【ミネルヴァ】
元々皇国アマリリスは神を信じる国であったが、いつの間にか皇帝は民たちに神格化され、やがて彼ら自身も神を名乗るようになった。
「ええいっ!!スザンナ!アンビアンス!!やはりオレが出るぞ!!」
神の娘である皇女ミネルヴァが一つに纏めて結い上げている長い勝色の髪を揺らしながらそう怒鳴ると、彼女の護衛であるスザンナとアンビアンスの二人は慌てて頭を下げる。
「お、お待ちください!今貴女様が出ていっては……!」
「中央の守りが薄くなってしまいますっ!!」
涙目で訴えてくるスザンナと、事実をいつも的確に伝えてくるアンビアンスの台詞を聞き、ミネルヴァは苦々しい顔で思いっきり机を叩いた。丈夫な樫の木で出来た机が少しへこんだ様子から、相当ミネルヴァが苛ついているのがわかる。
皇国アマリリスとダリアの国境線の重要拠点となる砦の中央司令部の部屋の中で、ミネルヴァの怒号はよく響いていた。
「だったらどうしろと言うのだ!このままダリアの戦鬼とやらに左翼が蹂躙されるのを黙ってみていろと……?!」
「そうは言っておりません!ミネルヴァ様、落ち着いてください。苛ついては向こうの思う壺です」
アンビアンスの冷静な声に一度深く深呼吸すると、ミネルヴァは再び広げている戦場の地図を眺める。
――ダリアが遂に本腰を上げて攻めてきたというのに、ラビドは病に伏し、父上は戦に乗り気ではない……
「やはりオレが――」
「その前に俺を頼っちゃくれませんかね」
「――っ、バレンティノ!?」
ミネルヴァの声が僅かに上擦った。
それは予想だにしなかった人物がいつの間にか背後にいたということもあったが、その人物が長い間離れていた想い人となれば尚更だ。
ミネルヴァの表情が和らいだことに気付いたスザンナが小さく笑みを溢す。
「貴様、いつの間に帰って来ていたのだ!大体、帰って来るなら来ると、きちんと使い鴉を飛ばしてだな……っ!」
「いやぁ、姫さんの驚いたその顔が見たかったもんで。ただいま、ミネルヴァ様」
「お……お帰りなさい……っ」
バレンティノに頭をポンポンと撫でられたミネルヴァは男勝りな口調から一転して、口をモゴモゴさせた。真っ赤に染まって俯いた顔は、既に先程までの嵐呼戦姫と呼ばれる者の表情ではない。
十代の少女のあどけない姿に護衛たちは目を細める。
バレンティノはミネルヴァと一回りは年が離れている男だったが、端正な顔立ちをしていて筋肉質な体格の持ち主だった。クリーム色に近い髪色と焦げ茶色の瞳が落ち着きのある彼によく似合っているとミネルヴァは思っていた。
額に巻いているバンダナを整えると、バレンティノは戦場を模した模型をじっくりと見つめる。
「ん、やはり俺が左翼に小隊を連れて突っ込もう。ミネルヴァ様はここ中央を守った方がいいだろうと言いたいところだが、右翼に加勢してくれ」
「右翼は今のところ想定内の働きをしていますが?」
アンビアンスの台詞にバレンティノは苦笑しながら、トントンっと自身のこめかみ辺りを指でつついた。
