過去 八 下男の少年
人力車の上で、明継が目を瞑って、紅を思い出していた。
カタカタと揺れれば、首が揺れた。
「本心では、離れたくないんだな……。」
昨日、佐波に、『紅を宮廷に帰す』と云うと、心が軽くなった。其れは嘘ではない。だが、田所 節の登場で、いとも容易く、理性が飛んだ。
「此の感情は、初めてだ。」
愛情でも、悲壮感でもない感情。
明継は首を捻った。
瞼の裏に、何時もの紅の笑顔が思い出された。
初めて紅と出会った梅ノ木の下での表情とも違う。
明継にだけ寄せられる微笑。
「独占欲か。」
独り言を呟く明継には、流れていく街並みを楽しむ余裕はなかった。抱いた感情に戸惑いながら、長い息を吐いた。
聞き覚えがある其の単語。
何か月前かに、聞いた覚えがある。
明継は、腕組みしながら、思い出そうとした。
「ああ……、下男が云っていた……。」
明継の記憶が過去へと遡る。
其れは、昼間の仕事休みの事だった。
皇院の別邸近く、梅ノ花が咲く前の時期。肌寒い中、弁当を食べようと、梅ノ下に座り込んだ時だった。
「伊藤殿も、お昼ですか……。」
若い少年が、明継を覗き込むように立っていた。
「ああ、君か。」
明継の顔に笑みが溢れた。
「御久しぶりです。伊藤殿。」
「其うだね。」
下男は、明継の隣に腰を下ろし、着物の裾を正した。手に持っている竹の包から、握り飯を出して、頬張る。
「御手製の弁当ですか……。」
下男は、云った。屈託のない表情が印象的だった。
明継の胡座上に布と、弁当のわっぱ箱が開いてある。
「私は、料理は苦手です。出汁を取るのがどうしても、旨く行かなくて……。」
口の中から喉に呑み込んだ明継。
「自分で作るのを、諦めました。」
明継は、紅が作った弁当を見詰める。
「伊藤殿は、家に料理人が居るんですね。」
紅の顔を思い出しながら、首を捻った。
割烹着を身に纏った後ろ姿で、沢庵を切っていた。
「料理人と云うと、語弊がありますね。」
綺麗に詰められた弁当から、麦ご飯をつついた。
(紅も今頃、同じ品物を食べてるだらうか……。)とほくそ笑み、口に運んだ。
「愛妻弁当ですか。」
明継の箸からおかずが零れ落ちた。
「すみません、妻はいません。」
飯を頬張る律之と、視線が絡まる。
「何度も、からかわないで下さいよ。毎回、毎回、逢う度に、妻と云わないで、下さい。」
明継は、此の時代では、適齢期で祝言を上げているのは、普通であった。だが、本人は気にする素振りもないので、周りの仕事仲間達は言葉に出さなかった。
なので、余計に噂だけが流れた。特に、下女の間だったが……。
「伊藤殿は、其の御人が大層御気に入りですね。其れを妻と呼ばなくて何と敬称すれば、宜しいか………。」
明継は、言葉を詰まらせた。
(紅との関係、主従関係しかないか……。)と、思ったが違う気がする。
少し頬が赤らんで来た。
「私にも解らない……。」
明継は眉間に皺を寄せた。
考えた事すらなかった。今の紅の立ち位置など、何も考えた事すらなかった。
「絵姿等は有りませんか。」
明継は、咄嗟に否定した。
「無い、無い。辞めてくれ、撮ってないよ。律之さんは、人が悪い。」
律之は、塩握りを、頬張る。
明継も、飯をかっ込み始めた。紅が作った飯は、微かに甘かった。
「伊藤殿の飯は、見たこと無いオカズばかりですね……。一つ頂けませんか……。」
「嫌、嫌……。御渡し出来るもの、何てありませんよ。」
律之がわっぱを、畳んで、袂に入れ、梅ノ木を眺めながら、空を仰いだ。
枝から、白い空の輪郭が見える。
「彼が作った物は、一つも渡せないと……。」
「へっ。」
明継の喉から変な声が漏れる。
「其の人が触った物すら、触らせたくないんですよ。」
「其んな事はありませんよ。」
意味が解らず、秋継が、 咄嗟に否定した。
「見た目に因らず、独占欲が強いんですね……。」
明継は、「其んな事ありませんて……。」と小さい声で呟いた。
「御馳走様でした。また、お会いしましょう。」
律之が、着物を翻し、去って行った。姿勢を正し、背中を見詰めた。
紅と後ろ姿がだぶって見える。
律之の方が、幾分か肩幅が広い。着物を履いている彼よりも、紅の方が腰周りが細かった。手首も、紅の方が華奢だった。




