隣の空きベッド〜午前二時の内科病棟 2〜
世の中が浮き立つ令和の夏に、俺は入院した。
内科の病棟で検査入院。
しかも人生初。
しばらく前から胃腸の調子が悪かった。
胃痛腹痛で食欲もなかったし食べるとよく腹を下した。
通勤電車でお腹がギュルギュル。
大卒でサラリーマン三年目。
それなりの業務量をこなしているし、放っておけば仕事にも支障が出る。
ストレスも溜まっていたと思う。
そろそろ診てもらったほうがいい、と思って診察を受けたらこうなった。
入院初日の今日は一日、色んな書類を書かされたり採血だのレントゲンだのハードスケジュール。
安静にしてゆっくりできるものだと思っていたら全然違った。
そして明日は朝九時から胃カメラ検査。
明々後日には大腸検査も受ける。
どちらも初めての経験だ。
胃カメラ検査は胃の中に食べ物が残っているとできないから、消灯から明日の検査が終わるまでは絶食。
幸い腹痛はさほどないものの、時々空腹感が襲ってきてよく眠れない。
消灯前、夜勤のナースが「検査に緊張して眠れない方もいますよ、眠剤を飲みますか?」と言ってくれた。
その時は、きっと昼間の疲れで寝れると思ったし、眠剤なんて何だか怖くて断った。
でも、こんな事なら貰っておけばよかったなあ。
夜勤のナース、長嶺桐絵さんという子が可愛いかったから、ついつい強がった。
「大丈夫っすよ」なんて言ってさ。
初入院の未熟な?患者なのだから、強がる意味などなかったのかも知れない。
スマホで時間を見ると午前二時を回っている。
まだ二時か。
はあー、っとため息をつく。
だが、その時ふと生々しい音に気づいた。
寝息?いや、違う。
寝息というより軽く呻くような感じ。
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
それは誰もいないはずの隣のベッドから聞こえた気がした。
息を止めて耳をそばだてる。
また、まただ!
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
こんな感じで、どうにも辛そう。
そして、悪いけどすっげー気持ち悪い。
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
呻き声は続く。
今や俺の目はギンギンに冴えている。
絶対、隣から聞こえてる。
怖い!
でも、確かめずにもいられない。
よし!
ベッドに回したカーテンをそっとよけて隣を確かめた。
けど誰もいない。
ちなみに斜向かいのベッドにいる患者の締め切ったカーテンは、揺らぐ気配もなく静まり返っている。
今、この四人部屋に患者は俺とあの人の二人だけ。
斜向かいの中年男は顔色が悪くて、ちょっと見神経質な感じ。
昼間から仕切りのカーテンをきっちり回して、明らかにこちらと顔を合わせないようにしている。
どういう病気か知らないけど、入院生活に鬱鬱としているのかも知れない。
それにしても。
あの人、この呻き声が聞こえてないのか?
いや。
そもそもこれって、俺にだけ聞こえるのか?
これまでに心霊体験は一切ない。
だから別に霊感とかない筈だし。
あー、やめやめ!何も居ない!
考えて何になる。
気がかりをシャットアウトし目を閉じた。
ちょっとウトウトする。
でも、また聞こえてきた。
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
ウーッ、ウーッ、ウウウウーッ。
それと今度はカーテン越しに、窓に向かってベッドに腰掛けている痩せこけた背中が見えた……気がした。
気持ち悪っ!
ヤバい、もう無理!
