【ノヴァーリス4】
「ダリア軍が撤退……っ?」
兵からの報告にノヴァーリスは我が耳と目を疑った。
だが確かに土煙を巻き上げながら、ダリアの大軍が自分達に背を向けている。
ローレルたちと入り乱れ戦っていた一部のダリア兵には撤退を知らされなかったのか、味方が退いていく姿に戸惑いを見せていた。
「貴様たちはクライスラー様より、この戦場を死地と定めよとの命令だ!!」
レオニダスたちとローレルたちのそれぞれの戦場で同じ様な言葉を吐き出し、本軍からやってきたらしい最後の部隊長が馬を走らせる。彼が背負っている天竺牡丹の紋章が描かれた旗が虚しくバタバタと風を受けていた。
「後方より乱入してきた皇国軍にも痛手を与えて死ね!それが貴様らの米粒ほどの命が最期にやれる栄誉だ!……安心しろ、私は貴様らより多くの敵を道連れにして後を追う!!」
「……あれは……」
その姿を遠くから見て、僅かに唇を震わしたのはリドだった。
「……なんなんだ、アイツ。煩い男だな」
ヒュッ……と騎乗から放たれたカヤの矢が、檄を飛ばしていたダリアの部隊長である男の旗へと真っ直ぐ飛ぶ。見事に棒の部分を射ぬいた矢によって、旗は地面へと落ちた。
「ははっ!皇国アマリリスの姫君が何故か君を助けに乱入してきたようだねぇ。だからダリアのクライスラー王子は逃げた。彼らは見棄てられたんだねぇ~」
「黙りなさい。ムーンダスト、貴方は途中から知っていたのでしょう」
――だから先刻からずっと薄ら笑いを浮かべていたのよ。
ユキとレオニダスたちの元に駆け付けろと命令したにも関わらず、ムーンダストが真横で馬に乗っているのもそのせいかと、ほんの僅かにノヴァーリスは唇を尖らせた。
「……姫、……彼らは、もう……殆ど気力を折られてる……っ」
ノヴァーリスを包むようにしながら、馬の手綱を握っていたリドが震えながら必死に言葉を吐き出す。苦しそうに漏れたそれは、戦場の音や声が鮮明に聞こえるリドだけの苦悩だった。
「……リド。わかったわ。無益な殺生は私も望んでいない……。でも彼らは止まらないわ。ましてや敵国の王女である私の声では。……だから、リド。ハーディ。力を貸してくれる?……人が死を選ばないために」
ノヴァーリスの言葉に目を見開いたリドと、ローレルたちの元へと向かったジロードゥランには付いていかなかった――ハーディが同じように首を縦に振る。
刹那吹いた風はノヴァーリスの蜂蜜色の長い髪を乱暴に撫でた。
「もう少し近づいたら、ハーディの声をリドが彼らだけに届けて……内容は――」
再び縫っていた糸を千切り、ハーディが口を開く。
蛇のような彼の瞳孔は、ただ真っ直ぐに空に姿を表し始めた星たちを眺めていた。
「武器を捨てよ。そして投降しろ」
「?!な……っ」
ダリア兵たちの手から武器が零れ落ちる。
戦っていた相手の突然の姿にローレルやイヌマキたちは戸惑ったが、やがてノヴァーリスとリド、ハーディが近づいてきたのを見てすべてを悟った。
「お前たちを捕虜にすることもしない。ただ鎧を脱ぎ、祖国に帰るがいい。ただし、今度ロサに侵攻してきた時は容赦はしない」
それはレオニダスたちが剣を交えていたダリア兵たちも同様だった。
剣を捨て、鎧を脱ぎ、涙を流しながら彼らは生き残ったそれぞれの者たちの肩を抱いた。ただ一人を除いては――
「うぐぐ、……ぐるぁあっ!!」
「?!」
ハーディが男の唇から流れ出た鮮血にビクリっと肩を揺らす。
ドクドクと口の中いっぱいに広がった血が男の口から溢れ出ていた。
ギロリとノヴァーリスを睨み付けたのは、例の檄を飛ばし駆け回っていた部隊長らしき男だ。
男は何かを告げようとしていたが、ハーディの言葉の魔力に逆らうため、舌の深い部分を切るように噛んだらしい。その為、収縮した舌の筋肉が喉の辺りまで巻き込んで塞いでしまったのだ。
だがそれをノヴァーリスたちが理解できることもなく、どんどんと赤黒くなる顔色の男をただ見守るしかなかった。
鎧を脱いだダリア兵たちも、あまりの衝撃にハーディの魔力が薄くなったのかその場から動けずにいた。
「お前ら!そこを退けっ!!」
その時だ。
巨大な人形に近い白兎のぬいぐるみが戦場に降り立った。赤い瞳は幾つものビーズが固まって出来ていて、その二足歩行の姿形は見るからに触り心地が良さそうなものだ。
