【リド】★◎
愚鈍のリド。
そう呼ばれることをリドは一欠片も気にもしていなかった。
その名で呼ばれるようになってから父と兄に何も期待されなくなったからだ。終始ダリアの王族としての重圧を掛けられずに済むのならば、何をどう思われようが関係ない。
それよりも彼は動物たちと戯れ、花と語らい、何よりも愛しい音楽を続けられることの方が大事だった。
そして愚鈍だからこそ舞い込んできた婚約の話が破棄にさえならなければ、彼にとって最高の人生だと言えるだろう。
「は、初めまして……っ、ぼ、僕の名前はっ、リド、と、も……申します」
リドは自分を案内し前を歩く執事があまりにも眉目秀麗だったために、婚約者への挨拶を失念してしまっていた。慌てて言葉を紡いだが自分自身でも何を発したのかわからない。
――あぁ、ただでさえ薄気味悪い容姿だというのに、これでは姫に嫌われる。
兄であるクライスラーとは腹違いの為、髪や瞳の色も、顔付きでさえ全く違った。そもそもクライスラーは父であるスパルタカスに似ているのだ。スパルタカスの魂を滾らせているかのような黄昏色の瞳以外は。
「……初めまして。お会いできてとても光栄です。私がノヴァーリスです。リド様をお迎えする準備ができていなくて申し訳ありません。てっきりパーティー会場でお会いするものだとばかり思っていましたから」
いきなりの訪問だというのに慌てた様子はなく、ノヴァーリスは落ち着き払った声でリドに挨拶を返した。可憐な声音ではあったが嫌味も含まれていることにはリドも気付いていた。気付いていたが、リドは初めて会ったノヴァーリスの容姿と所作にすっかり見惚れてしまっていた。
艶やかな蜂蜜色の髪は真っ直ぐに伸びていて、癖の一つもなかった。左右対称に絡められた彼女の瞳と同じコバルトブルーのリボンが髪に映えて美しさをより際立たせている。
真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳はまるで晴れた空を一部切り取って宝石として閉じ込めたかのようだ。
透明感のある滑らさな肌も、ふっくらと咲いた赤い唇も、すべてがリドの探し求めていた人だった。
「あぁ……、閉月羞花とは姫のことです……」
「あ、あ、ありがとう、ございます」
ノヴァーリスの礼が聞こえて、リドはうっかり口に出してしまったことに気づきハッと顔をあげる。
そこには頬を赤らめて部屋の隅を見ているノヴァーリスと、驚いたような目で若干表情筋を引きつらせている眼鏡の侍女と、笑いを堪えているかのような仕草の執事がいた。
「ぼ、僕は……また……っ!も、申し訳……っ、僕は昔から、独り言が……か、考えを口に出して……しまいっ」
頭で考えていた筈のノヴァーリスへの賛辞を全て口に出してしまったのだと、リドは居たたまれなくなって床を見つめることしかできなかった。
穴があったら入りたいとはこの事だ。
――勇気を出して会いに来たというのに、僕は絶対に嫌われるっ!
「多少驚きましたが、嫌ではありません。むしろダリアの第二王子様であるリド様のことを好きになりました」
「……え?」
まさかまた口から出ていたのだろうか。
床に敷いてあった刺繍の美しい絨毯から目線をノヴァーリスに向ける。彼女の満面の笑みがリドには眩しかった。
「リド様。此方に」
「え?え?!」
気付いたときには強引に部屋の奥にある廊下には面していない扉から隣の部屋にあるテラスへと連れていかれた。ノヴァーリスから繋がれた手の温もりに顔中から火が出そうだったので、着いたときに手を離されて残念ながらも助かったと思った。
「白魚のような手で……あっ!」
ばっとリドは両手で口を塞ぐ。
目線だけを動かしてノヴァーリスを見れば、彼女はふふっと小さく吹き出していた。
執事と侍女はテラスには入ってこないようで部屋の中で待機している。
「ねぇ婚約者だもの。リドと呼んでいい?」
「は、はい!」
突然砕けた言葉遣いになったノヴァーリスだったが、リドはまったく気にならなかった。むしろ嬉しい。
「リドも私には気を使わないで。……私、正直に言うとダリアの方々を警戒していたの」
「わかる、よ……。父も兄も、僕からしても……恐ろしい、から……」
恐ろしい、などと姫にこんなことを話してもいいのだろうか。と思案しながらもリドは正直に気持ちを吐露した。
自身の骸骨のような手を震わしながら、リドは視点をオロオロとさせる。間髪入れずにその手にノヴァーリスの手が伸ばされた。
「っ……き、気持ち悪くないかい?」
「全く。……リドはヴァイオリンを弾くでしょう?とても好きなのね」
右手の人差し指の胼胝と、首もとにある胼胝に軽くノヴァーリスの指先が触れる。それだけでリドの心臓は早鐘を打ち、音は部屋の中にも聞こえるのではと思うほど大きかった。
「それにしても、リドがここにいるということはスパルタカス王とクライスラー王子も既にご到着されているということ?」