「相手はあの戦鬼クライスラーだろ。だったら、右翼の後ろにある兵糧を狙うね。左翼で今暴れてんのは、所謂目眩ましってやつだ」
「そうなんですか?!だったら、バレンティノ様が右翼に突っ込まれた方が……」
「阿呆。それこそ左翼の綻びから一気に中央を取られるぞ」
スザンナの額を軽く指で弾くと、バレンティノは再び模型を見つめ瞼を閉じる。
「中央はお任せしますよ、ルードヴィッヒ様」
バレンティノの台詞に目を見開いて驚いたのは、ミネルヴァだけではなかった。慌ててスザンナとアンビアンスも片膝をついて頭を深々と下げる。
スザンナの薄桃色の髪は緊張の汗で肌に張り付いたし、アンビアンスも尊い存在に呼吸を整えるので必死だった。
「ち、父上、どうしてこちらにっ」
「お前にばかり任せていられないと判断したからだよ。……まぁその、本当は……クレマチスの偵察から帰還したばかりのお前の婚約者に何かあっては申し訳が立たないしな」
ミネルヴァと同じ勝色の長い髪を揺らし藍色の瞳を細めると、ルードヴィッヒは娘の頭を優しく撫でた。
シャラシャラと腕に着けている金の輪たちが音を立て、一つずつ輪に填まった様々な宝石がキラキラと輝いていた。
「それとな、ラビドの意識が戻ったそうだ。これで憂い無く戦えるか?」
「ラビドが……っ!えぇ、はい!心置き無く暴れてやりますっ!!」
ルードヴィッヒの言葉にミネルヴァはニヤリと笑う。その笑みはどこか邪悪な笑い方だったが、その場にいた全員がいつものことだと知っているため、特に気にした様子はない。
「スザンナ、アンビアンス!嵐呼戦姫ミネルヴァ、出るぞ!そして敵の陣に食らいつき、この皇国の牙が全て平らげてやる!!」
「「はっ!!」」
戦場に出陣する前、ミネルヴァはいつも檄を飛ばす。
広場に集まっている兵たちがその声を聞き、各々心の底から雄叫びを上げた。重なりあうそれらが熱気を呼び、まるで一つの塊のようだ。
だが熱気が最高潮に燃え上がったその刹那、急報の鐘が鳴り響く。
「……る、ルードヴィッヒ様っ!ミネルヴァ様っ!!大変です!!北からクレマチスの軍が!!帝都を狙って南下しておりますっ!!」
「なんだと……っ?!」
息を切らしながら中央司令部に駆け込んできた伝令兵の言葉を聞き、ルードヴィッヒは顔面蒼白した。
ミネルヴァとバレンティノも額から、たらりと汗を流す。
「ま、待て……!帝都には今、ラビドの親衛隊と……帝都を守る三千の兵しか残っておらぬぞ……!数十万規模のダリアのこの軍団に対抗するため、北の国境兵も最低限の数しか……!よもやこのタイミングでクレマチスが動くとは……っ!父上っ!!」
「……私が此方に移動してくるのも判っていたかのようなタイミング……。まさか……、ダリアとクレマチスは始めから示し合わせていたのではないだろうか」
ミネルヴァの声にルードヴィッヒは瞼を閉じたまま、震える手を自身の口元に持ってきた。
美丈夫と呼ばれるほど、端正な顔立ちのルードヴィッヒだったが、その表情は焦りで歪んでいた。
――このままでは、母上がっ、ラビドがっ!!
