過去 七 不安 1
心の中で不安が膨張する。只でさえ、紅と初めての外出だと云うのに、変な女の存在が黒い墨を垂らす。
渦巻く、自分の感情を押さえながら、扉を閉めた。
どうやって、帰って来たかは記憶にない。あんなに、楽しかった行き道は、今更見る影もない。
「私、新聞記者だから……。連絡宜しくね。」と、最後に節が叫んだのは、其の言葉だった。
玄関に雪崩込み、勢い良く扉を閉めると、明継は、窓の布を引っ張った。
斜めに入ってくる光でもカーテンを閉めると薄暗い。其れでも、洋灯に火は入れず、乱暴に椅子に腰を下ろした。
居間の窓際ではなく、入り組まった書斎の椅子であった。書斎は窓があるが隣と隣接し過ぎている為、雨戸をキッチリと閉じているのだ。
人に見られる心配もなく、落ち着いていられる唯一の場所だ。
「先生……。痛い」
紅は、ボソリと呟いた。
帰ってきてから、今まで、窓際に近づく時以外は腕を握り締めた間々、部屋の中を連れ回していたようだ。
やっと平静を取り戻したが、明継は、紅が痛がっているのを気が付かなかった。
「御免。」
驚いて急に手を放した。
紅の腕は少し青み掛っている。椅子から退くと、紅に譲った。
「いいえ……。」
紅の言葉に力はない。
此の家に来て間もなく、紅が書斎で遊び、机の書類がなくなってしまい、きつく怒られ、トラウマになって、書斎に入る事を怖く思っていたらしい。其れ以外にも、問題のある部屋なのだが…。
成長し、近頃は明継が居れば、顔を見せる程にはなった。
何とも云えない沈黙が其処にはあった。でも、明継は窓際や居間に紅を置いておく、気にはならなかった。
節の言葉から、拭いきれない感情を持ってしまった。其んなには時間も経過していない事でもあるのだか…。
「先生。大丈夫ですか。」
心配顔で見詰める紅に精一杯の笑顔を見せるが、引き攣っている。秋継は、紅を安心させる言葉の、大丈夫すら出てこない。
「もしかして……。先生は、節さんを気にしているのですか。」
「い否。違うよ。」
秋継の声がうわずる。
否定はした物の、長い付き合いの紅には、やはり見抜かれた。
「節さんと合う前から、様子は変でしたが……。其の前から、私の事になると余計、躍起になりますよね。」
核心を突つかれ、弁解しようにも、上手い文句が浮ばない明継。
「先生が私の幸せを考えてくれるのは、嬉しいです。でも、負い目を感じているのなら、やめて下さい。私は此の家に来る時も、自分の意志で行動しました。先生が苦しむ理由はないです。」
云い終る前に言葉が重なって、被さった声で反論する。
「良いかい……。君を連れ出したのは、たった十歳の時だったのだよ。自分が選んで決めたなんて、誰も思わないよ。其の上、どんな理由があれ、身分の高い者を家に連れて、誰にも触れさせないなんて、どう考えても、私に比があり過ぎる……。」
二人は冥々の内に黙った。
何時かは、こうなると予期はしていた。此の三年間は其れが、頭を放れなかった。
「此れから、どうなるか問題だ……。」
「では、問題を話して下さい。私は、もう十四になったのです。宮廷では十五歳で成人を迎えます。一人で考えるより、二人で考えましょうよ……。」
涙声の紅に、同情を寄せる明継。
今まで、明継は紅に何も語らず、決定してきた。今、其のしっぺ返しが来たのかもしれない。
しかし、二十六歳の明継に紅は余りに幼かった。其れでも、明継には紅しか頼る相手はいない。紅もしかり。
「ええ。其うですね。」
文章上では頷いた。
明継が本気でないのを理解した紅は、哀しい表情になった。
紅を連れ出した時は、若さ故に、紅の将来を自由がないと錯覚し、世界を見せ様と考えた。
其の後の事は何も予期せず、自分も紅自身の未来も犠牲にしている。
自分が招いた結果なら文句も云えるが、紅は一時期の感情で明継を慕い、庇い、『其れでも付いて来る。』と云う。
(紅が可哀想だ……)と馬鹿な事をしたと後悔する明継。
