絶望の果てにも光はあるのだ
分岐点は駅を降りた時だった。
早く帰るか、必要な寄り道をしてゆくか、どちらかを選ばなければならなかったわけで、私は「早く帰る」を選んでしまったのだった。
理由はある。
「風邪気味だったにもかかわらず、歓送迎会という名の苦行に出なければならなかったこと」
「その苦行で出された料理が、私の嫌いな辛くて脂っぽい料理だったこと」
「無能で馬鹿な上司が悪酔いして、そいつの面倒を見させられたこと」
……こうした事柄が重なって、私は心身ともに疲労困憊していたのだった。
もはや、早く帰って万年床に横になる事しか考えておらず、あの激辛料理で痛めつけられた私の口内を、冷凍庫の中にあるご褒美用のアイスクリームで慰めるのもいい……などと考えていたのだった。
それが、私の判断を曇らせてしまった。
間違った選択をしてしまった原因だったのである。
私の住んでいるアパートは、この駅からバスで二十分程の所にある。歩いて帰ることが出来ない距離ではないが、今回は夜風に吹かれて歩く気分と体調ではない。
バスに乗りたいところだが、最終バスに乗れるかどうかの際どいタイミングであった。
タクシーと使うという選択肢もあるが、有志という名目でありながら「強制参加」に近い催しである歓送迎会をはじめ、同期の連中の異動に伴う飲み会など、少々懐事情が心許ない。
小遣い節約のため、タクシーは使いたくないと思っていた。
それに、バスターミナルは歓送迎会シーズンで翌日が祭日ということもあり、酔ったサラリーマンが多く、終バスが出てしまうとタクシー乗り場は長蛇の列になる。
体調もあまりよくないので、この花冷えの空の下、ゾンビのようにタクシー乗り場の列に並びたくないというのもあった。
華麗にサイドステップしながら酔客を躱し、バス停に向う。
バスが最終便であることを示す赤いランプが行先表示の電光板に光っていて、疲れ切った人々がゾロゾロと乗車口に向っていた。
「座るのは難しそうだが、なんとか間に合うな」
そんなことを思った矢先、警戒警報が鳴り響いたのだった。
周囲の人は、その警報に気が付かない。
それもそのはず、この警報は私の内部だけで作動するモノなのだから。
私は、昔から身体機能を擬人化する妄想癖があり、『条件反射君』とか『免疫機能さん』とか『Mr.アレルゲン』とか、そういった登場人物で遊ぶのが密かな楽しみだったのである。
まぁ、ドン引きされるので誰にも話したことはないのだが。
警報は、緊急対策本部が立ち上がった際に、内部の統制を行う前頭葉セクションから派遣される私専用のオペレーターの音声だった。
ちなみに、このオペレーターは長い黒髪をポニーテールにした、クールビューティで表現されている。
先日「むり、ギブアップ」という台詞とともに別れた彼女と似ているけど、それは悲しい偶然だ。
「警報発令。腹部の蠕動運動に異常を感知。腹部に負担がかかる行動を抑制するよう願います」
オペレーターの娘さん、通称『オペ子さん』の冷静な声に、心臓が高鳴る。
同時にゴロゴログキューと、お腹が鳴った。
これはマズい傾向だ。
体調不良に加え、苦手な辛い料理を摂取、シュワシュワと発泡する苦い液体を過剰に摂取したことが原因で、便意と尿意が同時に襲ってきたのだった。
「警報、括約筋方面より、内圧の上昇を感知との報告あり」
「警報、膀胱方面より、警戒水域に近づきつつありとの報告あり」
オペ子さんから、次々と報告が入る。彼女はとても有能なのだ。
素敵な宇宙船『多鍵号』の統合作戦本部長の私は、その警報を受けて次の行動の決断を下さなければならない。
今は、異常に対応して、私の体『多鍵号』のスタッフが総動員で動いていた。
あ、多鍵っていうのは、私の名前です。はい。
危機を感知すると、脳内で緊急対策本部が立ち上がり、『アドレナ・リン』というロシア系の長身美女が各筋肉方面と汗腺方面に檄を飛ばし臨戦態勢を整える。