ついに初めてのナースコールをした。
すぐに懐中電灯を持った人影が静かに近づいてきた。
長嶺さんだった。
「どうしましたか?佐々木さん、お腹痛みますか」
可愛らしい小声で尋ねられた。
怖いながらも萌える。
「あの、ちょっと聞きたいんですけど。俺の隣って、ずっと誰もいないですよね?」
「え?」
一瞬、困惑の空気が漂う。
「居ませんよ。空きベッドですから」
変わらない優しい口調で彼女は答えた。
「そう、ですよね」
「何か気になることありました?もしかして、お腹空いて眠れませんか?」
「はい。確かに腹減って、いまいち寝れないけど。でも、隣から呻き声みたいなのが聞こえた気がして」
「そうですか。イビキとかじゃなくて?」
「あ、イビキ?うーん、イビキとは違くて」
彼女は、懐中電灯であたりを照らしながら点検してくれた。
「あら?ベッドの上に何か落ちてました」
「え?何」
「何でしょう?ゴミかな……あ、ネームバンドみたい。でも古くて文字も掠れて読めません。切ってあるから不用品です。処分しますね」
ネームバンドと言うのは、入院患者が手首につける名前や生年月日、IDなんかが印刷してある身分証みたいなやつだ。
患者の取り違え防止に、入院してる間中手首につけている。
「あとは特に変わりがないみたいです。もう眠剤も飲めないけど、佐々木さん大丈夫ですか?」
「はい。やっぱりイビキだったのかなあ。うん、もう大丈夫です」
「そうですか。明日は検査が済めばちゃんとお食事できますからね。お腹が痛かったら我慢しないで知らせてください」
優しい……。
「はい。ありがとう」
「じゃあ、おやすみなさい」
何かが解決したわけじゃない。
けれど、ナースが来てくれると安心するよな。
それにやっぱり長嶺さんて可愛いし。
彼女に挙動不審な患者って思われたくもないしな。
その後いつしか眠ったらしい。
胃カメラ検査も無事に済んだ。
俺が検査後の飯を食べていると、向かいの中年の患者が話しかけて来た。
彼は中田翔吉さんというらしい。
プロ野球選手みたいな名前だ。
「佐々木さん、昨日夜中に変な声聴いたのかい?」
「え?あ、はい。呻き声みたいな気持ち悪いやつ。あれ、何なんですかね?どっかの部屋からイビキとか響いたりするもんなんですか?」
すると彼が言った。
「いや、実は俺も聴いたんだ」
「知ってたんですか?」
ちょっとちょっと!人が悪いなあ。
「悪い!でもあれはきっと俺を呼んでるんだって、そう思ってた。俺、肝臓悪いんだけど、もう長くないんじゃないかって思ってさ」
「呼んでる、ですか?」
「ああ。夜中にベッドに腰掛けてる後ろ姿も見たことあるんだ。死神じゃねえかって思ってた」
「うわあ!それ、俺も見たんです。痩せこけた背中をこう、こっちに向けて」
「そうそう、それだよ!佐々木さんも見たの?うわぁ、どう言うんだろうね、これ。お化けかい?」
「多分、そうなんでしょうね」
怖みを共有したら、二人で妙に盛り上がった。
「今夜も出たら、二人で何が言いたいのか聞いてやろう!」
そう言って消灯の後から待ち構えた。
だけど何も起こらなかった。
と言うより、俺は前夜からの疲れでストンと眠ってしまった。
中田さんはこんな事も言った。
「あの長嶺さんは何てえのか、不思議な人なんだよなあ」
「若くて可愛いけど、安心しますよね」
「そうなんだよ。あれ、癒し系っての?フワーッとしてさあ、でもあの人が来るとなんか眠れるんだよな」
「わかります。あの人、幾つなんですかね?」
「二十九って言ったかなあ?若く見えんだよ。ありゃ絶対男居るよな。美人だし、放っとかねえよなぁ」
「え!俺より年上?マジすか!」
長嶺さんは俺より五歳も年上?
可愛すぎて魔性を感じる。
胃と腸の検査を受けて退院した後、検査の結果を聴きがてら、同室だった中田さんを見舞った。
幸い俺の胃腸に異常はなく、ストレス性だろうと言われた。
中田さんは、前より顔色も良くなり元気そうだった。
「あれから長嶺さんに聞いたんだけどさあ」
そう言って、あの呻き声の後日談をしてくれた。
あの時長嶺さんが拾った年代物のネームバンド。
あれは、なぜあそこにあったのか?
気になった彼女は、それを一応お寺に持って行ってお焚き上げして貰ったそうだ。
「『その方が私も気持ちが楽ですしー』なんて言ってさあ」
おっとりした長嶺さんの口ぶりをまねる中田さん。
「あれからどうでした?」
「うん、それが嘘みたいにずっと何にもないんだよ。さすが長嶺さんだよなぁ」
「そうですか」
さすが、の意味がわからんが同意。
なぜ、長嶺さんがネームバンドを見つけたのか?
彼女はやっぱり不思議な人なのかも、と思った。
「俺も数値が良くなってさ、もうじき退院できるってよ。あの変な影、あれは死神じゃなかったんだなあ。佐々木さん、お互い気をつけてやってこうな」
「はい。中田さんも、大事にしてくださいね」
初めての入院は俺の中に奇妙で温かな余韻を残した。
でも入院は当分したくない。
健康第一、明日からまた頑張ろう!