其れでも、自分は可愛い。だが社会的地位とかではなく、紅に対する気持である。
怨まれたり、嫌われたりするのだけは、避けたかった。だがら、紅自身の意志で元に戻せば、誰に何を云われても、紅が周りを信じたりはしないと考えていた。甘い考え、なのは十分に承知だ。
多くの犠牲を払って持ち出して、紅には嫌われたくないなど、大の大人が考える事ではないのも分かっている。其れでも、紅との生活を後悔にしたくなかった。若さ故の過ちに思われたくなかった。
明継が前のように思っても、言葉に出すほど器用な人間ではない。不器用に真っ直ぐ生きてきて、道を間違えさせたのは紅だった。きっかけはどうであれ、選らんだのは明継なので、反論は出来ない。気が付いていた。
「では、紅はどう考えているのですか。」
感情のない口調の明継。意見を求められる事になれていない紅は、返答に困り果てていた。
「何を……、です。」
「先程の新聞記者、田所 節の事です。彼女はきっと君を狙っています。」
明継は、文章上の一語一句を丁寧に述べた。彼に表情がない。
「其れは、どうだか……。」
紅は何も云えず、語尾が濁る。
「きっと彼女は私達を追い詰めるでしょう。今まで、其うならなかった方が不思議です。でも……。」
「私達二人とも引き離された方が良いと云われるのですか……。」
「其んな事は云っていません。」
明継の中で不安が膨張した。段々と速度を増して……。
目の前が真っ暗になる前に、必死で不安材料を忘れ様として、紅の目を覗いた。
「先生は、今まで私が重荷でしたか。」
不安は黒い尾を引いて、恐怖心を煽り、頭の中で何か切れる音がした。
「先生……、どうしました。」
紅の声と欲望が交差する。現実がグルグルと覆い隠す。其れでも、明継は普通にしようとして、不快な笑みを浮かべた。冷酷で、尋常ではない微笑。
紅は身震いを起こす。何かが違う明継に、身の危険を感じた。
「先生……。どうしたのですか。」
恐怖に慄き紅の声が震えている。其れでも、明継が心配なのか逃げなかった。
紅には、悲痛そうに頭を押さえ、堪えているようにも、明継は見えた。でいて、目だけが夜の狼の鋭い光がある。
「どうしたのですか。先生。大丈夫ですか……。」
押さえ切れない絶望と欲望が入り混じる。
明継の精神世界で欠落し始めた物があった。しかし、其れを制御する力は明継にはまだ残っていた。必死に首を振る明継。
紅を側に置いて置きたい。此の侭、ずっと………。
大きく息をして平静になる。目の鈍い光は奥の方に潜めた。
まだ大丈夫、まだ、大丈夫、頭の中で反芻する。
「大丈夫ですよ……。」
額に脂汗を滲ませながら、何時もの笑顔を見せた明継。
其れを見て、紅も安心した。落ち着きを取り戻した明継に、紅は文机を退き、席を譲った。
「忙しかったですものね……。仕事を減らされてはどうですか。」
忙しくて、疲労から来る物だと誤解した紅。
「いいえ。大丈夫ですよ。」
下手に仕事量を減らしては、怪しまれると思い、碌なに、休みを取らず、働き続けたのも事実だ。
事務処理的な職務なので体力に問題はなかったが、精神が疲れを示していたのは本当だった。其の上、紅を匿って、知らぬ振りでいるのは精神がボロボロになったのも、状況的に考えられた。
「しかし…。」
紅は言葉を、又、詰らせた。
「本当です。もう大丈夫ですよ。」
明継がしゃんとしなくては、年下の紅が余計不安がると思い、紅のために必死で落ち着きを見せた。
何時でも何処でも、頼れる先生で無くてはいけなかった明継、無意識の間に自分を演じる事を覚えていた。余計彼を苦しめた。
だが、紅が居る事は心の支えになっていたので、先引き令。
今の明継の生活で、紅がどれだけ占めているかは、分かりきった事であった。
「でも、今日はすみませんでした……。折角の楽しい時間を潰してしまって……。」
安堵の色が紅を包んだ。平常時の明継に戻ったからだ。
「いいえ。そんな、先生が悪い訳では……。先生の様子が変だったので、近づいただけで……。」
