未來 十二 昔語り 4 ( 花魁 )
入り口から太夫の姿が見える。
大部屋の客達は見る事も叶わない女性の姿に見惚れた。
「紅時。」
一言発すると身を翻して去っていく。
秋の腕から立ち上がり手を握りながら紅時は後を追う。其の後を面倒臭そうに歩く女郎がいた。
太夫が部屋から出る事は珍しく会う人が全て振り返える。其の後ろを紅時は、放され無い様にして秋の手を引っ張っていた。
二階に上がり襖を開くと、鴬色の漆喰が塗られた壁が目に入った。
太夫の個室らしかった。
「ねえさん。何時も話していた先生が迎えに来てくれました。」
太夫が上座に座ると煙管を吸い始めた。視線が一度も重ならないと秋が思った。歓迎されていないのだと直ぐ解った。
秋は下座の畳に座り紅時の手を握り締めた。
負ける訳にはいかない……太夫から視線を動かさず息を飲んだ。
「花魁。入ってもいいかしら……。」
開け放たれた襖から鼻におできのある女郎が、立っていた。
「構わないわ。」
襖を片手で閉める。
女郎が秋の後ろを回る様にして紅時の隣に座った。
「ねえさん。先生です。」
紅時は、嬉しそうに微笑んだ。
「『せんせい』……ねえ……。」
煙管の灰を打ち付ける音が木霊する。
今の秋は見た目が悪かった。無精髭を生やし路銀を稼ぐべく、最短で荒い道を来たのだ。着物は擦り切れ膝まで汚れている。
秋は手拭いを出し顔だけでも拭いたが、土が伸びただけだった。
紅時が立ち上がり、火鉢にある釜から柄杓で湯をすくいながら自分の手拭いに垂らして、揉んだ。
湯気が出なくなると秋の額を拭った。ゆっくりと丁寧に顔を拭いていく。
「先生は、奇麗な人です。無精に見えますが違います。話をしているねえさんには分かる筈です。」
「ちょっと待って。剃刀もってくる。」
女郎が立ち上がると部屋を出て行った。直ぐに剃刀を持ち秋に渡し、手鏡を出した。
「あんた。遊廓に其の様な格好して阿保ではないの。初めから身なりに気を付ければ話を聞いたのに……。理由があるのでしょう。」
紅時が手拭いを広げると頷いた。此の上で、剃れと……云う意味だった。
女郎が手鏡を持ち秋が手早く髭を削いだ。
紅時が満足そうな表情をしている。小さく畳んだ手拭いから髭が落ちない様にして、火鉢に落とした。
「やっぱり良い男ではないの……。破落戸に銀など渡して阿保ではないの。おかあさんを通せば喜んで、紅時に合わせて貰えたわよ。でも着物が無理だわ……。」
女郎が舐め廻す様にして見る。剃刀を受けとると刃を閉まった。
「着物などどうでも良いどす。今の世で落ちぶれた者など五万とおる。わっち達だとて同じ。其の世で紅時と生きて生きて行けるのか……。御前は何を差し出せるかえ。」
秋が即答しない。
紅時が太夫と秋を交互に見て泣きそうな顔をしている。
女郎も声を出さなかった。
太夫が諦めた様に又煙管を吸うと、二口目で秋の口が動いた。
「此の身一つだ。」
一言云い、又黙った。秋は言葉を続け無かった。
沈黙が流れる。
「馬鹿にしているのかえ……。御前に何が出来るのどす。紅時はわっちの妹とも呼べる存在。御前などに渡せる物か……。」
「馬鹿になどしていない。腹一杯食べさせて、雪の中でも暖かい家がある。四季を共に過ごし手を離さず生きて行ける。二人で歩む事以外に何故、問題がある……。確かに苦労はさせるかも知れない。だが紅、只一人だ。ずっと待って居た。紅が産まれるのを……。探すと決めて居た。出会ったらもう離さないと決めて居た。」
「こうではない。此の子は紅時どす。旦那はんは居もしない夢を追っているだけどす。」
「其れでも構わない。紅時は、紅だ。間違える訳がない……。顔すら覚えていなくとて紅時に間違えはない。」
紅時が秋の袂を掴んだ。真っ青な肌色をしている。
「覚えていないのですか……。」
「すまない。今回も記憶が無いのだよ。過去の記憶が……。しかし紅を探す事だけが使命だと思っていたよ。紅時は紅の記憶があるのかい……。」