体内にあるアルコールから変化したアセトアルデヒドを毒物と認定し、『免疫機能』さんが加水分解を開始していた。
「駅に引き返すか、このまま帰宅するか、ご決断を!」
オペ子さんが、判断を仰いでくる。
私の統合作戦本部が緊急会議を開いていた。メンバーは、イケメンだけどいつも悲壮感漂う『悲観主義男君』、ギャル系の派手目の美人『楽観主義子さん』と、ちょっとおネェがかっている『合理主義姐さん』そして議長である私。
「おうちのトイレが一番安心じゃん。タクシーで行けば、五分で帰れるんだから、そうすればぁ」
こんなとき、真っ先に口を開くのは『楽観主義子さん』だ。
爪やすりで手の手入れをしながら、面倒臭そうに発言するのだが、不思議と議長(私の事だ)は、彼女の意見に流される事が多い。
議長(私の事だ)は清楚系が好きなのだが、意外とこういったアンニュイな派手目の娘もイケるという噂があった。
「今日だって、四千二百三十円も使ったんだよ? タクシーだって、千二百八十円の出費じゃないか! 今月の小遣いの残りが七千八百二十九円だから、残金二千三百十九円で一週間凌がないといけなってしまう!」
目にいっぱい涙をため、唇をわななかせて『悲観主義男君』が反論する。
彼は、悲観主義であるだけでなく、ケチでもあった。
『楽観主義子さん』は、チラっと『悲観主義男君』を見て
「うざ……」
と、だけ言って、爪のお手入れに戻ってしまった。
「まぁ、現実的な話、バスに間に合うかどうか微妙なラインだし、タクシーもすぐ捕まるとは限らないから、駅のトイレに向うのが合理的よねぇ」
『悲観主義男君』に流し目を送りながら、『合理主義姐さん』が発言する。
「僕は、『合理主義姐さん』に賛成です。ここで、緊急事態を緩和して、徒歩での帰宅を提案します」
投げやりな態度の『楽観主義子さん』を睨みつけながら、『悲観主義男君』が提案する。
「ええ~。ここの駅のトイレくさいし、汚いじゃん。休日前の夜とか、酔っ払いの吐瀉物もあるかも。それってイヤすぎるぅ」
二票「駅に戻る」に投じられ、不利とみた『楽観主義子さん』が議長である私を取り込みに来た。
わざと、脚を組み替えたのだ。
私が、脚が大好きなのを、彼女は良く知っている。
だが、私は公平なる議長。そんな稚拙な色仕掛けになどに惑わされない。
―― 仕方ない。バスは諦めて、駅に戻ろう。運動不足だったし、歩いて帰るのもよかろう ――
そう考え、「では、駅に……」と言いかけた時、
「なんかここ、暑くない?」
そんな事を言って『楽観主義子さん』が、ブラウスのボタンを二つ外したのだった。
ピンストライプのタイトミニスカートに白いブラウスという地味な装いに派手なくるくるカールの髪というアンバランスが魅力の『楽観主義子さん』だが、その胸も魅力の一つだった。
その谷間が、私の眼に飛び込んで来る。議長は、脚も好きだが、胸も好きという噂があった。
「それでは、このまま帰宅という方針で行きます」
若干裏返った声で、私は議長としてそう宣言してしまっていた。
「議長は、楽観主義子さんに甘すぎる! リコールだ!」
「そうよ、そうよ、簡単に色仕掛け転がされてっ」
「おまえら、うざ……」
議場は騒然となったが、方針が決まったのなら、行動を起こさないといけない。
「進路、最終バス。搭乗に向けて、各機関出力最大!」
アドレナ・リン姐さんの檄が飛ぶ。
腹痛に耐えて、脚を動かす。
冷や汗が、どっと流れた。
バスは、殆どの乗客が搭乗を終え、暖気を始めている状況だ。
「警報、括約筋方面より、内圧の更なる上昇を感知との報告あり。警戒態勢に入ります」
「警報、膀胱方面より、警戒水域に到達との報告あり。放流の許可を求めています」
オペ子さんから、切迫した情報が入ってくる。
特に、膀胱方面は危険だった。
「括約筋に増援。更に防備を固めるよう」
「放流許可申請を棄却。根性で乗り切れと伝えよ」
―― この期に及んで『根性論』?