「近づいて来た時、心臓が止まりそうでしたよ。」
本当に死ぬかと思ったと明継は思い出した。今さっきの事なので鮮明に映像が思い出せる。
節に紅の存在を気付かれ、身元が公表されたなら、二人は引き離されてしまい、最後には、明継は牢獄入りである。
明継が考えている計画では、紅を日の目に出さず宮廷に戻し、明継は日本を離れる物だった。
其のため、佐波に事情を話した。紅の失踪事件では始めから理解者であったが、明継の計画を話し、宮廷に帰す事を遂行するつもりだった。
当初は、佐波が紅を戻す事に賛成されると踏んでいたが、意外にも猛反対を受け最後まで話が出来なかったが、順序を追えば、了解を得られると考えていた。
公になれば、紅の立場も皇の威光は地に落ちるかもしれない。其れは、どうしても避けたかった。
「御免なさい……。此れで私が家から出る事は危険だと分かってもらえましたよね。私は、もう外に出たくありません。」
紅は明継の側に居る事を望み、外出を避ける。
「何故。」
「先生が又……。いいえ。此れ以上先生を苦しませたくありません。」
憂鬱な瞳の紅。
「苦しんでいないよ。其れに、鍵を占めて君を隔離したくない。もっと自由にしていて欲しいのです……。」
三年前頃、紅が家に来た時は、敷居を跨ぐのを禁止したのは、明継だった。自分を守るために……。しかし、数年経過して、明継は理性を取り戻し、紅を連れ出した目的を再確認する。
此の侭では、彼は人間らしい感情をなくすと考え、紅を外の世界に連れだそうとした。
久しぶりの外出で、今度は紅が外を恐れた。其れは、紅が明継に捨てられると感づいたのだ。
昔話だが、幼い時、良く口にした言葉が
『先生に捨てられるのが一番嫌だ。』であった。
紅の周りに良き理解者が一人もいなかった事が、伺えた。其れでも、言葉に出来ない絆が、三年間の同居の間に、明継と紅の間で誕生したのは、云うまでもない。
「此れ以上、此の話は止めよう。喧嘩しても意味がないよ。そう思うだろ紅。」
「ええ、先生……。」
大人しく返事をする紅。其れでも、納得は見えない。
「お腹、空きませんか……。先生。」
紅は明継に問い掛けた。
突然のようにも聞こえるが、明継は紅が声を掛けないと食べ物を、余り摂らなかった。
紅が来るまでに栄養の偏りを、医者に叱責された事がある。
倫敦に行く前は、実家に居たので誰かが面倒を見てくれたのであるが、其うでなければ、今時代に、秋継程のこんな大男は育たない。
「云えば、其の様な気もしますが……。」
其の上、明継は食に対しての拘りがない。野暮ったい返事が返って来るだけだった。
紅は良く理解していた。否定しない時は、明継は問い掛けに肯定的である。
「では、何か食べたいですか……、作りますよ。」
明継は直ぐ
「紅が食べたい物で良いです。」と何時も通りの台詞であった。
紅は、
「そうですか…。」と小さく頷き、台所へ向かった。
所帯用の部屋ではないのだが、此の部屋は台所が付いていた。まだ付いているだけましかもしれない。
時代は、共同炊事場が普通で、井戸端会議の井戸が庶民の普通だった。此の時代には先端な炊事場が部屋がある。
其の癖、一人用にしては部屋数が多く、紅が来る前は閑散とした感じであった。だが、二人で住むには丁度良い具合であり、下手に他の部屋を借りなくて良かったと明継は考えている。
食事の支度は紅の担当になっていた。
世間知らずの紅が、料理を作るのは驚きに思われる。しかし、倫敦の頃の文献に混じって、料理本が入っていたのを紅が見つけ、試しに料理した。
事の他、美味しいわけではない腕前であったが、『毎日外食をお土産に持って来るのを思えば、少しは健康的だ。』と紅は云った。
紅が生物には欠かせない食事の支度をするようになった。
明継が出仕の前に、走り書を渡され、食材を買って来る日々が今に至っている。明継の健康状態を一番良く知っているのは、紅であった。
「今日は何かな……。」