「あ……いいえ。僕はハルデンベルク家の皆様と一緒に来たから」
「え?グレフィン伯父様たちと?」
リドはノヴァーリスが目を見開いて驚いたことにビクリと身体を一瞬硬直させた。
ロサのルドゥーテ女王の実の兄であるグレフィンは六年ほど前から二カ国間を行ったり来たりしている。それは女王も承知の外交だとリドは思っていた。
だがもし父であるスパルタカスとグレフィンの取り交わしが女王の諾了なく行っているものだとしたら、今ノヴァーリスに漏らしたことは父の考えに背くことではないのかと焦った。
「え、えぇ。六年ほど前からこちらで……何か商売をされているようで……」
「そうだったの。親交があったとは知らなかったわ」
訝しげに眉根を寄せたノヴァーリスに、リドは父親の姿が脳裏をちらついて心苦しくなる。
「あ、そ、そういえば、あ、アストリットさんも今宵の宴を楽しみにしておられましたよ」
「……そう、アストリットが」
アストリットはグレフィンの一人娘であり、ノヴァーリスより二歳年上だった。この城に向かうための馬車の中で至極楽しそうに笑っていたアストリットを思い出しながら名前を出したのだが、ノヴァーリスの表情は暗いままだった。むしろ少し嫌そうな顔をしたのかもしれない。
「あ、アストリットさんもお綺麗でしたが、ぼ、僕は、姫の方が……っ、今まであった誰よりもき、綺麗だと!」
顔を真っ赤にして必死に言葉を紡ぐ。
昔から心の機微に敏感だったリドはノヴァーリスの僅かな変化に憂慮したのだ。
「リドは優しいのね。一体どんな愚者が貴方を愚鈍だなんて言ったのかしら。貴方は絶対に愚鈍なんかじゃない。私も誤解してたわ。ごめんなさい」
「え、そ、そんな……!僕は何もっ」
悲鳴のように声をあげて否定するが、ノヴァーリスはそんなリドに微笑む。
「私、貴方が私の婚約者で良かった」
そう続けられ、リドはぎゅうっと心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。
――この方が愛しい。
これほど誰かのために何かしたくて堪らなくなったのはリドにとって初めてだった。幸せにしたい。この人の隣でずっと支え続けることができたらどんなに素敵なのだろうか。
鈍色のうねりのある自分の髪が緊張の汗でべたりと額や頬にくっついている。父親に唯一似ている部分が癖のある毛だけだとはと昔自嘲していたこともあった。
「瞳の色、綺麗な紫ね。アメジストみたいで美しいのに、どうしてそんな前髪で隠すの?」
「め、目の下の隈が酷いから……っ!」
ノヴァーリスに褒められるだけで、心が温かくなる。嫌いだった部分を好きになっていけそうな気持ちにすらなった。
「……女王様に僕はまだお会いしたことがないけど、きっと……、姫のように素敵な方なんだろうね。……青のダリアだからと弟を殺した父なんかと違う、……優しい人……。……可哀想なソウウン……っ」
「……青のダリアには名前が?」
リドは頭を小さく振ると、ノヴァーリスを真っ直ぐに見れないまま今まで誰にも口にしなかったことを話そうと思った。
「名付けの儀は中断されたから、弟に名はないよ」
ただ弟はその後、彼の部屋になる予定だった場所にいた。揺り篭に揺られ、一人ぼっちで。
六歳だったリドは好奇心で彼を見るために揺り篭の中を覗き込んだ。部屋の大きな窓から、城の裏手に広がる湖が空を飲み込んだようにキラキラと光輝いていたのを今でも覚えている。
『あう……』
『っ!』
黒い髪を少しばかり生やした赤子は目を瞑ったまま、リドの人差し指をぎゅっと握ってきた。その時胸が酷く締め付けられた。
「この子が今から殺される……、僕は初めてそこで父に恐怖を覚えたんだ。隣の部屋では気が狂ったように啜り泣く彼の母親の声が聞こえていて……今も思い出せる、悲しい音……」
彼の母親と言ってから、リドは自分達兄弟は全員母親が違うのだと続けた。一番目の妃は暗殺され、二番目の妃はリドを産んで死んだ。三番目の妃は息子が殺されたことにより精神が錯乱し自殺したのだと。
「僕は湖に浮かぶ雲が脳裏に離れなくて、それから弟のことをソウウンと勝手に言ってるんだ……」
「そうだったの……」
がたりと、部屋の中で執事が懐中時計を落とした。
それを横目で見て、ふとリドは首を傾げる。
「あの彼は……」
「シウンのこと?」
――どこかで……会った?
先刻まで気付かなかったが、どこかで見覚えがあるような気がした。
「……リド。雲が空を覆ってきた。ここからの夕日はとても綺麗だったから見せたかったのだけど」
残念そうに呟いたノヴァーリスと同じように曇天を見上げて、リドは小さく息をつく。
ドキドキと心音が煩くなったのは、ノヴァーリスの隣にいるからか、これから起こることへの胸騒ぎだったのか、この時にはわからなかった。