「ノヴァーリス様ぁっ!どうして戦場の真ん中にいるんですか?!」
「て、テラコッタ?!どうして貴女まで……っ?!」
巨大な兎のぬいぐるみの背に乗っていたのは、テラコッタと先程怒鳴り声を上げたジェイド、そして無事に動けるようになったらしいエクレールだった。
「エクレールさん、直ったんだ!」
「あぁ。そんなことよりジョエル。お前の主人に男の武器を取り上げろと言え。あと、手を押さえさせろ」
「ジェイドっ!どうして貴様は私に直接言わないっ?!ジョエルを一々通すなっ!」
馬上にスクラレアを残したまま、馬から降りて文句を言うレーシーを無視しながら、ジェイドは驚いているノヴァーリスの横を通り抜ける。そのまま清潔な白手袋を装着し、ゴフゴフ喉を鳴らして倒れ込んだ男の口に片手を突っ込んだ。
「な、何をしている?!」
「煩い、耳元で怒鳴るな。怪力女。と伝えろ、ジョエル」
「真横にいるんだから聞こえているわ貴様っ!喧嘩売ってるのか?!」
窒息しかけているのに、それでもなお抵抗しようとする男の体をレーシーが押さえ付ける。
ジェイドはふんっと鼻を鳴らすと、喉を蓋してしまっている舌の先端を引っ張って数ミリの空気が通る穴を作った。
「お前、勢いよく舌を噛み千切ったな。舌は筋肉で出来てる。噛み千切ると舌の筋肉が痙攣を起こして非常に強く収縮するんだ。それで窒息しそうになってた。エクレール!」
緑の光が男を包む。
エクレールの手から放たれる淡い光は、前にも増して鮮明だった。
「……くっ。ハァハァ……。取り合えず、舌の治療をエクレールがした。出血も止まっただろう?」
「何故だ……何故、助けた……?」
ジェイドの目の隈が酷いことに気付いたのは、その場で何人いただろう。乱れた呼吸を落ち着かせながら、ジェイドは眼球を動かして睨み付けてくる男を真っ直ぐに見つめた。
「それは俺が医者だからだ。……それにお前の馬鹿な行動をあの間抜けな姫は嘆くだろう」
ジェイドの視線を受け、ノヴァーリスが男に近付く。
「貴方の祖国への愛と忠誠はとても素晴らしいものだったわ。それに貴方は彼らすら救おうとしていた。死に名誉をつけて」
「は……ははっ!違う、な……。祖国への愛など……っ!私はただ見限っただけだっ!あのような冷血漢が次の王などと……!今の王も最悪だった!だがあれでは輪をかけて、だ!!だから見限ったのだ。なのに、生き恥を晒して帰るなどとっ!!私の信念が許さないっ!!」
男の声は何故かその場でよく響いた。
いつの間にかその場には、ハーディの言葉通りにダリアに戻ろうとしていた筈の者たちが、留まって固まっていた。
男の覚悟を決めた何かが、ハーディの魔力すらも超えてしまったらしい。
「……貴方の名は――」
「デュールアルベール……、ぼ、僕に乗馬の仕方を教えてくれた……方、です」
「…………っ、リド、王子……?……わ、私は夢を、見ているのか?」
俯きながら近付いて来たリドに男――デュールアルベールは明らかに動揺していた。
彼はノヴァーリスの祝賀会での襲撃には関わっていなかった為、リドはロサの兵によって殺されたというクライスラーの嘘を信じきっていた男の一人だった。
もちろん、その場にいたダリア兵たちも誰もリドが生きていたことを知らなかったし、魔法使いの巣である協会にいたことすら、寝耳に水だろう。
「デュールアルベール、リドは私たちと共に戦ってくれた大切な仲間です。少なくとも、貴方はリドと交流のあった方。……もし良かったら、彼を助けてあげてください」
「姫……っ」
リドの頬が少し赤らみ、泣き出しそうなほど切ない表情を浮かべたのを見て、デュールアルベールは四肢を押さえていたレーシーに短く離して欲しいことを訴えた。
レーシーの方は渋々だったが、彼から手を退けるとしっかりと自身の得物をすぐ取り出せるよう準備する。
「ロサの青薔薇姫、ノヴァーリス殿下。私はどうやら思い違いをしていたらしい。勿論、私はクライスラー王子よりもリド王子を好ましく思っていた人間です。気弱なところさえなんとかなればと、乗馬やら色々指南させていただいたのですが……」
「ひっ、ご、ごめんなさいっ」
リドが縮こまり瞬間的にノヴァーリスの背後に隠れるのを見てから、デュールアルベールは柔らかい微笑みを浮かべた。