紅の前では口にしないが、食事を期待している。
自分のために紅が何かを行なってくれるのが嬉しかった。何時も何時も自分の帰りを心待ちにしている紅の姿が思い浮ぶ。
帰ってくると、猫目の紅が重いドアを一生懸命押して飛び出して来るのは、嬉しいものだった。可愛くて仕方ない。年齢層からは、明継が大人でしかないが、食事に関しては、紅を頼りにしている。
「先生……。備蓄品がありません。買い物に行かないと……。」
其れは、即、外出を意味した。
明継の状態を気にしてか、機嫌を伺って声に張りがない。明継が切り上げた話題なので余計気を使っている。
「そうですか。では、私がお使いに行って来ますよ。」
普通に返事が返り、表情を見てホッとする紅。
神経が研ぎ澄まされた明継の表情は何処にもなかった。
「では、お願い出来ますか。」
「えぇ……。ついでに、佐波ようにお目通りを願おうかと……。」
「何時です。」
「今日合いに行こうかと……。」
無理もないが、呆れたように口が半開きになっている紅。
「予約もないしに、其れは無理でしょう。手順を追って、正式に行なうべきです。」
紅は仕えていた皇子の話になると途端に几帳面になった。
「はぁ……。其うですか……。」
佐波の話では、紅が引かないと思い、中途半端な返事をした明継。
其れでも、佐波に節の報告しなくてはならないと思い、意地でも合う気、満々な明継に、紅が溜息を洩らした。
明継の考えが見透かされているようだった。
「分かりました。では、少し遅くなるのですね。先生。此処に必要な物を書いておきましたから……。」
明継に紙の切れ端を手渡し、明継に背を向けた。どうやら佐波に合う為に正装を用意しようとしているらしかった。
しかし、極秘に合うので正装だと目立ってしまい、怪しまれ過ぎる。(仕事の時に来ている外出着で、どちらかと云えば、此の侭でよいのに……。)と思う明継。
普段通りの服装で佐波に合いに行くのが通常であった。紅が人目を気にし、皇の権威に傷か付くと怒るのは、何時もの事だ。
明継の場合は、例外も例外、忍び込んでも、撃ち捨てられなかった。警備に見付かれば、注意はされるが、
『佐波様が、呼ばれましたので……。』と弁解すれば、何とかなった。
三年前の紅の教師と云う肩書きは伊達ではなかった。第一皇子以外の、英国家庭教師の強みもあった。
しかし、其の分、反感は酷く、肉体的な攻撃は少ないが、やはり一部の親皇派に業務妨害は受けていた。
何時も、佐波に合う時は、下手に紅に気付かれないようにしていた。出掛ける前に此れでは、時間を食い過ぎるからである。
「はい……。でも、正装はしませんよ。」
部屋の箪笥を弄っている紅に、大声で示した。
其れを聞いて、急遽、通常のタイと背広を腕に持っている紅が明継の前に来た。
云い出したら聞かない性格である明継を良く理解している紅。
タイを明継の顔面に見せ付ける。
「今日は、折角のお休みではなかったのですか……。」
紅が少し膨れっ面で、背広を明継の肩に通させた。
紅の思う侭に、明継は着衣を直し、裾の泥を刷毛で払い落とした。
「はい。今日は休みでしたね。」
「では、お休みになったらどうですか。」
「すみません。緊急を要する用事が発生してしまったので……。」
「そうですか。でも、明日も仕事ですし……。明日では駄目なのですか。先生。」
先生の語尾に力が入る。口を尖らせて、不機嫌そうにしている紅。
此の頃休みと云える休みは余りなかったので、紅が楽しみにしていたのは、明継本人が一番良く分かっていた。
「すみません。」
紅は此処ぞとばかりに大きな溜息を吐いた。
嫌みに近い其の行為に、明継は心が痛かった。
「先生は、忙しい人ですから……。」
諦めになった紅に、オロオロと視界が動く明継。
其れを見た紅が、笑む。
「いいえ、気にしていませんよ。先生は仕事ですから……。」
ニコリと微笑む紅に、明継が表情が元に戻った。二人して、微笑んだ間々でいる時間があった。