という表情をしたが、オペ子さんはすぐに表情を隠して私からの指示を各機関に伝える。彼女はとても有能なのだ。
「括約筋への増援をしますと、移動速度が低下します。バスに間に合いません」
運動機能方面からの報告が上がってくる。
バスまでは、およそ二十メートル。
発車のブザーが鳴っており、通常なら間に合う距離なのだが、括約筋に兵力を裂いている現状では、絶望的な状況だった。
「だから、言ったじゃないですが、貴重な時間があなたの判断ミスで失われたのです」
悲観主義男君が、私を非難する。
私は楽観主義子さんに助けを求める視線を送ったが、彼女は欠伸をして眠そうにしており、私の視線には気が付かない様子だ。
「た……ただ、バス停に向っていたわけではない。この方向の先に、何があるか、思い出してみたまえ」
しどろもどろになって、私が悲観主義男君に反論した。
この先には、食料品フロアだけは二十四時間営業しているスーパーがあるのだ。
「なるほど! バスに向いつつ、間に合わなかったら、そのままスーパーに向かう算段だったのね。合理的だわぁ」
合理主義姐さんが感心してくれた。
「ふん、後付けに決まっている」
悲観主義男君が吐き捨てたが、実はその通りだ。
信号で、立ち止まる。その間に、括約筋方面の引き締めを図った。
膀胱方面の危険水域は、過去の災害に近い水域にまで近づいており、腹痛も相変わらずだった。
これは、何かにあたったのかもしれない。
「食中毒だったら、あの中華料理屋を訴えてやる!」
そうやって、怒りをかきたて、好戦的なアドレナ・リンさんにエネルギーを注入する。アドレナ・リン姐さんの活力源は『激しい感情』なのだ。
おもちゃの兵隊のような足取りで、信号を渡る。一瞬も括約筋方面の気が抜けないのだ。
エスカレーターを降りたら、そこから十メートルほどで、トイレである。
私は、すぐお腹を壊すので、「トイレに流せるティッシュ」は必ず持参しているし、行動先のトイレの位置は全て把握している。
このスーパーのトイレは、予備のトイレットペーパーが常備されているので、かなり安心なのだ。
エスカレーターというのも、括約筋を酷使しないので助かる。
素敵な宇宙船『多鍵号』クルーの中に、楽観ムードが醸成されつつあった。
この土壇場で、このトイレを思い出した、指揮官(私の事です)の有能さを称える声が、上がっているようだった。オペ子さんも、ほほ笑んで私を見ていた。
エスカレーターを降り切る。
トイレの所在を示す掲示板が、まるで福音のようだった。
そして、私は「絶望」を目撃することになるのだ。
「そ……そんな……」
めったにない事だが、オペ子が絶句した。
「あははは……、あなたの学生時代の仇名をお忘れか? 『なんてツイていないんだ君』だっただろう。きっとこんなことになると思っていたよ、僕ぁ」
例によって、悲観主義男君が嘆く。
私が見たのは、スーパーのトイレにかかる
『 故 障 中 』
……という文字だった。
膀胱方面から警報が鳴り響く。もう、放流して良い頃合いと思っていたところに、更に放流遅延の命令が下されたのだ。
現場からは、悲鳴の様な声が上がっている。
「膀胱方面から、緊急通報! 依然として水位上昇中! 間もなく決壊します!」
心なしか、オペ子さんの端正な顔もひきつっているようだった。
「みんな、屈してはならぬ! この難局を乗り切るんだ!」
私は、故障中の札を無視してトイレの中に入ってゆく。
内部は電源が落とされ真っ暗だったが、私は大まかな構造を記憶している。
「司令官! いったい何をされるのです!」
オペ子さんが叫ぶ。
「我々は今、複数の災厄を抱えている。そのうちの一つを解消しようというのだ」
私は、今、社会のルールを破ろうとしていた。
恥ずべきことだ。
あっては、ならぬことだ。
だが、今は緊急事態。
私には『素敵な宇宙船・多鍵号』を守る義務がある。
「チャック解放! 主砲、展開! 主砲、展開! 角度ヨシ! 方位ヨシ! 括約筋は不慮の事故に注意せよ! 放流準備! 放流準備!」
私の矢継ぎ早の指令に、乗組員クルーが対応してゆく。