紅時は頷いた。
「明治、令和と記憶があります。明治の記憶は先生が捕まる悪夢の記憶です。でも令和で、節さん達から、其の過去ではないと聞かされました。だから今日先生が生きてると知って、嬉しかった……。」
「紅時はどうしたい……。」
言葉を詰まらせる様に紅時は座っている秋に抱き付いた。
「御側に居とう御座います。」
秋が紅時を抱き締める。小さい背丈では包み込んでしまう身体を抱き止めた。
「帰ろう……。」
煙管から灰を落とす高い音がした。
太夫が見せない怒りで、眉が鬼の様になっている。
「太夫。許してやりなよ。紅時の想い人だよ。此の子の顔を見てみなよ。もう嘘ではないよ。せんせいは本当に居たのだよ。」
太夫が無表情になった。
「廓に居る紅時が外の世界に出て、侮蔑されるだけどす……。」
「女郎になるより増しさね……。鉄砲女郎の末路など容易いさ。」
おできの女郎が紅時を庇っていた。
「花魁になれば抜け出す道もあるさ……。でも女郎の末路など痛い程見てるだろ。紅時はまだ若い道があるよ。」
「此の侭生きるのと……。どちらが良いかなど知っているさ。」
紅時から秋継の事を聞いていたのだから、余計に心配をしていた。
「一人か……。」
太夫が呟いた。
秋が視線を向けて彼女を見詰めた。
「今迄何があったかは、俺は知らない。だが紅時は只一人だ。御願いだ……身請けさせて下さい。もう離さない為に……。」
紅時が秋の腕から離れると、正座して頭を下げた。
「ねえさん。御願いします。」
少女が震えながら頭を畳に擦りつけるばかりに、下げている。
太夫が溜息を吐いた。
「紅も後悔しないのどすな……。」
下げた頭が頷く。
太夫が緩やかに立ち上がると秋を見下ろした。
「おかあさんにはわっちが話して来るどす。旦那さん財布を下さいな。」
紅時が手を差し出す。秋が金の入った巾着を渡した。
太夫に渡すと中身を確認する。
「これだけあるなら身なりを整えれば良かったのに……。其れさえ野暮な事なのかも知れないね。」
太夫が部屋から出て行くと三人だけ残された。
紅時が火鉢の灰に剃り落とした髭を叩いた。何度か叩くと、又湯を垂らして揉んでいる。
「先生。下女でも御雇いになれば宜しいのに……。」
秋の足を崩させ脹ら脛を拭き始めた。
「すまない。身分を捨てた。今は農民なのだよ。林 秋が今の名前だ。もう先生でもないのだよ。」
手拭いが黒くなる迄拭くと微笑んだ。
「先生は今も先生です。私に取っては産まれた時から先生は、側に居てくれた様な物です。ねえさんは其れを知っているからこそ、先生に辛く当たるのだと思います。」
「確かに花魁が認めたのだから、誰も文句は云わないよ。良かったね。旦那さん。紅時に禿ではない人生を与えてくれて感謝以外の言葉はないよ。花魁も同じ気持ちだよ。」
女郎が紅時の髪を撫でた。
「おかあさんに私から報告しなくても良いのでしょうか……。」
「花魁に任せておきな。値段が吊り上がったら困るだろ。紅時には馴染みも多い。金だけでは足りないと御涅るだろう。確実に旦那と帰りたいなら待ちな。」
「禿の身請けとは大変なのだな……。」
秋が下を向いた。
「当たり前さ。旦那は遊びを知らない人だろうけど身請けは一番気を付けないと、銭を積んでも紅時は帰れないよ。」
「其の様な事が……。」
今更不安な表情をする秋。
紅時をおできのある女郎が抱き締める。
「花魁が出て来たから丸め混んでくれるよ。其れに紅時から耳が痛くなる程先生の話は聞いてる。おかあさんも同じさ。だから先生に身請けされるなら、反対はしないよ。紅時を知っている者ならね。」
最後の別れをする様に女郎が微笑んだ。
廓の世界には独特の流儀があるのだ。だから紅時も太夫の出方を待っているのだ。
時間は少しづつ流れて行く。昼を回っても太夫が帰って来る事はなかった。
ご意見、ご感想をお待ちしています。
宜しければ、下の☆☆☆☆☆をクリック下さい。
不定期投稿なので、ブックマークがあると便利です。