ミネルヴァもギュッと瞼を閉じ、自身の拳を肉に爪が食い込むほど握り締めた。ポツリと赤い粒が指の隙間から一滴零れ落ちる。
『私はロサの王女、ノヴァーリスです。今からここに流すことは真実の記録となります……』
「な、今度は何だ?!」
司令部の中にいた全員が絶望を感じた瞬間、頭の中に響くような声に顔色を変えた。ミネルヴァの声に反応するかのように、スザンナが扉を開け、広場にいる兵たちの頭上の空を見上げた。
いつも彼女は太い困り眉だったが、それが驚きのあまり眉間に寄っている。また癖っ毛の肩にかかった髪が揺れる。
「ミネルヴァ様っ!空に……!空一杯に映像がっ!!」
「何っ?!」
スザンナの声に反応し、声を発したミネルヴァと共に全員が外に出て空を見上げた。
広場の兵たちも食い入るように空を見上げている。
雲一つない青い空に浮かぶのは、蜂蜜色の髪をしたあどけなさが残る少女だ。
「ロサの王女というと、反逆者に拐われたとかいう青薔薇姫では?」
襟足で切り揃えた黒い髪の中、首の後ろの一部だけ尻尾のように三つ編みで結った部分を揺らし、アンビアンスがミネルヴァの耳元で囁いた。
ミネルヴァはゆっくりと息を吐き出す。
「この者がロサの青薔薇姫……」
『もう一度名乗ります。私はロサの王女、ノヴァーリスです。今より流す映像は真実の記録です』
再び名乗ったノヴァーリスから、空に浮かぶ映像が切り替わり、夜の景色の中に浮かぶロサの王宮に黒装束の男たちが現れた。そして天竺牡丹の紋章を付けた兵たちが黒装束の男たちと王宮内の全ての者たちを殺し始めた。
やがて女王ルドゥーテの自室に移り、女王の兄であるグレフィンの裏切りから、反逆者として処刑されたと聞いた女王の伴侶アシュラムが妻と娘を守るため嘘を吐いたところまで流れる。
アシュラムの処刑シーンに映像が移り変わると、同じように首を晒された男たちの胴体が映り、空一面に黒の月桂樹の胸元の紋章の入れ墨が映し出された。
『あ、あー、……んんっ、俺は黒の月桂樹の生き残り、ローレルだ。証拠はこの入れ墨な。そしてこれがダリアの貴族が俺ら盗賊に殺せと大金と共に依頼してきた似顔絵。ダリアの貴族様がロサの王族を全員殺せと命令したのは確かだ』
三白眼の男の証言が流れ、次に映ったのは、精神が病みロサで自室に閉じ籠っているという女王その人だった。
『私はロサの女王、ルドゥーテ。この通り、私はノヴァーリスと一緒にいます。それまではダリアと共謀した簒奪者である兄グレフィンによって幽閉されていましたが、そこから逃げ出し、無事に娘と合流したのです。……そう、ここは死神男爵ジロードゥランの領地。この声を聞く者よ!殺された我が夫は無実であり、その弟レオニダス候も無実だ!!今、ロサの王座に座っている者は、卑劣な罠で私たちを貶めた簒奪者なり!』
凛と響くその声はよく通り、また耳にとても心地好かった。
『私たちは明日の正午、王都を取り戻すべく出陣します。私たちが戦う相手は簒奪者グレフィン。そしてそれに協力したダリアのみ!それ以外の者たちは武器を捨て降参するか、もしくは武器を持ち私たちと共に簒奪者と戦いなさい!』
女王ルドゥーテの表情が険しくなり、響き渡る声はきっと今回の出来事全てに疑問を抱き始めていた者たちにとって、五臓六腑に染み渡るものだったに違いない。
『……グレフィン伯父様、貴方がどんな言い訳をしようと、私は決して貴方を許さない。お父様と同じように、いいえ、もっと残酷に、私は貴方を殺します』
最後にノヴァーリスがそう言って、巨大な空というスクリーンから映像が消えた。
それから須臾にして、ダリアの大軍が退き始めたのだ。
「……は、ははっ!ロサの青薔薇姫、ノヴァーリスか。大きな借りを作ってしまったな……」
退いていくダリア軍を眺めながら、ミネルヴァはポツリと呟く。律儀な性格である彼女は口元に笑みを浮かべると、嬉しそうに目を細めた。
それからルードヴィッヒにこの戦場に残るよう続けてから、バレンティノと一緒に北のクレマチス軍へと目を向けることにする。
――まぁ……ダリアが退いた以上、クレマチスもすぐに撤退するだろうがな。
「たがその前に、卑劣な策略断固許すまじ!!嵐呼戦姫の名に置いて、このミネルヴァがクレマチス軍の両翼食らい尽くしてやるわっ!!」
調子を取り戻したミネルヴァの威勢の良い声にバレンティノは小さく微笑むのだった。