「ああ……なんてことを……」
オペ子さんが、私がやろうとしている事に気が付いて顔を覆う。
「水門開放! 放て!」
危険水域をとっくに越えた膀胱が、一気に解放される。
私は、暗闇の中、すこし背伸びするような格好で、手を洗う所に放流していたのだ。
なんという罪悪感。
なんという屈辱。
照明が落ちたトイレの流しの鏡に、うっすらと己の姿が映る。
あさましい自分の姿を見なくていいのは、せめてもの救いか。
わが主砲に手洗いのセンサーが反応して、私の水流に混じって蛇口から水が流れる音がした。
「真面目か」
闇の中一人、機械に突っ込む。
緊張から解放されたせいか、笑いたくなったが、オペ子さんの声に我に返った。
「まだ、危機は去っていません。笑うと内圧が上昇し危険です」
そうだ。オペ子さんの言うとおり。
膀胱方面の危機は去ったものの、括約筋方面は未だ戦火が止んでいないのだ。
このまま、水が流れるかを確かめ、括約筋方面の鎮撫にかかるのもいい。
主砲を収納し、センサーに手をかざして、再び水を流す。
「本来の目的以外の使い方をしてしまって、申し訳ない。「手洗いさん」に、敬礼!」
多鍵号の乗組員が、一斉に「手洗いさん」に敬礼を送る。
結論から言うと、便器には水が流れなかった。
苦戦を続ける括約筋を抱えたまま、私は転戦を余儀なくされた。
今度は、昇りのエスカレーターを上がる。
お腹はゴロゴロと不気味に鳴り、私の脳内では、忙しく記憶関連のセクションが、次なる直近のトイレを検索しているところだった。
「ここから北に五十メートルのところに、パチンコ屋さんがあっただろう。そこを利用してはどうか?」
「いや、この時間は既に閉店している。二十四時間営業のファミレスか、コンビニしかあるまい」
「うむ、いずれも距離があるな。駅に戻るしかあるまい」
「また、信号で待つことになるぞ。もう、駅から離れすぎてしまった」
「公園の公衆トイレしかないな」
データを漁っていた、記憶担当の事務員たちが、結論を下す。
トイレットペーパーが無いことが多い公衆トイレだが、幸いにして「水に流せるティッシュ」を持参している。
汚くて、臭いトイレだが、もはや背に腹は代えられない。
「目標! 亀公園の公衆トイレ! 全速前進!」
……とはいっても、膝を曲げることすら危険な状態。
だましだまし、歩いてゆくしかない。
膀胱方面が沈静化したのがせめてもの救いである。
さっきまでは力むあまり、どっと汗が流れていたのだが、今はそうでもない。
ゾンビの様な足取りで歩いてゆく。
括約筋は、かなり善戦していた。
さすが、歴戦の勇者たちである。何度も、こうした危機を乗り越えてきた実績があるのだ(すぐ、お腹こわすので)。
夜風が火照った頬に心地よい。
城門を破ろうとする敵勢力には一定のリズムがあり、猛攻が続くとしばらく小康状態が続く。
今が、それだった。
この時間に、出来るだけ距離を稼ぎたいところだ。
あと、六十メートル。
間抜けな亀の形の滑り台が、街灯に照らされている。
五分咲きの桜の木が一本、公園の中で枝を揺らしている。
あたかも、私を励ますように。
ゴロゴログキューという地鳴りの様な音。
絶え間なく腹痛が襲ってくる。
だが、まだ戦える。
これは、人間の尊厳をかけた戦いだ。負けるわけにはいかない。
この年齢になって「敗け戦」とか、惨めすぎる。
痛みに耐えて歩いていると、悲観主義男君が愚痴をこぼしていてウザい。
「調子に乗って、しゅわしゅわする苦い液体なんか、飲まなけれよかったのに」
「危機管理が出来ていないんだよね。だから課長どまりなんだよ」
「すぐお腹壊す奴って、貧弱だよね」
など、こちらが反論できないのを良いことに、人格否定までしてくる有様だ。
「やかましい! 総括すんぞ!」
と、一喝して脅しをかけたかったのだが、私の口からでたのは、「はうう……」という情けない呻き声だけだった。
小康状態の間に、なるべく距離を稼ぐ。
変な歩きかたをしている私の脚の筋肉は、乳酸が溜まって疲労していたが、まだ前に、前にと動いている。アドレナ・リン姐さんが、頑張ってくれているのだ。
だが、その代償は発汗。
