誰かが私を狙っているのかもしれません……。」
話す度に暖かい息が、漏れる。
明継は愛おしく、優しい表情になった。
胸の奥底から、幸福感が湧いて出てきた。
「慶吾隊なら、紅に危害は加えないはずです。」
「皇院家で一番嫌われているのは、私ですし……。」
「何時も、私と一緒にいたからですよ。」
「いいえ。其うではなくて……。」
声を引き締めて、紅は呟く。
紅の話をもう少し聞きたかったが、
「食事の支度をしますね。」
と言い残し、明継の腕の中から離れた。
紅の表情は微笑んでいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「あれ?影が無くなってる……?!」
春がきょろきょろとしている。
「全く無くなりましたね。明継叔父さんの体から黒い物がなくなりましたね。魂だけが外に出る方が可笑しいのですが……。」
『紅が帰って来たから、不安が消えたのだと思います。魂が簡単には出て来る訳が無いのですが……。』
「魂が出てきすぎよね?何か不安や恐怖の感情で出て来ているわよね。」
『前にも話しましたが、魂で間違えないと思います。紅が来ると消えるのが、何かの変化だとおもいます。』
紅時が顔を赤くしていた。
「私達、あんなに抱擁してないわよ。」
「してますよ。」
「時子と秋継の時は、余りラブラブはしてなかったわ。確かに、紅や晴が良く遊びに来てたけど……。」
晴がゆっくり膜を閉めた。
膜が明るくなると、四人が安堵の溜息を出した。
「次は何処の場所だ……。」
評価お願いします。誤字脱字をお願いします。