「私の命はもうこの戦場で散るものだと思っていた。だが、貴女に出会い、そこの少年……いや、立派な医師に救われ、そして敬愛していたリド王子と再会できた。何を迷うことがあるだろう」
唯一ハーディの魔力に抗ったデュールアルベールの鎧が自らの意思で外される。
「この命、ノヴァーリス姫とリド王子の為に。どうぞお好きなようにお使いください」
「「俺たちの命もお使いください!!」」
その場に留まっていたダリア兵たちが一斉に両膝をついた。少なくとも、彼らも何か思うところがあったのだろう。
「デュールアルベール……、それに他の者たちも、ありがとう」
膝をついて頭を下げたデュールアルベールの手にそっと自身の手を添えたノヴァーリスだったが、その手がぐっと力強く握られて目を白黒させた。
「それでお二人の婚儀はいつです?ロサを奪還されたところですから、一週間後ぐらいですかな?」
「でゅ、デュールアルベール!な、にをっ!」
「そうだよっ!!ノヴァーリスは僕と結ばれる予定だからっ!」
突然声を上げたのは、レオニダスたちと共に近付いて来たオウミである。焦って真っ赤になったリドを押し退けてノヴァーリスの隣に立った。
「おやどこの馬の骨ですかな?頭も下半身も軽そうなこの若造は」
「すみません。一応ハイドランジア第一王子オウミ様です」
「一応じゃなくて、本物だよ!!い、いや、今は王位を捨てたような形かもしれないけどっ」
デュールアルベールに頭を下げたムッタローザにツッコミを入れつつ、オウミはもごもごと口ごもる。
その後ろで出ていくタイミングを逃したローレルが足踏みしていた。
「あぁ、そうだ。双子の片割れ」
「な、なんだ……?」
双子の片割れ、と言うジェイドの台詞にビクリと大袈裟に身体を反応させたのはスクラレアだ。
馬上で丸くなっていた背中が小刻みに震え始める。
「ここにいる。……こいつでいいか」
「は?」
ジェイドが懐から南瓜パンツを履いた王子様服を着た蛙の人形を取り出すと、何かを呟いた。それは古の言葉で今では古い魔法使いぐらいしか知らない言葉だ。
ムーンダストは訝しげに自分を睨むユキを横目にしながら、小さく口角を上げた。
蛙の人形が飛び出た丸い黒のビー玉をキラキラさせ、くるりと回転しながらスクラレアの肩に乗る。不思議なことに、その蛙の人形は風を操った。
縫われた口を自らの水掻きのついた手で引っ掻くと、プハーッと口を開ける。
「スクラレア!俺は大丈夫だから泣くんじゃないぞ!」
「なっ?!まさか……ファリナセア……?!」
「こ、これは……?!」
「っていうか、あれですわよね。皆様色々スルーしてましたけど、ジェイドさんから大量の魔力の流れを感じますわ」
目をこれでもかと大きく見開いたスクラレアと同じようにノヴァーリスたちも驚いていた。ゆったりとしたルビアナの台詞に何人かが頷く。
――そうだわ。大体、あの巨大な兎も……
「こいつはアル。アルベリックの魂を定着させた。ファリナセアの魂はまだ新鮮だったからな、だいぶ記憶も意識も残ってる。だから喋ることが出来るんだろう。普通、魂は徐々に消えていくものだ。無意識に親しかった者の側にいる……が――」
「ジェイド?!」
喋っている途中でジェイドの意識が途切れる。
倒れ込んだジェイドを支えたのはエクレールだった。
心配そうなノヴァーリスにムーンダストが自身の人差し指を唇に当てて答えた。
「彼は気づいてないけど、彼の魔法は無意識に魔力を垂れ流すタイプみたいだよ。そりゃあねぇ。これだけの人形たちにずっと魔力を渡している形なんだから。彼が体力面で人より劣っていたり、成長が著しくないのも、それが原因さ~」
「……どうして教えてあげなかったの」
「だって聞かれてないもん」
肩を竦めたムーンダストに隣でユキが腕を振り上げたと、それはほぼ同時だった。
「……ノヴァーリス姫。来タヨ」
ジロードゥランの台詞に誰もが顔を上げる。
ザザッと足並みを揃えた足音が綺麗に止まった。
「初めまして、ロサのノヴァーリス姫。オレは皇国アマリリスの皇女であり、嵐呼戦姫ミネルヴァだ。今回は借りを返しに来た」
勝色の一つに束ねている長い髪を揺らしながら、彼女は口角を上げ目を細める。それはまるで極悪人が浮かべるかの様な怪しい笑みだった。
次の一話で六章が終わりますー。
そして七章は、一部である夢現の青薔薇姫の最終章となる予定です<(_ _*)>