それと夜風が、『素敵な宇宙船 多鍵号』に、更なる試練を課すことになるとは、神ならぬ身の私には分からなかったのである。
最初に異変を感知したのは、血液中のアセトアルデヒドを加水分解することで、体の負担を軽減しようとしていた免疫機能セクションだった。
急激な体温の低下。汗が蒸発することによる気化熱の作用だ。
「これは、風邪に感染した可能性があるね」
「食中毒の疑いもありますよ」
「とにかく今は、免疫機能を阻害するアセトアルデヒドの排除に傾注しよう」
「風邪に関してはどうします?」
「強制排気を実施してくれたまえ」
その免疫機能セクションの会話を、オペ子さんが聞いていたのだ。
「司令官! 風邪に感染した疑いがあるようです」
私に報告が入る。
「お腹も痛いし、明日は安静にしないとね」
まだ、事態を深刻に受け止めていない私は、そんな受け答えをしていた。
「免疫機能セクションが、『強制排気』を計画しています。いいんですか?」
私の作戦本部の全員の顔色が変わった。
「マズい! 今、くしゃみはマズいぞ!」
体外に菌を排出する『くしゃみ』。なんと時速三百キロもの速度で、空気を噴出する身体機能だ。
そんなもの、今発生したら、やっと戦線を支えている状態の括約筋は持たない。
「中止させろ!」
免疫機能セクションに指令が飛ぶ。だが、この指令は『くしゃみ』をスタンバっている現場には届かない。これは、統合本部の指示で動く仕組みではなく、完全オートマチック仕様なのだ。
「不随意運動です。通信が届きません!」
オペ子さんが、手元のパネルをカチャカチャ操作しながら、言う。
「アブラ禿の馬鹿社長の訓示の途中、くしゃみを我慢したことがあっただろう。その記憶を検索しろ! 事態は一刻を争う! 大至急だ!」
一難去ってまた一難だ。公園のトイレまで、あと三十メートルほどだというのに。
「くしゃみ、発射まであと十秒。自動発射装置、カウントダウン始まりました!」
このくしゃみが意味するところを理解しているのだろう。
オペ子さんの声が、うわずっていた。
「記憶解析まだか!」
思わず催促してしまう。
「ここ数年で、記憶分野の劣化が激しいのです。無茶言わんでください」
忙しくキーボードをたたきながら、情報部門の職員が必死の解析を行っている。
―― ごめんね、ごめんね
私は心の中で詫びていた。
固有名詞とか、記憶に関しての劣化が進んでいるにもかかわらず、その対策を怠っていたのだ。
もっと大豆とか食べればよかったね。
脳トレとかもすればよかったね。
みんな、ごめんね。
「発射用空気注入、始まりました! 早く対策を!」
胸膜がけいれんし、「へっ…… へっ……」と空気を吸い込み始める。
「解析完了! 鼻を擦ってください!」
情報部門の職員たちは、最後まであきらめなかった。
それに応えるべく、鼻を乱暴に拭う。ヒコヒコと左右に鼻を動かす。
「発射中止コード、実行されました!」
オペ子さんの顔が輝いていた。
額の汗を拭った情報部門職員が、白い歯を見せる。
素晴らしいスタッフに恵まれた。
私は、すこし涙ぐんでいた。
再び『くしゃみ』を誘発させないために、ポケットからティッシュを取り出す。
腹に力を込めないようにして、そっと鼻をかむ。
―― 危なかった。 本当に危なかった。
もしも、「へっ…… へっ……」の後に「へっくしょん」とやっていたら、ギリギリで支えている括約筋方面に余計な圧力がかかり、戦線が崩壊していた可能性が高い。
「第三波、きます!」
オペ子さんの緊張した声。
危機を脱したそばから、腹部に異音が発生していた。
―― ぐるぐるぐきゅきゅきゅ~ん
かなり大きな波だ。回避したとはいえ、くしゃみによる内圧上昇は僅かながらあり、敵の攻勢が活発化してきたのである。
「耐えろ、耐えてくれ」
と、呟きながら、歩く。
腹痛がひどい。敵は固形より液体に近い部隊を前線に投入しており、必死の括約筋の防戦が続いていた。
大臀筋が悲鳴を上げていた。筋肉が攣るほどの疲労が、溜まっている。
「内圧、更に上昇中! 歩行も危険です!」
そんなに、追い詰められているというのか?
あと二十五メートルほどなのに。学校のプールほどの距離なのに。
「最終形態への移行を、具申します」
つとめて冷静な声を出そうとしていたが、オペ子さんの手が震えている。
「よし、防御最終形態への移行を許可する。最終決戦だぞ」
私は両足を揃え、つま先立ちになって、大臀筋と括約筋を閉める。
城門を突破しようと、激しい攻勢が続く。
私の喰いしばった歯の間から、呻き声が漏れた。
「司令官! 頑張ってください!」
祈る様なオペ子さんの声。
有能で、本当に良い子だ。
もし、この戦が終わったら、私はオペ子さんにプロポーズするつもりだ。
「乳酸数値上昇中。兵站線が持ちません」
「敵部隊の一部が突破した可能性あり」
「脚部の乳酸値、急激に上昇しつつあり。最終防衛形態を維持できません」
次々と報告が上がってくる中、ヘッドセルを投げ捨て席を立ったのは、楽観主義子さんだった。
「いやもう、無理っしょ。負けても死ぬわけじゃなし、同じ間違いくりかえさなければ、OK、OK」
彼女は、諦めてしまった。ばいばいと、手を振って、統合作戦本部を出てゆく。
この、敗北主義者め。いや、楽観主義か。
「おしまいだ、おしおまいだ……」
膝をかかえて蹲ってしまったのは、悲観主義男君だった。
その隣に、合理主義姐さんが座る。
「せめて、ズボンを脱いで、戦後処理を容易にしたらどうかしら? それが合理的よ」
などと、憐憫の眼で私を見ている。
彼女らが職場放棄したということは、私の思考能力が低下したということ。
パニックが起こりつつあった。
終わりのはじまりだ。
腹部に激痛が走る。
ぐるぐる鳴るのは、戦いの凱歌か。
まだ、括約筋は頑張っている。
絶望の果てに光はあると、信じているのだ。
痛みがふくらはぎに走る。足が攣ってしまっていた。
もはや、最終防御形態を維持することは敵わなくなってしまっていた。
転倒するまいと足を踏ん張る。
「……あぁ!」
また、敵部隊の一部が、前線を突破した。
頑張り続けていた、括約筋から通信が入る。
「願わくば、この経験が、後世の教訓になることを願います。最後の通信を送ります。われ屈せず! われ屈せず! ……願います。 ……送ります。 ……願います。……送ります」
気が付けば、オペ子さんが、倒れ伏していた。
最後まで、この危機管理センターに詰めつづけ、ついに力尽きたのだ。
記憶部門のスタッフが最後の力をふりしぼって、自動記憶装置を動かして、ばたばたと倒れてゆく。
もう、危機管理センターの機能は終わってしまった。
辛い。
現実はあまりにも辛すぎる。
「あと少しだったのだがな」
たった二十五メートル。
だがそれは、永遠の二十五メートルだった。
「君は、よく頑張ったよ」
少年の様な声。
死屍累々の管理センターに、一匹のイルカが泳いでいた。
空中を、まるで水中であるかのように。
「最後まで、あきらめなかった。誇っていいよ」
ああ、ついにコイツが出て来たか。
その思いがある。
コイツの名は、エンドルフィン。
辛いときに現れる、しあわせ物質だった。
括約筋が次々と討死してゆく。
不甲斐ない司令官で、本当に申し訳ない。
詫びても詫びきれない。
「だれも、君を軽蔑したり、恨んだりしてないよ。ボクらは、家族じゃないか」
そうか。そうなのか?
「やってしまったことは、しょうがないよ。結果は大事じゃないんだ。その過程が大事なんだよ」
でも、私はう○こ野郎になってしまった。
もしも、私が小学生なら、在学中の仇名は「○んこ君」になっちまうような、大失態を犯してしまったのだ。
「しかたないさ、食中毒なんだよ。君は、被害者。誇ることはないけれど、恥じる事なんかないんだ」
いつも、君は優しいなぁ。
三年前だっけ、膀胱方面が崩壊した時も、君は慰めてくれたね。
「それが、ボクの役割だからね」
崩壊が、始まりそうだった。
私は路上であるにもかかわらずズボンを脱ぎ、戦後処理を容易にした。
情けなさに、涙が出た。
それを袖で拭う。
「泣かないでおくれ。でも、辛いよね、辛いよね。せめて、いい景色を見よう。見せてあげるよ。思い浮かべてごらん」
くるりと空中で身をひるがえして、イルカがおどける。
「静かな草原。風が吹いているんだ。パタゴニアの風景だよ」
その風景をリクエストする。 パタゴニアになんて行った事ないけどね。
それどころか、私は海外に出たこともない。
崩壊が始まっていた。
だけど、私に見えていたのは、遥かなパタゴニアの風景。
聞こえるのは、さわさわと草を撫でる風の音。
太陽が見えていた。
ただ、ただ、まぶしかった。
絶望の果てにも光はあるのだ。
(了)